アンゲロプロス『旅芸人の記録』やカサヴェテス『こわれゆく女』に匹敵する|藤井光 【『第七の男』を読んで #1】
英国を代表するストーリーテラー、ジョン・バージャーと写真家ジャン・モアによる1975年の知られざるルポルタージュ『第七の男』。欧州の移民問題の核心に迫った半世紀前の名著が、2024年の日本で初めて翻訳されることの意義、そしてそれを読む体験の鮮烈さを、現代美術家・映像作家の藤井光が綴る。
Cover Photo: スニオン岬の観光客。ギリシャ。『第七の男』より
© JEAN MOHR, 1975/JEAN MOHR HEIRS, 2024
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米国バイデン大統領から「外国人嫌い」の国として名指しされているが、欧州諸国の極右指導者は外国人労働者を対処する日本の法律を称賛している。はて? 低賃金ですぐにクビが切れる労働者として、還元すべき社会資本を最小限に抑え、監視、搾取、排除できる。植民地時代に由来する古風な社会経済システムを保持している国民一人ひとりは、(自らにも降りかかる)その暴力性に無自覚でいられる。その日本で、外国人労働者の受け入れを拡大しようとしている今日、本書が日本語で翻訳された意義は計り知れない。
『第七の男』は、最高のエンターテインメントだ。例えるなら、アンゲロプロスの『旅芸人の記録』やカサヴェテスの『こわれゆく女』といった時代を超える映画に匹敵する。シーケンスが進むごとに、自分のいる世界から見えていた世界は解体され、他者の世界から見るものへと組み立て直されていく。それは心地よくも衝撃をともなう革命的な体験となる。
『第七の男』がまなざす移民労働者の経験は、日々の暮らしのなかでは見えてこない。彼らは、コンビニのレジに、介護の部屋に、工場の一室に、農場の一角に、港や建設の現場にいる。誰しもの身の回りに存在し、あらゆるモノに彼らの労働が潜在する。それでも「見ること」はできない。労働力不足を補う多国籍の集団としではなく、一人ひとり別個の個人として、歴史や感情や家族を持つ人間に依拠した存在として認識することができない。それは何故なのか。現実のなかで「見ること」それ自体を問い直す視覚論の実践としても、『第七の男』を手に取り、彼ら・彼女らをまなざしてほしい。
藤井光|Hikaru Fujii 美術家・映像作家。1976年、東京都生まれ。パリ第8大学美学・芸術第三博士課程DEA修了。映像メディアを中心にアーカイブ資料などを扱い、現代とつなげることで、人びとの記憶・歴史や社会の関係性を再解釈し、問い直す作品を制作している。2022年「Tokyo Contemporary Art Award(TCAA)2020-2022 受賞記念展」(東京都現代美術館)に出品された「日本の戦争美術 1946」(かつて米軍が開催した展示を、実物がないままに“再現”する試み)など、その試みは絶えず注目と議論の的となっている。
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