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備忘録『マクベス』と1605.11.5火薬陰謀事件
前回の記事で、シェイクスピアの悲劇『マクベス』(1606年ごろの作)が、1605年の火薬陰謀事件と関連づけられていたということを書きました。
「火薬陰謀事件」にイエズス会が関与していたと言われているのはもちろん知っていましたが、シェイクスピアが『マクベス』を通してイエズス会批判をしていたのは初めて知りました。
『マクベス』は、11世紀の実在のスコットランド王マクベスがモデルになっています。私の好きなスコットランドの話なので読んだことがありました。
実際のマクベス王は、劇中のマクベスと違って17年間統治した実績があり、戯曲に見るような暴君ではなかったと言われています。
『マクベス』のあらすじ
将軍マクベスとバンクォウ(ステュアート朝のスコットランド王の祖先といわれる)が、凱旋の途中で3人の魔女に出会い、魔女たちはマクベスが王になると予言しますが、バンクォウの子孫がスコットランド王位を継承するとも予言します。
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マクベスは、野心家の夫人にそそのかされて国王ダンカンを暗殺しました。
父を殺されたふたりの王子、長男のマルコム王子はイングランドへ、次男のドナルベインはアイルランドへ逃げ、王殺害の嫌疑は逃げた王子達に向けられ、マクベスが次の国王に指名されました。
預言通りマクベスは王になりましたが、バンクォウの子孫に王位を奪われるのを恐れ、バンクォウとその息子フリーアンスを殺害します(息子のほうは逃れた)。
マクベスはバンクォウ殺害の罪をフリーアンスに着せますが、貴族たちとの宴会で自分の席にバンクォウの亡霊が座っているのを見て取り乱します。
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マクベスが魔女たちに再び予言を乞うと、魔女たちは「貴族マクダフに気を付けろ」「女の股から生まれたものはマクベスを倒せない」「バーナムの森が進撃して来ないかぎり安泰だ」と予言します。
しかし、バンクォウの子孫が王になる予言について尋ねると、8人の王とその後ろにバンクォウの亡霊が笑っている幻影が現れます。
マクベスは予言で言われたマクダフの城を襲撃して、妻子や召使たちを皆殺しにしました(マクダフはイングランドにいた)。
マクベスの暴政に、国は荒れ人心は離れていきました。
マクベス夫人は夢遊病に冒されるようになり、夜中に起き出して手を洗う仕草を繰り返し「血が落ちない」とつぶやくほか、ダンカン王やバンクォウ、マクダフの家族の殺害を悔やみ嘆き続けました。
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マクダフは、マルコム王子と共にマクベス討伐を計画していました。
イングランド王の軍隊の協力を得て王子らがスコットランドに攻め込むと、マクベスの臣下たちは続々と離反しました。
マクベスは絶対絶命な状況に追い込まれますが、彼は魔女たちのあの予言を信じていました。
「バーナムの森が向かってくる」という報告が入り(イングランド軍が木の枝を隠れ蓑にして進軍していたので、森が動いているように見えた)、予言のひとつに裏切られたマクベスでしたが、マクダフと対峙した時「女の股から生まれた者には殺されない」と告げると、マクダフは「私は母の腹を破って(帝王切開)出てきた」と明かしたのです。
マクベスはマクダフに討ち取られ、マルコム王子がスコットランドの新たな王になりました。
史実においてはマルコムの子孫とバンクォウの息子フリーアンスの子孫が結婚し、魔女の予言通りにバンクォウの子孫が王となったと言われています。
*****
女から生まれた者one of woman born
「女から生まれた者」という表現は、新約聖書マタイによる福音書11章11節、ルカによる福音書7章28節にも書かれている慣用句で、「あらゆる人間」を意味します。
borne「生まれた」は動詞bear「産む」の過去分詞に由来し、字義通りには「産むことをされた」「産み落とされた」の意味である。
これにより、産み落とされたのではなく帝王切開で生まれたマクダフは予言から逃れられるのである。
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火薬陰謀事件(1605年11月5日)
