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「観客」とは何か

突然ですが、映画とは何でしょうか。

機能的に説明すると、それはフィルム上に記録した画像を、映写機でスクリーンに投影することです。今ではフィルム以外のものも映画館で上映されるため、それらもまた映画と呼ばれています。

では、映画を上映する映画館とは何でしょうか。

諸説ありますが、リュミエール兄弟が1895年にパリのキャプシーヌ通りにあるグラン・カフェで、「観客」から入場料金を取って映画を上映したことが、映画館の始まりではないかといわれています。

つまり映画は、その成立の最初から「観客」と不可分であったようなのです。

作る人間(監督)だけでは映画は成立せず、観る人間(観客)だけでも映画は成立しません。両者がいてはじめて、映画というメディアが成立したというのが、今日につながる一般的な考え方だと思います。

しかしながら、作り手(監督)がある映画を観て、その影響の元に映画を作り出すということは、よくある現象のようにも思われます。(というか、世の監督志願者は、概ねこのようなモチベーションから映画の世界へ足を踏み入れるのではないでしょうか)

その場合、作り手(監督)には、特に想定された「観客」はおらず、しいていえば、自分自身が「観客」ということになります。

勿論、「監督」が、「観客」としての自分に向けて作った映画が、その向う側にいる「観客」にも届くということもあります。

しかし、「監督」=「観客」で、且つそれが自分自身だとしたら、向う側にいる「観客」の反応は副次的なものであるはずだし、実のところ上映の必要すらないのかもしれません。

この向う側にいる「観客」は、現代の言葉に言い直すと「マス」ということになりますが、「観客」=マスの反応だけを優先していくと、映画はどんどんショービジネスに近づいていき、挙句は都知事選でジョーカーの扮装をしたり脱衣したりというような表現と変わらなくなっていきます。

ムズカシイのは、同じ「観客」=マスでも、グラン・カフェでリュミエール兄弟が『工場の出口』を上映した時の「観客」と、現代の「観客」では、かなり性質が違っているということです。

150年前の「観客」にとっては、写真が動くということは、それ自体が衝撃で、観る価値があることでした。しかし、現代の「観客」には、写真が動くのは自明のことですから、モノクロの無声映画というだけでは退屈に映ってしまいます。

モノクロの無声映画が退屈であるなら、ジョーカーの扮装や脱衣の女性にも退屈していいように思うのですが、そういうのはまだ巷間に膾炙する程度には影響があるようです。

このように、映画における「観客」の問題を真面目に考えてみると、実はよく分からないということが分かってきます。

しかし、映画をひとつの商品と考えた時、「観客」の問題をもっとも真剣に考えていたものがあります。

営利企業です。

企業は、終日マーケティングに精を出しています。具体的には、「顧客」のニーズを探るための市場調査、それらを元にした商品開発、プロモーション活動などを行っています。

この「顧客」を「観客」に置き換え、そっくり同じ工程で映画を売っているのが映画の配給会社ということになるかと思います。

「監督」の中には、既にこのような勢力と連携し、戦略的に振る舞ってる方もいらっしゃるはずです。

映画または映画監督を商品と位置づけ、市場の動向を読み、映画または映画監督を効率的に売るための仕組みを考えながら、ティーチインの場などで顧客に価値を伝える――。

メディアには定期的に「天才監督」が現れたりしますが、それは、こうした戦略が常習化しているからだと思います。

何事もなければ、映画産業従事者らの絶え間ぬ努力により、映画への興味・関心が薄い層にも作品が届くようになるので、「監督」も「観客」も企業もハッピーになります。

ところが時に、メディアの寵児となった「天才監督」が増長し、パワハラやセクハラ等の不祥事を起こすことがあります。

その場合、メディアは当の「天才監督」をポイ捨てして「新しい才能」を発掘し始めます。

若い「監督」志願者も、メディアが報じる「天才監督」に憧憬の念を抱き、目標にしたりしているので、すぐに「新しい才能」の枠は埋まり、産業構造自体は温存されます。

「天才監督」は続々と生まれますが、「天才観客」というのはかつて一人も存在しなかったように思います。(一部の映画批評家がそれに近い役割を担っているとしても)

