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きっとあるはずのコミュニティ|『Like The Wind』日本版創刊に寄せて 【若林恵】


Like The Wind 日本版#01
 
特集「New Running 新しいランニング」 
パンデミックを経た世界でいま走ることはどういうことなのか。トレイルランニングやロード、トラックを問わず走る人/ランナーの声を、インタビューを通して。走る喜びやメンタルヘルス、歴史、人種、都市と格差、チャリティ、コミュニティをいったテーマを、レポートや論説記事を通して表現した、英国発の次世代ランニングカルチャー誌『Like The Wind』の日本版。木星社より新創刊。黒鳥社・若林恵は、編集アドバイザーとして参画したほか、本テキストを寄稿した。



あたらしい生活をはじめるのなら
自分たちの本をつくったほうがいい


一冊の雑誌をこうやってまとめあげるという作業は、思われているほど簡単な作業ではない。どういう記事をそのなかに入れるかを検討し、仕上がってきた原稿や写真、イラスト群にタイトルや見出しやデザインを与える。そこにどのようなトンマナを与え、ひとつのパッケージとしてどのような表情や身振りを与えるのか。些細に思えるあらゆる判断が、確固たる「判断」として誌面に定着されていく。判断する場面は次から次へとやってくる。息を抜いている暇はない。

翻訳の文章ひとつをとっても、それを「です/ます」で訳すのか「だ/である」と訳すのかでは、意味合いが違ってくる。各記事のタイトルのつけ方によって、記事はまったく違ったものとして読まれることとなる。本づくり、雑誌づくりのなかで「適当」や「なんとなく」な判断はない。そこには必ず意図がある。その「意図」を、あらゆる細部にまで行き渡らせる作業が「編集者」という立場に身を置いた者の役割となる。

絶えず襲いかかってくる判断の連続は、編集者にいちいち「自分は何をやりたくてこれをつくっているのだっけ」という問いを投げつけてくる。その雑誌なり本なりを出すことで、そもそも企画の言い出しっぺである編集者は、どんな景色を見たかったのか。すべての判断は、そこに紐づけられる。ここで「景色」と言うのは、単に本や雑誌の表面的な見栄えのことではない。その本や雑誌が、どのような空気をまとい、どのような人の目に留まり、どのように手に取られ、どう愛され、どう嫌われるのか。そうしたことまでもが「見たい景色」には含まれる。

編集者は、そこでは常に漠然と「コミュニティ」のようなものを思い浮かべている。「ランニング」に関する新しい雑誌がつくられる。そのとき編集者を突き動かしているのは、まず第一に「これまでのランニング雑誌は、自分が感じているランニングというものを映しとってくれていない」という不満だ。そして次に、そう感じているランナーが自分以外にもきっといるはずだ、という根拠のない確信だ。

そこでは「きっとあるはずのコミュニティ」がイメージされている。けれども、それは今のところ存在していない。だからマーケティングを通して、そのコミュニティ像を把握することはできない。けれども、雑誌をつくるなかで、どんな紙を使うのかを選び、どんなフォントを使い、どんな色を使い、どんな写真やイラストを使い、どんな言葉を使うのかを選び取っていくなかで、編集者は「きっとあるはずのコミュニティ」と絶えず対話を重ねている。しっくりくるものを選び取っていく判断は、編集者自身のテイストや趣味嗜好に基づくものではない。ひとつひとつの判断はいまだ存在しない誰かに向かって開かれている。


日本の1970~80年代の出版文化を牽引した伝説の編集者・津野海太郎は「森の印刷所」というエッセイのなかで、ウィリアム・モリスについて書いている。

英国の労働運動の先駆者であったモリスは、ある時期を境に社会主義運動から身を引き、「ケルムスコット・プレス」という印刷所を立ち上げた。そして美麗な書籍や壁紙を印刷し販売した。モリスは、ラジカルな政治運動を捨てて、知的で洗練された趣味の世界に逼塞した。その結果、いまやウィリアム・モリスは知的で洗練された英国趣味を代表するアイコンとして、教養あふれるエリートの慰みものとなってしまった。

津野海太郎はこうした否定的なモリス観に反論するために「森の印刷所」という文章を書いた。そして津野は、本や雑誌といったものが、知的で洗練されていると装うためだけのものとして存在させられている息苦しさに強く反発する。

知的に洗練されているフリをし自己満足に浸るには、本や雑誌はたしかに便利なツールだ。けれども、津野はこのようなスノッブな「書物主義」に抗う種類の印刷物のあり方が存在することに目を向ける。

津野は例えば、『毛沢東語録』やスチュアート・ブランドが立ち上げた『全地球カタログ』(Whole Earth Catalogue)、梅棹忠夫の『知的生産の技術』などをその系譜として挙げ、梅棹の言葉を引きながら、それを、知的慰みとして本を扱う「所有中心の読書」に対置して「行動中心の読書」と呼んだ。

活版印刷術の発明以来、エスタブリッシュされた「教養」がかたちづくる「文化」への対抗運動が起きたとき、必ずといっていいほど新しい本や雑誌、パンフレットの類がつくられた。マルティン・ルターの宗教改革以来、社会主義運動、女性参政権運動、SF小説、ヒッピームーブメント、パンクムーブメント、スケートボードカルチャーなどが花開いた際にも、お手製の印刷物は大きな役割を果たした。そうした歴史を振り返るとき、わたしたちは印刷物の役割を「メッセージの伝達」という観点から捉え、「コンテンツを通じた動員」として理解したがる。

けれども、津野が語る「行動中心の読書」には、その視点からだけでは語ることのできない側面がある。彼は、先のエッセイにこう書いている。

せっかく森であたらしい生活をはじめるのなら、古い本を保存するよりも、自分たちの本をつくったほうがいい。

津野海太郎『編集の提案』(黒鳥社)より

津野は、社会のメインストリームから爪弾きにされた誰かが印刷機を隠しもっていたなら、その印刷機を使って、『聖書』を保存する代わりに、自分たちがすむ社会を観察し、情報をあつめ、くらべ、分析して、ビラや新聞をだすことだってできるし、自分たち自身の歴史を書くこともできる、と書く。

本や雑誌、新聞をつくってみるという行為は、単なる発信ではない。ましてや動員のための宣伝でもない。本をつくる行為を通じて人は、自分たちの「新しい生活」が、どんな肌触りや表情をもち、何を大事にして、何を拒否しようとしているのかを、ひとつずつ明らかにしていく。それを通して「新しい生活」はかたちを与えられる。本づくりには「かたちを成す」という側面がある。あるいは、本づくりは「自己組織化」のプロセスであると言ってみてもいいかもしれない。

新しいランナーの新しい生活は、これまでのランナーのこれまでの生活とは、何が違っていて、何を大事にしようとしているのか。それはどんな空気をまとい、どんな匂いや肌触りをもっているのか。個々の新しいランナーは日々漠然とそれを考えているに違いない。けれども考えているだけでは「新しい生活」はかたちを成さない。

本をつくるという行為は、常に「自分たちが何をやっているのか」を問い返す。そこでは「行動」が思考の先にある。やってみたあとにしか、わたしたちは、その行為の意味や価値を捉えることができない。それが「新しい生活」であればなおさらだ。

Text by KEI WAKABAYASHI
Photographs by KIYO FUJISHIRO(Mokusei Publishers Inc.)