レベッカ・ソルニット、アリ・スミス、キム・ソヨン、LE SSERAFIMが敬愛する英国人作家は、いかに移民問題を描いたか|若林恵 【『第七の男』刊行に寄せて】
移民問題は、アメリカをはじめ世界各国で今や最大とも言える政治課題となっている。移民労働者の増加は、雇用はもとより、国内の住宅、医療、教育、治安をめぐる社会制度を圧迫する。けれども移民労働なくして、わたしたちの経済はもはや回らない。議論はずっと平行線をたどる。そして、それはいまに始まった話ではない。移民問題の不正義を問うだけでなく、それを指摘し告発することの矛盾や困難と向き合った本が、いまからちょうど50年前に刊行されている。
英国の作家ジョン・バージャー(1926-2017)の『第七の男』(A Seventh Man)がそれだ。美術批評家でもあり、小説家でもあり、詩人でもあり、ジャーナリストでもあったバージャーは、当時すでに社会問題化していた欧州の移民問題を、新聞的な社会派ルポルタージュとも客観的な社会学的エッセイとも異なる独自のやり方で描き出した。文章と写真とを用いて移民問題の核心にある「不自由」へと迫った奇妙な「告発の書」は、半世紀を経たいま、いっそうのリアリティをもって読む者に迫る。
スーザン・ソンタグが「比類なき存在」と賛辞を寄せ、レベッカ・ソルニットが「限りない感謝を抱いている」と愛着を述べ、韓国の詩人キム・ソヨンが「わたしたちが最も長く愛する作家」と敬愛し、LE SSERAFIMのユンジンが鞄の中にその本を忍ばせる孤高の文学者/ストーリーテラー、ジョン・バージャーとは何者なのか。そして知られざる傑作『第七の男』は、なぜいまなお、そのインパクトを失わないのか。
初邦訳となる『第七の男』の編集・翻訳に参加した、黒鳥社の若林恵が綴る。(WORKSIGHTニュースレターより転載。一部変更あり)
Text by Kei Wakabayashi
Photos by Hiroyuki Takenouchi
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現在地:2024年の移民問題
2024年2月27日にGallup社が発表した調査によると、2024年のアメリカ大統領選において、有権者が最も気にかけている社会問題は「移民」に関するものだという。バイデン大統領が政権を担ってから実に900万人もの移民がアメリカに殺到していると言われる。それは雇用はもとより、国内の住宅、医療、教育、治安をめぐる社会制度を圧迫する事態となり、30%近い有権者が、これを最優先の政策課題として挙げている。
壁をつくり移民の流入を厳しく制限することを謳って大統領となったトランプに対抗すべく、移民問題に対して寛容な姿勢をとり続けてきたバイデン大統領も、選挙戦を戦う上での不利を悟ってか移民をめぐる問題に目を向け新たな政策を掲げてはいるが、共和党が多数を占める下院によって足踏みを余儀なくされている。どちらの陣営が移民問題において手柄をあげるのかをめぐるこうした鍔迫り合いは、移民問題が間違いなく大統領選の最大の争点であることを表している。
移民の問題は、言うまでもなくアメリカだけの問題ではない。欧州における右派勢力は多くの場合、移民問題を争点に支持を拡大している。国内の雇用、住宅、医療、教育、治安をめぐる社会制度を移民たちが圧迫しているという懸念が「先住」の国民の中に不満と反感を押し広げた結果、「先住」の国民の暮らしを守ることを謳ったナショナリスティックな政治勢力が支持を広げているのは、アメリカと同様だ。
こうした政治勢力は、西側のメディアでは、ことさら「極右」「全体主義的」と強調されるが、それはそうだったとしても、それを非難する「移民をよしとする側」は、一体何を根拠として移民の大流入をよしとしているのだろうか。世界銀行は、2023年に発表したレポートを紹介しながら、移民の価値を自身のウェブサイトでこう説明している。
移民は経済発展のためには不可欠な存在であり、雇用をさらにグローバルに流動化させることが、高齢化する先進国においても、移住労働者を供給する国々においても今後ますます重要になると、このレポートは語る。そして具体策とも呼べないような実行案をこうアウトラインする。