研究者たちは、『マクベス』はガイ・フォークスが捕らえられた火薬陰謀事件にも関係していると言います。
第2幕第3場の門番のセリフが、火薬陰謀事件に関与して処刑されたイエズス会のヘンリー・ガーネット (Henry Garnet) を念頭に書かれていると推定されるそうなのです。
私は今まで、ガイ・フォークスにばかり焦点を当てて来ましたので、ヘンリー・ガーネットのことはほとんど眼中にありませんでした。
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ヘンリー・ガーネット(Henry Garnet、1555年7月 - 1606年5月3日)は、カトリックが弾圧されていた当時のイングランドにおいて、潜伏生活を送りながらカトリックの布教活動を行い、同地で活動するイエズス会士たちの取りまとめ役であった。
スコットランドの王ジェームズ6世は、1603年3月24日にイングランド王ジェームズ1世として即位しました。
即位にあたりプロテスタントであると公言していましたが、カトリック教徒は、エリザベス女王の治世中に受けた迫害をジェームズ王が終わらせるだろうと期待していました。
ジェームズ王の母メアリー女王がカトリックであり、ジェームズ王の態度はカトリック教徒に対して穏健で寛容でした。
教皇庁は、四十数年に亘るエリザベス1世の統治が終わったタイミングでイングランドをカトリックの国に戻したいと欲し、ジェームズ王をなんとかして玉座から引きずり下ろしたいと虎視眈々と狙っていました。
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ふたつの陰謀事件
あまり知られていませんが、イングランド王に即位してまもなくの1603年7月、関連した2件の陰謀事件が起きました。
のちにバイ陰謀事件(バイは「副」の意味)と呼ばれた計画は、ウィリアム・ワトソンとウィリアム・クラークというふたりのローマカトリックの司祭と、ピューリタンの貴族トーマス・グレイ男爵による国王誘拐計画でした。
彼らはジェームズ王を監禁し、カトリックに強制改宗させるつもりでした。
しかし、実行の数日前にトーマス・グレイは計画に加わることを拒否し、政府に計画が知られたことを察知した仲間は何もせずに逃走しました。
グレイはオランダに逃亡しましたが逮捕され、財産を没収された後11年間ロンドン塔に投獄され、1614年7月に亡くなりました。
ワトソンとクラークは1603年12月に処刑されましたが、バイ陰謀事件の発覚によって、メインの陰謀があったことがわかったのです。
*****
メイン陰謀事件は、ジェームズ王と王位継承権のある王の子どもたちを殺害し、アラベラ・スチュアートを王位に就ける計画でした。
アラベラ・スチュアートは、スチュアート姓からもわかるようにスコットランドの貴族でジェームズ王の従兄妹であり、以前よりエリザベス1世の後継者候補の一人と考えられていました。
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スペインとカトリック教会は、テューダー家の血を引くスコットランド女王メアリーこそが正統なイングランド君主であると考えていました。
しかし、メアリー女王はエリザベス1世によって処刑されてしまい(1587年2月)、その後約20年間、スペインとカトリック教会は陰謀を続けていました。
スペイン国王フェリペ3世(父フェリペ2世はイングランド女王メアリー1世の夫だった)から陰謀への参加と同意をするよう書面を受け取ったアラベラは、ジェームズ王にそれを知らせました。
*****
メイン陰謀事件で逮捕されたヘンリー・ブルック男爵は、スペインの宮廷から多額の金(約16万ポンド)を得るため、スペインのアレンベルク伯爵シャルル・ダランベールと交渉していました。
ヘンリーは政治活動には興味がない凡庸な貴族でしたが、兄のジョージ・ブルック牧師はバイ陰謀事件にも関与しており、共謀者の中でジョージだけが大逆罪で処刑されました。
ヘンリーはガーター騎士団の名誉を剥奪され、財産も没収されました。
1618年に釈放されたヘンリーは、その後まもなく亡くなりました。
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エリザベス1世のお気に入りだったウォルター・ローリーは、関与の疑いから内乱罪で裁判を受け、ロンドン塔に1616年まで監禁されました。
ローリーは反スペインの立場でしたが、ヘンリー・ブルック男爵が保身から「ローリーも陰謀に参加した」と証言したため疑義をかけられました。
