成長?の記録
ここ数日間、更新せねばと思いつつ書けてない。
いろいろ理由はある。
日々の仕事の忙しさ、家事のこと、気温の変化による体調などなど。
でも、ほんというと気持ちの変化だったのかもしれず、それを記録として綴りたい。
ネタ切れ観だが、別に書くことがないわけではない。書こうと思えばいろいろある。思想のことや、趣味のこと、それこそ日々感じたことなどだ。でもなぜか書く気になれなかった。
実は少し前に彼女ができて喜び舞い上がっていたが、私は熱量が高く、彼女の負担になってないか心配になっていた。人を好きになるこのエネルギーってすごいと思う。仕事にもメリハリが出て、日々の彩りが豊かになり、毎日楽しくなった。かつて寝るときも一人考えふけり、なかなか寝付けなかった日々も、呪縛から解放されたように、充実し由気持ちで寝られるようになった。他にもいろいろ規則正しさや清潔さを意識することが増えた。例えば部屋を定期的に掃除したり、物の配置を意識したり、また自炊することも増えた。なんだか今までの自分の生活ではないような感覚の中で過ごすのが心地よく、かつ面白さがあり、日々満たされている気持ちである。
だが変わったところもあった。
気づいたら読書量が圧倒的に減っていた。
好きだった司馬遼太郎も次の章まで行かずじまい。積読書も義務感から読もうとするも、気力が出ず進まない。本が好きだったのに、読めないことが不思議だった。積読書を見るたびに罪悪感に苛まれつつあったので、本棚に封印すべく、それらを本棚に移動させたらハンナ・アレントの「人間の条件」が目に入った。手にとって読み始めて気づいたら早数日、貪るように読んでいた。どの積読書よりも難解なのに、なぜか止まらずに読んでいた。どこか懐かしい感覚から、読書の楽しさを思い出すと同時に、読めなかった理由もわかってきた。
一人のときは孤独な気持ちに意味づけをするような感覚で、答えを探すように読んでいた。満たされないものは何か、何が私を日々動かすのか、何か…何か…というものの答えを求めていただけに、司馬遼太郎の文体が響いた。司馬史観なんて言葉があるくらい、ふとした歴史上の疑問に答えてくれる(正当性は別として)のは心地よかったが、それ以上に活字に慣れたことが大きなメリットだった。司馬遼太郎は大長編だと10巻近くあるので、読破するのにかなり根気がいるが、読んでいるうちに活字が持っている魅力に惹かれていった。一人のときはそういった魅力で、ある意味孤独な気持ちを紛らわしていたというか、小説という空想から明日への小さな活力を得ていたような感覚であった。
今は違って、それらを小説から得る必要はなくなったのかも。つまり現実のほうが面白くなっていた。
そんなときに、本棚から久しぶり(半年ぶりくらい)に会ったのがハンナ・アレントの「人間の条件」で、この本の規格外のエネルギーを目の当たりにしたことで、読書の面白さと純粋に向き合えるような気持ちになった。
なんだか、以前とは違う濁り気のない気持ちで本と向き合えそうだ。
これって成長したってことなのかな。
詩人の高村光太郎は道程で
「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」と詠んだが、過去と比較することでしか実感できない成長と異なった感覚だ。
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