レポートは、現在社会問題化している状況をさらに加速させることを推奨し、すでに抜き差しならない状況に陥っている社会問題に対しては、「対処すべき」だと言う。対処しろと言ってできるものなら、ここまで問題化していないはずだが、それは世界銀行が考えることでもないということなのだろう。そういえば以前、ウクライナにおける紛争について、ウクライナ国民が数百万人単位で国を離れ、移民・難民化するのは「欧州大陸経済にとっていいことだ」とするSNS投稿を見てぎょっとしたことがあるが、この投稿をしたのは、新自由主義経済のグローバル化の黒幕として世界銀行とセットでよく槍玉に上がるIMFだった。
日本の現実を見ても、コンビニエンスストアや建設現場などはすでに外国人労働者を抜きにしては立ち行かないであろうことは容易に想像できる。そして、その状況が加速すれば、移民排斥を訴える声がいま以上に高まることは避けられないことのようにも思える。とはいえ、あまりナイーブに移民排斥の声を「ヘイトだ」と退けてしまえば、どこか偽善的にもなる。コンビニが無くなったら、やはり自分は困ってしまう。
第七の男:ジョン・バージャーと移民問題
移民の問題は決して新しい問題ではない。いまからほぼ50年前に執筆・刊行されたジョン・バージャーと写真家ジャン・モアによる共著『第七の男』は、まさにこの移民問題を扱った本だ。1974年の政治・経済状況を背景に書かれた一風変わったルポルタージュは、欧州の中を移動する労働者たちの姿を描いている。2010年に書かれた新版の序文でバージャーは、こう書いている。
たしかに本書に記録された数字は、本人が語る通り時代遅れとなっている。けれども、グローバル化した移民経済を擁護する人びとの論法を取り上げ、それが口先だけで一向に改善される兆しもないことをバージャーが非難するのを読むにつけ、その論法が、先の世界銀行の移民推進論にまで変わることなく継承されているか、そして問題が50年前からいかに変わっていないかに、イヤでも気づかされる。
こうしてバージャーは、移民労働というものが、いかに資本主義経済にとって「都合がいい」ものであるかをさまざまな角度から検証し、批判していく。「マルクス主義者」であることを2017年に没するまで終生公言して憚らなかったバージャーからすれば、上記のようにジャーナリスティックに資本主義を批判することはたやすかったはずだ。
だが、バージャーには、美術批評家であり小説家でもあるという別の顔もあった。『第七の男』を他とは一線を画する「告発の書」にしているのは、彼が移民という問題を語るにあたって、かなり込み入った回路からアプローチした点にある。
ものの見方:最も影響力のある美術批評
ジョン・バージャーの名前が広く知られているのは、文学やジャーナリズムよりも、むしろ美術の世界においてだ。バージャーの母国である英国のみならず欧米の美術系の学生はバージャーの『Ways of Seeing』(意訳するなら「ものの見方」)というエッセイ集を美術理論を学ぶにあたっていの一番に読まされるという。欧米の美術館のミュージアムショップで、この本を見かけないことはない。「最も影響力のある美術理論書」と検索をしてみても、多くのリストの上位に本書は挙げられている。日本でも『イメージ:視覚とメディア』というタイトルで、ちくま学芸文庫に収められているが、欧米での影響力と比べるなら日本におけるそれは微々たるものにとどまっている。
『Ways of Seeing』という本は、元々BBCで放映された4回シリーズのドキュメンタリーを書籍化したものだ。その点で「美術理論書」と呼ぶに相応しいものであるかどうかは疑問符がつく。そもそもバージャーを美術理論家と呼んでいいのかどうか判然としない。にもかかわらず、彼のエッセイがいまなお大きな影響力をもっていることにはわけがある。
『Ways of Seeing』は、TVドキュメンタリーと同様に「イメージの変容」「『見ること』と『見られること』」「所有するタブロー」「広告の宇宙」の4章で構成されている。