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ロンドン塔では比較的自由な活動が許され、書籍と召使を部屋に入れて生活、著作活動に熱中してギリシャとローマの古代史に関する本『世界の歴史 A Historie of the World』を著しました。
1616年にローリーは解放されて南米の探検隊を指揮しましたが、探検の途中で部下達がスペインの入植地で略奪を行ったため、帰国後に1603年の死刑判決が執行(!)され、10月29日に斬首されました。
**余談**
アラベラ・スチュアートは、ヘンリー7世の玄孫であるゆえイングランドの王位継承の候補であったため、幼少時代から彼女の配偶者について議論が交わされていました。
候補としてパルマ公爵アレクサンダー・ファルネーゼ(教皇パウルス3世の曾孫)の息子たちがいましたが、長男ラヌッチョは既婚者であり、次男オドアルドは司祭として独身を誓った枢機卿でした。
教皇はオドアルドの義務を免除するつもりでしたが、エリザベス1世女王の抵抗によってアラベラに持ちかけられる前に計画は差し止められました。
アラベラは、1610年にウィリアム・シーモア (第2代サマセット公)と身分違いの秘密結婚し大陸に駆け落ちしようとしましたが、ジェームズ王の怒りに触れアラベラは5年間ロンドン塔に投獄されて、そこで死亡しました。
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一方、先に大陸へ逃れていたウィリアムは、アラベラが来ないことを知り帰国を希望しましたが、アラベラの死の翌年1616年に帰国を許されました。
帰国後はステュアート朝に忠実に行動しジェームズ王の息子チャールズ1世に重用され、1640年にハートフォード侯爵に叙せられました。
*****
ガイ・フォークス・ナイト
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火薬陰謀事件は、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』にも少しだけ言及されています。
『鏡の国のアリス』の始めのほうで、アリスが “we’ll go and see the bonfire to-morrow.”(明日はかがり火を見に行きましょう)と言っています。
「ガイ・フォークス(犯人)の日」の前日の設定なんですね。
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イギリスでは11月5日前後に花火を打ち上げる習慣が残っており、大規模な公共イベントのほか、個人の庭でも行われているそうです。
ボンファイア・ナイト(焚火の夜、Bonfire Night)、ファイアワークス・ナイト(Fireworks Night)、ガイ・フォークス・デー(Guy Fawkes Day)などと呼ばれています。
1605年11月4日、ジェームズ王の最初のイングランド議会の第2会期が開会される前夜のことでした。
匿名の警告状によって国会議事堂を捜索中に、地下室で36樽の火薬のそばに立っているガイ・フォークスが発見されました。
36樽の火薬は、貴族院を瓦礫と化させるのに十分な量でした。
陰謀計画は、国王と大臣らが出席する国会開会式の最中に貴族院を爆破し、そこにいる全員を殺害することでした。
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ガイ・フォークスの逮捕の知らせが広まると、ロンドンにいた共謀者の大半は逃亡しました。
*****
逮捕されたガイ・フォークスは、イングランド国教会の礼拝に通う家庭に生まれましたが、母親の家系はカトリックで、従兄弟のリチャード・カウリングはイエズス会の聖職者でした。
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1579年、ガイ・フォークスが8歳の時に父親が亡くなり、母親の再婚相手はカトリック信徒のディオニス・ベインブリッジ(またはデニス・ベインブリッジ)でした。
地域にはカトリック信徒が多く、フォークスは継父とプーリン家、パーシー家の影響によりカトリックを信奉するようになりました。
フォークスはカトリックに改宗して、八十年戦争ではカトリックのスペイン側で戦いました。フォークスは1596年のカレー包囲戦で善戦し、1603年までに大尉に推挙されたそうです。
最近では、映画『V for Vandetta』がガイ・フォークスをイメージしています。
