仮面ライダー
仮面ライダー龍騎のYou Tube放映も佳境に入った。
クウガから始まった平成の仮面ライダーシリーズは令和に入っても受け継がれている。
中でも平成一期のリアリティ路線の仮面ライダーは今でも大好きだ。
子供向けだからマイルドなんてことはなく、流血、殺人など日曜朝からよく放送できたなと思うシーンが多々ある。
このような仮面ライダーの面白さはなんだろう。子ども向けとは思えない面白さもあるが、その当時の世情を反映しているからではないだろうか。私は当時小学生だったが、龍騎の前年に起きた911の衝撃は忘れられない。子ども心ながら絶対的な信頼を寄せていたアメリカという名の正義が揺らいだ。ついにはテロ組織への宣戦布告してアフガニスタンで長年の紛争を起こすにいたった。正義の反対はまた別の正義のように、龍騎もそれを反映して仮面ライダー同士のバトルロイヤルという既成概念を覆す内容だった。絶対的な正義だった仮面ライダーが、各々の正義で戦い合うそれは、鬱屈した世情を殴り飛ばすような感じだった。
クウガのころからそうだったが、製作スタッフは子供向けの番組を作っているのではなく、日曜朝だからこそ規制ギリギリで挑戦したいという反骨心溢れる人が多かった。それ故に当時の子供だけでなく親が見ても楽しめる作品になっていた。
バブル崩壊後、日本の経済成長は低迷している。残虐な殺人事件も増えていた。「親が子を殺し、子が親を殺す」と恐ろしい表現が使われるような家庭内の殺人も起きたり、「誰でも良かった」というような特定の人への恨みでなく、社会全体を恨むような人たちも出てきた。明るかった未来もいつの間にか切れかけの電球のように点滅しているようだ。
今見てもクウガやアギト、龍騎は明るい話とは言い難い。作風もダークで、社会の根底に流れるドロドロしたものを形容したかのような怪人が人を襲う姿は風刺のように見える。その中で派手な色合いで戦う戦士こそ仮面ライダーだ。あの派手な色合いや頭の突起物に戦略的優位性はあるのだろうかと子供心に思ったりしていた。だがそれら疑問を吹き飛ばすくらいかっこ良かった。社会に対してキバを向く怪人と戦う戦士、その姿こそ将来なるべき姿に思えていた。
だが龍騎の頃になると、至る所で我こそが正義と叫ばんがばかりの声が聞こえてくる。日韓ワールドカップも韓国に対しヘイトの発言も聞こえていた。自分が正しいと思うことは誰かにとって正しくない。それはナショナリズムになると更に顕著となる。まさにいろいろな正義が叫ばれていた時期に思える。龍騎も結局、主人公・真司の「人を助ける」という正義が正しかったのかわからない終わり方をしている。どの人も正しいと思って行動していたから答えも出なかったように思える。
だが555の頃になると世情もだいぶ変わる。人を襲うオルフェノクという怪人たちの中にも人を助けるグループができ、龍騎のころとは違い、話し合い、時にはぶつかりながら正義というものを見出すような物語になっていた。この前年の2002年には小泉元総理による北朝鮮訪問があり、拉致された日本人の帰国があった年だった。対話で導くこの結果は紙面を賑わせた。555はこれらの雰囲気を反映した作品のようにも思える。555は龍騎ほどの衝撃はなかったが、正義というものの在り方は一つでなく衝突しながら対話でこうあるべきという手本を示してくれたような感じがした。
555の物語もそこまでダークではなく、ケータイという最先端のガジェットを使って変身する姿はどの仮面ライダーよりもハイテクでかっこ良かった。
クウガから続くこの流れは555で一旦切れたと感じている。
今や時代も変わって、規制も厳しくなり作風もマイルドになっている。それでも子どもから大人まで楽しめる仮面ライダーを作れるのは神業のように思う。
ふと仮面ライダーに求められるのは何だろうかと思う。話の面白さももちろんだが、今の世情を、積もり積もったこの何かを吹き飛ばすようなものがほしいと思ってしまう。私は絶対に作れないから眼高手低だが、毎回仮面ライダーや特撮にはそれを期待してしまう自分がいる。
その伝説が始まる一瞬に立ち会えるときこそ、仮面ライダーというフィクションの中で生きることができるのだ。
最後に…ライダーを称する以上、もう少しバイクに乗ってくれ…
これじゃ仮面ライダーではなくてただの仮面野郎になってしまう。
過度なバイクアクションは要らないから、せめて移動のときくらいバイク乗れよと見てて一人ツッコんでしまう。