見出し画像

ASMR映画考②《1・セイレーンの歌聲》

セイレーンの歌聲よろしく、観客を魅惑しながらも深い眠りへと誘(いざな)う映画は確かに存在する。

アンドレイ・タルコフスキー(1932‐1986)がその代表格だ。
巨匠の作品だけに、誘眠性だけではなく求心性も十二分あり、『惑星ソラリス』(1972)と『ストーカー』(1979)は、私も學生時代に最後まで眠らず観通している。

その映像は深遠で類型がなく、彼という人間のパーソナリティならびに他作品への深甚な関心を醸成した。

けれども『鏡』(1975)、『ノスタルジア』(1983)、『サクリファイス』 (1986)は、鑑賞を試みると、必ずどこかしらで寝ていた。

そこで考え方を改め、今度は眠れぬ夜に寝室でタルコフスキーを観ることにした。真剣に観直しようとして眠くなるのだから、眠い時分に観たら逆に眼が冴えてきて、終わりまで観れるのではないかと期待したのだ。

手始めに題名からしてよく眠れそうな『ノスタルジア』を再生してみた。

成程、よく眠れた。

そして今更ながら、作曲家を志していたというだけあって、タルコフスキーの映画は頗る音が良いと実感したものだ。

横臥しながら映画を観る場合、視覚は聴覚より先に閉ざされる。
瞼は、眼瞼挙筋(がんけんきょきん)とミューラー筋によって瞼板(けんばん)を引き上げる構造で、瞼板はマイボーム腺から脂質を分泌し、常に眼球から埃や塵を取り除き、乾燥を予防している。
故に、眼にとってもっとも負担がないカタチは、眼を閉ざした状態となる。

耳の場合、音波を受けると鼓膜が振動し、蝸牛内部にある有毛細胞が物理刺激を神経刺激に変えて脳に送り届ける仕組みなので、常態で筋力を必要とせず、脳が眠るまでは音が聴きとれる。

『ノスタルジア』鑑賞中、私の瞼板が降下しはじめたのは、やはりというべきか、タ ルコフスキーの十八番(おはこ)であるところの「水」が登場しはじめるシーンだった。けしてベートーヴェンの〈交響曲第9番〉が流れはじめるところではない。その後に続く長回し、具体的には、ドメニコとアンドレイが滴り落ちる雨の中、廃墟で囁きあう場面からである。

特筆すべき点は、あまりにもよく知られた『歓喜の歌』のコーラスパート〈Deine Zauber binden wieder, was die Mode streng geteilt; alle Menshen werden Brüder, wo dein sanfter Flügel weilt.〉を冒頭で切断し、聴覚に肩透かしを食らわせた直後に、雨音による極めてミニマルな音響表現を繰り広げていることだ。

単調なようでいて、その実「水」が作り出す多様な音の饗宴に終始するこのシーンを、音響トピックモデルによる生成過程の特定とまではいかないが、半醒半睡の主観体験として、能う限り腑分けしてみようと思う。

・ドメニコが窓際に立っている時、カーテン越しに聴こえる雨音と、廃墟全体を映した時に聴こえる雨音は音質が異なり、各々の奥行きを感じさせる。
・荒廃が進んだ屋根の窪みから勢いよく流れ込む雨垂れと、僅かな隙間から不定期に零れ落ちる水滴は、その質量・落下速度等が違い、個別に聴き分けることができる。
・床に置かれた複数のビン類及び水溜りへの反響は、其々の材質毎に丁寧に描き分けられている。
・またその飛沫にも別様の音色が割り当てられている。

これらすべての音が遠近で鳴り響くことで、シーン全体に荘厳な気配がもたらされているように思えた。

タルコフスキーの時代にバイノーラル録音が可能かどうかは兎も角、音の遠近法とでもいうべき音響合成によって、瞼板が完全に閉ざされた後にも、私の脳裏に廃墟の輪郭が、朧げに、またどこかしら懐かしく再現されていたことは確かだ。

その「水」の合唱が、私の脳を夢の彼方へと連れ去るまでは。

(続く)

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?