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ロバート・ケイツビー
1604年ごろ、フォークスはロバート・ケイツビー率いるイギリスのカトリック教徒のグループと関わりを持つようになりました。
彼らはジェームズ王を暗殺し、王の娘エリザベス王女を王位に就ける計画を企てていました。
ロバート・ケイツビーは、リチャード3世の有力な顧問官ウィリアム・ケイツビー(1450–1485)の直系子孫であり、彼の両親は著名なカトリック教徒でした。父親は信仰のために何年も投獄されました。
親戚であるフランシス・スロックモートンは、スコットランド女王メアリーを解放する陰謀に関与したとして1584年に処刑されています。
ロバート・ケイツビーは、オックスフォードのグロスター・ホールで高等教育を受けるも、イングランド王室への忠誠を誓わせる至上権承認の宣誓を嫌って学校を中退したそうです。
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ケイツビーは、1601年にはエセックス伯の反乱に加担しました。
エセックスの反乱は、 1601年2月に第2代エセックス伯ロバート・デヴァルーがイングランド女王エリザベス1世とでロバート・セシル卿率いる宮廷派閥に対して起こした反乱。ロバート・デヴァルーは大逆罪で斬首された。
ケイツビーはエセックス伯の乱が成功すれば、カトリックの君主が再び誕生するかもしれないと期待していました。
しかし反乱は失敗に終わり、ケイツビーは助命されるも多額の罰金を科されました。
しかし、彼は諦めることはなく、カトリックの大国スペインに援助を求めたり(スペイン反逆事件)、イングランド国内で密かに活動するイエズス会神父たちの支援を行っていました。
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王女誘拐計画
ケイツビーが陰謀を思いついたのは1604年のはじめ頃でした。
彼らは火薬陰謀事件と同時に、ジェームズ王の娘エリザベスを誘拐しようと計画していました。
トーマス・パーシーは、エリザベスの兄ヘンリーを捕らえることになっていました。
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トーマス・パーシーは、ジェームズ王がイングランドのカトリック教徒に対する寛容の約束を破ったと考えて幻滅し、ロバート・ケイツビーの陰謀に加わった。
彼が陰謀に加担したことで、後援者であった親戚のノーサンバーランド伯爵は計画に関与していなかったにも関わらず、すべての公職から追放の上で、1621年までロンドン塔に投獄された。
11月4日、ケイツビーと数人のグループは、エリザベス王女を誘拐するために計画された反乱に向けて出発しました。
ガイ・フォークスの逮捕を知った共謀者の大半は逃亡していましたが、ケイツビーたちはロンドンで何が起こっているのか知らず、予定通りに進んでいました。翌朝、知らせに来た仲間から状況を聞いたものの、王女の誘拐は実行することにしました。
パーシーはケイツビーを追いかけて合流しました。
ゲイツビーは、カトリックの支持が強いと考えられているウェールズへ行き、そこで軍隊を編成しようと考えていたようですが、協力は得られませんでした。
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11月8日午前11時頃、200人の部隊が彼らを包囲しました。
次々と仲間が撃たれ、ケイツビーもパーシーも撃たれ、斬首されました。
ケイツビーと仲間たちの全財産は国王に没収され、遺言で相続させることはできませんでした。
ケイツビーの母は終身相続権により屋敷に留まることができましたが、彼女の死後に財産は没収されました。
イエズス会神父の関与
16世紀後半には、ヨーロッパ中のプロテスタント支配者が暗殺の標的にされました。
イギリスのカトリック教徒の一部は、「暴君」を排除するための国王殺害は正当化できると信じていました。
1605年6月初旬、ケイツビーはイエズス会士、ヘンリー・ガーネット神父と会い、ケイツビーは「罪のない者を殺す」ことの道徳性について尋ねたそうです。
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ヘンリー・ガーネットは、 1605年の火薬陰謀事件を事前に知っていたことと、当局に通知して告解の封印を破ることを拒否したという理由で、大逆罪で処刑されたイギリスのイエズス会の司祭。