第1章でまずバージャーは、カメラという複製技術が、美術にいかなる変容をもたらしたかを分析する。ここでバージャーはヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』を下敷きにして論を進めるが、これが、少なくとも英語圏において幅広くこの小論が知られる契機になったと言われる。そして彼は、複製技術によってかつて芸術が保持していた権威性がいかに剥奪され、それが「イメージの言語」になったかを語り、「これらの言語を誰が、何のために使うのか」という問題を提示する。
続く第2章は、突然「ヌード」の話になる。ここでバージャーは、女性の裸像にどのような含意が込められてきたかを、西洋美術史をたどりながら説明する。そして、ある時代には神の名において(「女との関係において男は神の代理人となった」)、別の時代には、絵の「発注者=鑑賞者=所有者」によって(「彼女は彼女である時は裸ではない。彼女は鑑賞者が彼女を見るから裸なのである」)、いかに女性の裸がオブジェクト化されてきたかを明かしていく。
BBCのドキュメンタリーには一般女性による座談が含まれており、そこでは美術史上の名画に描かれた女性のヌードが、いかに自分たちに対して抑圧的に作用してきたかが赤裸々に語られる。ここで主題となっている、女性に対して抑圧的に作動する「gaze=男性中心の目線」という問題は、『Ways of Seeing』の刊行翌年に執筆され、1975年に発表された映画批評家のローラ・マルヴィのエッセイ「Visual Pleasure and Narrative Cinema」において「Male Gaze」という概念へと発展し、フェミニズム文化批評の嚆矢となったとされる。
次いで第3章でバージャーは、「タブロー」(額縁絵)というメディアを取り上げ、芸術がフレスコ画のように不動産に結びついたものから移動可能な動産になったことで、いかに絵画が、当時台頭しつつあった資本主義と私有財産制度と結びついていったかを指摘する。そして「風景」さえもがブルジョア階級の「所有物」になっていった経緯を明かす(「油絵のイメージは....壁にはめこまれた金庫、目に見えるものをしまっておく金庫に近いことがここでは主張されている」)。
そして最終章では「広告」を取り上げ、それが過去の芸術のモチーフを流用しながら、そのメッセージをいかに転倒させたかを語る。油絵が、絵の所有者=鑑賞者が「すでに所有しているもの」を執拗に描いたのに対し、広告は人びとが「まだ所有していないもの=これから買うもの」を執拗に描き出すとバージャーは指摘する。そして、広告という白昼夢を通して「労働者としての自分が消費者としての自分をうらやむ」ように仕向けられていることを暴いていく。
こうして駆け足にただってみても明らかなように、「Ways of Seeing」においてバージャーは、個々の美術作品を語ったのではなく、絵画が歴史を通じていかに特権的なメディアとして価値化されてきたかを社会・経済構造から捉え、それをマルクス主義者らしく資本主義や階級といったスコープから批判したのだった。
そう言ってしまえば、その議論自体がいかにも古くさいものに感じられるかもしれないが、バージャーの「ものの見方」には、性差別、レイシズム、コンシューマリズム、コロニアリズム/ネオコロニアリズム、西洋中心主義/オリエンタリズム、市場の新自由主義化/金融化/投機化といった、美術のみならず社会のあらゆる分野で先鋭化している問題へとつながる視点が含まれている。バージャーの『Ways of Seeing』が、いまなお大きな影響力をもつのは、だからだ。
バージャーはタブローと私有財産の問題を取り上げた第3章で、自身の立場をこう説明している。
移民という他者:客観と主観のはざまで
移民問題を扱う『第七の男』を書くにあたって、バージャーが写真論から語り始めているのは、こうした経緯を踏まえれば、必ずしも驚くにはあたらない。バージャーは『第七の男』という本を、のちにエドワード・サイードとともに『パレスチナとは何か』(岩波現代文庫)を制作する写真家のジャン・モアとともにつくりあげた。『第七の男』は写真と文章によって構成されている。そして、バージャーはまず、この本に掲載された写真がどういうものであるのかを語るところから始める。