マーケティングの観点から見た「観客」は、映画という商品を消費するだけの存在、または興行収入を下支えする者としてしか認識されていないのではないかとさえ思えてきます。

しかし、こうした考え方も、本をただせばリュミエール兄弟がグラン・カフェで「観客」から入場料金を取って映画を上映した時から始まっているのかもしれないのです。

ちなみにこの考え方でいくと、映画を観る者がお金を持っていなかった場合、その人は「観客」ではないということになります。

お金を払わなければチケットは購入できないので、それはその通りなのですが、でも、何だかちょっと引っかかるような気もします。

たとえば、パブリックドメインの映画はウェブ上で無料で観れたりしますが、それを観る人は「観客」ではないのでしょうか。

或いは、家の中で、家族一緒にアニメ映画を観ている時、彼・彼女らは「観客」ではないのでしょうか。

映画館で観た後に(有料)テレビで観たらやっぱり面白くて(無料)、ウェブ上で観たらまた違う印象を持った(サブスク)というようなことは、誰でも経験していることのように思います。

映画館で観る時は「観客」だけど、テレビで観る際は「視聴者」で、ウェブ上で観たら「リスナー」じゃないかというような人は、その差を明瞭に説明できるのでしょうか。

媒体によって呼び名が変容しても、次の一点だけは変わらないように思えます。

ただ映画を観て、立ち去るだけの存在――。

しかし、資本主義の時代を長く生きていると、そのような儚げな存在について素朴に考え続けることは容易ではありません。

巷には、様々なコンテンツが溢れかえっており、生産者である以上に消費者でもある我々は、数多のサービスを享受しながら「お客様満足度」を示すために「いいね」を送り合い、その過多によって商品を選別していくよう慣らされています。

「監督」も、それらの反応を元に、より刺激的な作品を作ろうと尽力している様子。

「観客」は、最早〝ただ映画を観て、立ち去るだけの存在〟ではなくなったのかもしれません。

やはり「観客」は「顧客」の一種で、「監督」もまた、映画という商品の供給者に過ぎないということでしょうか。

ひとついえるのは、リュミエール兄弟がグラン・カフェで初めて映画を上映した時、その内容は「観客」からリサーチしたものではなかったということです。

「観客」の要望を叶えるだけでは、畢竟「映画」は彼らの範疇を超えることはできず、遅かれ早かれ飽きられてしまうでしょう。

映画が現在のように進展してきたのは、歴代の「監督」達が、その時代時代の「観客」の要望を満たしつつも、ぎりぎりのところで裏切り続けてきたからだと思います。

そのような創意工夫を探るべく、私は2023年から、一人の「観客」と一人の「監督」による最小限の映画祭「映画の細胞」を開始することにしました。

この企画は、実はコロナ禍に生まれています。

当時は、映画館に「観客」一人であることは、ざらにありました。
たくさんのミニシアターが潰れましたが、様々な支援活動も為されました。

しかし、少子高齢化などの問題を抱えるこの国で、大勢の「観客」が入らなければ成り立たないシステムであるところの映画館には限界があるのではないかとも感じました。

そこで、床屋さんや歯医者さんのように、個々のお客さんに見合った映画を都度提供することで対価を貰えるような仕組みを作れないだろうかと考えたのが、「映画の細胞」です。

しかし、現状は「観客」の方に映画の対価を支払ってもらうことはしておりません。まずは、この新しい仕組みに慣れていただかなければならないからです。

ゆえに、現段階の「映画の細胞」は経済的には大赤で、主催する私にとっても負荷の大きいものとなっています。

しかしながら、これはリュミエール兄弟の頃から「マス」として扱われるのみだった「観客」を、母集団からサンプルを採取するようにして、一人一人丁寧に取り扱いながら、その実相を見極めようとする、大袈裟にいえば有史以来の試みであるかもしれないのです。

映画というメディアの成立条件を問い直すささやかな実験として、今後も細々と続けていければいいなと考えています。



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