簡潔に素っ気なく綴られた文章は、最初は意味が判然としないが、バージャーはここで、本というメディアを通して写真を眺めるわたしたちに注意を喚起している。それはまず、わたしたちが本というメディアを通じて「移民」の姿を見るときの「見方」と、実際の「移民」の人たちが見るときの「見方」は異なっていることに対する注意だ。そして、バージャーが女性のヌードやタブローを問題にした際の「見方」に倣うなら、よほど注意深くない限り、わたしたちはいともたやすく、その対象をオブジェクト化する「鑑賞者=所有者」の立場に立ってしまうことを彼は戒めている。
「西洋文化における財産と芸術の関係は、その文化にとって自然なものに見えている」という先の一節の「芸術」の語を「移民」の語に置き換えてみれば、バージャーが移民の問題を、芸術を見たのとほぼ同じやり方で見ようとしていたことがわかる。そして、その見方が移民の問題を扱う上でいかに重要であるかを、バージャーは本書のオリジナル版の序文でこう書いている。
問題を客観視し、対象化することだけでは、問題は半分しか語られたことにしかならない。バージャーは、『第七の男』の主題は「不自由」だと語る。そして、「不自由」とは「客観と主観の関わり合い方」の問題なのだと語るところから、『第七の男』は、「客観性」を売りにする世の多くの「ジャーナリスティック」な言説から、大きく逸脱していくこととなる。そして、そうであるがゆえに本書は長らく「中身がない」本だとされてきた。バージャーは、その経緯をこんなふうに再版の序文で明かしている。
「彼ら」の言う通り、たしかに『第七の男』は「社会学、 経済学、ルポルタージュ、哲学、そしてあいまいな詩的表現との間を揺れ動く」奇妙な本だ。断片的な文章が一見乱雑につぎはぎされたページの中に、マルクスやジョイスの文章が出典も明示されぬまま登場したかと思えば、経済学の論文や統計上の数字が不意に挿入される。主人公と呼ぶべき「彼」は、名前も出身国も明示されることのないまま描かれ、取材を通して出会った多種多様な移民労働者の経歴や体験が融合し、さながらフィクションの中の登場人物のように形象化される。ルポルタージュと呼ぶにはあまりに客観的な「事実」に乏しく、フィクションと呼ぶには「彼」を取り巻く世界の描写や分析はあまりにも客観的だ。さらに「彼」の「主観」の中へと分け入っていくとき、バージャーの文章は、暗喩を駆使した極めて思弁的かつ文学的なものになる。
真面目な批評家が、本書をして「不真面目」と断じたのは故なしとは言えない。ただし、その批判は、それこそがバージャーが戦略的に採用したやり方なのだということを見逃している。バージャーは、移民をめぐる問題が、そういう書き方をされなくては書きえない理由を、わざわざ本文中に記している。
バージャーは、そこからさらに、そもそも「他者の体験」を理解することが、いかに困難なことであるかを以下のように説明する。
人それぞれの主観性において「外面的な事実の配置」がそれぞれに異なるという困難。客観的に見れば抑圧的な環境のなかへ、抑圧されている側が自ら望んで身を晒し絶えざる自己搾取に絡め取られ、そうすることによって被抑圧者自身が抑圧的な環境に「加担」してしまっているという困難。こうした困難をかいくぐりながら、「他者」としての移民の体験を取り出し、「その人の身に起きたことに見合った価値を与える」ことはいかに可能か。『第七の男』という本の、あまりにも奇妙な「形式」は、その問いに対して可能な限り誠実な向き合い方を模索するための、入り組んだ道筋そのものだ。
そして『第七の男』はやがて、移民の問題を超えて、わたしたちが近年「生きづらさ」と呼んでいるところの不自由をめぐる問題と通じ合い、それをいかに語りうるのかをめぐる格闘の軌跡ともなっていく。彼は移民の問題が、決して移民にのみ降りかかった問題ではないことを終盤に明かす。
バージャーはジャーナリスト、美術批評家、小説家(『G.』という小説でブッカー賞を受賞した際の賞金の半分は『第七の男』の取材費に充てられ、残りの半分は英国のブラックパンサー党に寄付された)、詩人といった肩書きに属する形式のすべてを投入しつつも、どこにも属さない形式をもって、移民という「他者の体験」と向き合った。
しかし、それがバージャーにとって特別な作業だったのかといえばそうとも言えない。『Ways of Seeing』で彼は美術を題材にして「他者の体験」に向き合った。英国の田舎町を舞台にした思弁的ルポルタージュ『果報者ササル:ある田舎医師の物語』では、僻地に暮らす「森の住人」という「他者」と向き合うことの困難を、名もない医師の仕事を通じて描き出した。あるいは『About Looking』(『見るということ』ちくま学芸文庫)に収録された有名なエッセイ「なぜ動物を観るのか?」では、同じ眼差しを動物という「他者」に向けている。
バージャーの「ものの見方」は、ある一貫性をずっと保持している。そして、その一貫性を見通すことができるのであれば、そこに情熱的で無骨で「他者」に対する暴力にとりわけ敏感なひとりの人間の姿を見つけることができる。けれども、彼の肩書きや、作品のジャンルにこだわろうとすれば、その文章は、その肩書きやジャンル名から想定される期待を裏切り続けることになる。
「文学」が担うもの:語りえない現実と向き合うこと
バージャーが『第七の男』で移民問題を取り上げてから、50年が経つ。その間に、新自由主義経済にドライブされた新植民地主義にはさらに拍車がかかっている。冒頭で見たように世界銀行が、それをさらに推し進めることをいまなお推奨しているのであれば、バージャーが『第七の男』を書いたときよりも、おそらく事態は悪くなっているのだろう。であればこそ、移民の問題が世界中で表面化し、最大の政治的争点にもなっている。別の言い方をするなら、これまで移民の存在が「自然なものに見えていて」「それを現実として受けとめ、事態を認識することはない」ままやりすごしてきたわたしたち自身が、ことの異常さにようやく気づくにいたったということでもあるのかもしれない。そして、そうであるなら、ことはいち早く政治的に解決されるべきだということにもなる。
その時、バージャーが『第七の男』において実践した迂遠なジグザグ歩行は、いかにもまどろっこしい。その一方で、問題がさらに複雑化しているのであれば、直線的な政治的解決は、それがもたらす反作用についてもよほど注意深くなくてはならない。まどろっこしさは、そこではブレーキの役割を果たしうる。
福島の原発事故を題材にしたある小説をめぐるエッセイで、文芸評論家の福嶋亮大がかつてこんなことを書いていたのが、ずっと印象に残っている。
「『自分が何も書けないことを知る』ために現地に行くべき」であり、「しばしば饒舌になりがちなマスコミやジャーナリストに対して、文学や芸術が突きつけるべきなのはこの意味での『現実』だろう」。福嶋亮大が語気を強めて語ったことを、奇しくもバージャーは『第七の男』の序文で語っている。
バージャーは現実のあいまいさを単純化したり、移民問題をマスメディア的なジャーナリズムがやるように、そこにある摩擦や抵抗をきれいに磨き上げて「作り物」に作り替えるようなことは慎重に避けたと語る。『果報者ササル』でも、本の終盤で、いかにササルという医師の仕事と人生を要約することが不可能であるかを、バージャーはくどくどと論じている(言うまでもなくなく、こここそが本書のハイライトだ)。
福嶋亮大の言葉を借りるなら、それは「自分が何も書けないこと」を引き受けることからしか生まれない慎重さだったのではないだろうか。そして、そうであるなら、バージャーは正しく文学や芸術の役割を担ったということにもなる。『第七の男』が批判された際に「ただのパンフレット」と謗られたことは、バージャーがダニエル・デフォーやジョナサン・スウィフトといった英国の小説家/ジャーナリスト/パンフレティアの系譜に正しく連なっていることを逆説的に明かしていたのかもしれない。また、福嶋が先の文中で、展覧会評において文学とジャーナリズムの架橋を実践できると指摘している点も、バージャーが「美術批評」を自らの「現場」としたことと響き合っている。
移民問題を扱うにあたって、バージャーは正しく「文学」を実践したように自分には読める。移民をめぐる現実や個々人の体験が、陳腐な政治スローガンのなかに回収されてしまうことを極度に嫌ったという意味で、『第七の男』は戦略的に「文学」だ。
バージャーは、ことあるごとに、自分自身を「ストーリーテラー」だと語っている。「たとえ美術を語っているときであっても」そうだったと彼は語る。ノンフィクションやルポルタージュが「その仕事の核心部にあった」作家として福嶋が挙げたコロンビアのガルシア=マルケスについて、日本語訳が刊行されたばかりのエッセイ集『批評の「風景」』(草思社)で1章が割かれている。そこでバージャーは、マルケスを「物語の語りの技術における仲間とみなしている」と書いている。
バージャーはマルケスの語りの技法について論じながら、マルケスが用いる「年代記」的な叙述の形式においては、「過去と現在が共存」するのだと分析している。バージャーは、ここで『第七の男』については触れていないが、彼が「他者としての移民の体験」と向き合うにあたって、移民である「彼」の現在の体験だけでなく、「歴史的時間から派生している」体験も同時に考慮しなくてはならないと、先の引用で指摘していたことは注目に値する。
歴史的時間と現在の時間を同時に生きる存在として移民を描くにあたって、バージャーは時空を超えて遍在する神話的な存在として「移民=彼」を扱った。それを「年代記の時制」を援用したものとして理解するなら、直接的な影響関係があったかどうかはさておき、バージャーがマルケスに親近性を感じていたことは納得ができる。
ちなみに、1983年に批評家のスーザン・ソンタグと行った対談で、バージャーは自身の「物語観」について、「実際に起きた出来事であっても、それが物語になることによって、真実は具体的な時間や空間から解き放たれて、無時間なものになる」と語っている。
それに対して、ソンタグは、「自分は物語をそんな風には読まない」と真っ向から否定しながらも、バージャーには文字によるストーリーテリングよりも古い、口承の物語に対する愛着・憧憬があると指摘する。そして、その愛着の背後には、社会には都市文化や活字文化によって抑圧されている「語られていない声」があり、それが語られなくてはならないという倫理的な想定があると分析している。
思い返せば、ガルシア=マルケスは、自身の魔術的なストーリーテリングの技術は、すべて祖母が語って聞かせてくれた物語に学んだとよく語っていた記憶がある。ガルシア=マルケスもまた、口承文化に根をもつストーリーテラーだった。
ソンタグは、自身とバージャーにはさほど共通点はないと対談で語っているが、それでも大いなるリスペクトをもっていた。『第七の男』の英語版の裏表紙には、ソンタグのこんな言葉が記されている。
「わたしはジョン・バージャーの本を尊敬し愛している。彼の本はただ興味深いだけなく、重要なことを扱っている。現代英文学において、バージャーは比類なき存在だ。ロレンス以降、わたしたちの感覚世界へこれほどの配慮を示しながら、良心をめぐる重大事に応答した作家はいない。バージャーは素晴らしいアーティストであり思索家だ」
受け継がれた遺産:レベッカ・ソルニット、キム・ソヨン、LE SSERAFIM
年代記の手法ということで言えば、『第七の男』は、南米大陸の歴史(『収奪された大地:ラテンアメリカ五百年』『火の記憶』)、ワールドカップの歴史(『スタジアムの神と悪魔:サッカー外伝』)を年代記的に叙述した、ウルグアイの作家エドゥアルド・ガレアーノの著作を想起させもする。ガレアーノのWikipediaの項目を見ると、こんなことが書かれている。
「彼の作品は正統なジャンル区分を超越し、ドキュメンタリー、フィクション、ジャーナリズム、政治分析、そして歴史を結び付けている」
福嶋亮大が指摘した通り、おそらく小説というジャンルは、本来的に「ドキュメンタリー、フィクション、ジャーナリズム、政治分析、そして歴史を結び付け」たようなものとして始まったものなのだろう。そして、それを体現した作家/ジャーナリスト/批評家のような存在は文学史を振り返ってみれば、現代にいたるまで少なからず存在する。福嶋が挙げた名前のほかにも、エミール・ゾラ、ベルトルト・ブレヒト、ジョージ・オーウェル、G・K・チェスタトン、ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーといった名前が思い浮かぶ。バージャーは、まさにそうした書き手たちに連なる作家だった。
そしてバージャーのレガシーは、例えば、レベッカ・ソルニットのようなジャンルを特定しづらい書き手(『オーウェルの薔薇』の冒頭、オーウェルの旧家へと向かう列車のなかで過去の歴史へと想念を羽ばたかせるシークエンスは『第七の男』の列車のシーンを思い起こさせる。かつ、ソルニットの代表作には、写真家エドワード・マイブリッジとテクノロジーを論じた異色の「美術評論」がある)や、ナオミ・クラインのようなノンフィクション作家、あるいはキム・ソヨンをはじめとする韓国の作家・詩人へと受け継がれている。『批評の「風景」』の帯文として掲載されているソルニットの文章は、バージャーという作家の語りづらさと、そうであることの偉大さを伝えている。
結局のところ、バージャーを語りづらいと感じているのは、わたしたちがジャンルや形式の檻に囚われ、文学や本といったものを、所有者=鑑賞者として対象化することでしか受け入れることができなくなっていることの表れなのかもしれない。『第七の男』は、評論家の間では散々の評価だったが、別の場所の別の人びとの間では、まったく異なる評価を得た。本書がロングセラーとして読み継がれてきた理由を、バージャーはこう説明している。
日本では評価と呼ぶべき評価がないままだが、隣の韓国では、バージャーの著作は、少なくとも20タイトル以上は出版されているという。人気K-POPグループ「LE SSERAFIM」のメンバーで読書家として知られるホ・ユンジンが鞄の中に入れてもち歩いている本の中に、ニーチェや川上未映子の著作と並んで、ジョン・バージャーの『Way of Seeing』があったことも報道されている(もっともユンジンはアメリカ育ちで、もち歩いていたのも英語版なので、韓国国内での評価とは無関係かもしれない)。
『第七の男』の日本語版を出版し、乗せるべきコンテクストがほとんど存在していない日本で、バージャーという異能の書き手を文脈化するにあたって、誰に推薦文をもらうかは悩みどころだったが、韓国においてバージャーが少なからぬ支持を得ていることは大きなヒントとなった。
現代韓国の文壇が果敢に社会問題にも向き合ってきたことはよく知られている。セウォル号沈没事件のような大惨事が起きた際にも、文学者たちが「何も書けない」ような惨劇を前にどのように向き合ったかは、『目の眩んだ者たちの国家』といった本に克明に記録されている。言うまでもなく、通貨危機を経てIMFによってもたらされた新自由主義の苛烈なまでの浸透は、ドラマを含む韓国文化の基層をなすモチーフだ。そう思えばバージャーの作品が、韓国で読まれ続けている背景も(理屈上は)納得がいく。
韓国の書籍の日本語訳を猛然と刊行する出版社/版権エージェントの「CUON」の代表の金承福さんに不躾ながらも問い合わせてみると「バージャー、いいですね!」と、即座に帯の推薦文を書いてくれる韓国の文学者を探すことを請け合ってくださった。金さんによれば、日本語で刊行される本に、韓国の作家が推薦文を書き下ろしてくれるのは、彼女が知る限り初めてのことだという。
わずか数週間で詩人のキム・ソヨンからの推薦文が届いた。『数学者の朝』や『詩人キム・ソヨン 一文字の辞典』といった作品で日本でも知られる詩人がジョン・バージャーが好きだとは意外だったが、文学とジャーナリズムをユニークなやり方で架橋する戦略的な文学書として読むなら『一文字の辞典』は十分にバージャー的なのかもしれない。
キム・ソヨンは、レベッカ・ソルニットが語ったバージャーへの感謝を、さらに簡潔な言葉で綴ってくださった。どれだけ多くの作家に愛されてきた作家であるか、これだけで十分すぎるほど伝わってくるはずだ。
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