ロンドンの出版社で働いていたが、1575年に大陸に渡りイエズス会に入会した。1582年頃にローマで叙階された。
ガーネット神父は、1605年7月24日にガイ・フォークスの同級生で、ロバート・ケイツビーとも親しかったオズワルド・テシモンド神父から計画を知らされたそうです。
テシモンド神父は計画に直接加担してはいなかったが、懺悔室(告解)において計画者から内容を知らされたということでした。
教会法により告解で得た情報には守秘義務が課されるため(告解の内容を他言すれば神父は破門される)、秘密にされていました。
テシモンド神父が上司であるガーネット神父にケイツビーを説得してほしいと頼んだことから、ガーネット神父とケイツビーが何度か接触することになったそうです。(そのままでなく、ひねりを入れて解釈する必要がありそう)
*****
ケイツビーの使用人だったトマス・ベイツの「イエズス会の神父が関与していた」との自白により、イエズス会が陰謀の黒幕だとイングランド政府は断定しました。
すでに逃亡していたガーネット神父は翌年発見され、処刑されました。
テシモンド神父は逃げ切ってイタリアに亡命し、数年後シチリアのメッシーナで学務長官兼領事となり、1636年頃にナポリで亡くなりました 。
不思議ですね。どうしてテシモンド神父は逮捕されなかったのか。
ガーネット神父の著作には、教会の教皇主義(パピズム)を攻撃した『シズム擁護に対する弁明』 (1593年)があり、その中でイングランド国教会で聖体拝領を行うことを支持したトーマス・ベルを叱責していました。
トーマス・ベルは、ローマカトリック教会の司祭でしたが、後に反カトリックの作家になりました。
ガイ・フォークスの処刑
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11月4日に逮捕されたガイ・フォークスは、はじめ「ジョン・ジョンソン」と名乗っていました。
「ジョンソン」は、国王と議会を破滅させることが目的だったと述べ、単独犯だと主張しました。ガイ・フォークスの屈服しない姿勢に、ジェームズ王は逆に非常な感銘を受け、王はフォークスを「ローマ人の決断力の持ち主」と評したそうです。
フォークスは6日にロンドン塔に移され、激しい拷問を受けました。
7日遅くから自白を始め、その後2日間にわたって拷問と自白は続きました。
11月9日、ジェームズ王は王権神授説とカトリック問題について詳しく述べた。彼は、陰謀は少数のカトリック教徒の仕業であり、イングランドのカトリック教徒全体の仕業ではないと主張した。
そして、王は神によって任命された者であり、彼が暗殺を逃れたのは奇跡によるものであるため、王が生き延びたことを喜ぶよう呼び掛けた。
処刑は、1月30日と31日に行われました。
エヴァラード・ディグビー、ロバート・ウィンター、ジョン・グラント、トーマス・ベイツは、セントポール大聖堂の墓地で絞首刑になり、意識があるうちに去勢され、内臓をえぐり出され四つ裂き(四肢切断)にされました。
トーマス・ウィンター、アンブローズ・ルークウッド、ロバート・キース、ガイ・フォークスは、爆破する予定だった国会議事堂の向かいのオールド・パレス・ヤードで、絞首刑、引き裂き刑、四つ裂きの刑に処されました。
フォークスは絞首台から飛び降り、首を折って即死しました。
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処せられる様子が描かれている。
陰謀には関わっていないが、共謀者たちと知り合いか親戚関係にある他の数人も尋問されました。
疑われた中には(私が昨春から深堀りしているカルバート家の親戚)トマス・アランデルもいました。
この事件により、1606年夏、反国教徒に対する法律が強化され、カトリック教徒反国教徒法によって、エリザベス1世時代の「罰金と制限」に戻り、聖礼典の試験と忠誠の誓いが導入されました。
カトリック教徒は「教皇によって破門された君主は廃位または暗殺される」という教義を「異端」として放棄することが義務付けられました。
この法律は、ローマカトリック教徒が法律や医学の職業に従事すること、および後見人や管財人として活動することを禁じ、治安判事が彼らの家を捜索して武器を探すことを許可した。
また、教皇が君主を廃位する権限を否定する新しい忠誠の誓いを規定した。国教拒否者は、イングランド国教会の教区教会で少なくとも年に1回聖餐の秘跡を受けない場合、60ポンドの罰金または土地の3分の2の没収を受けることになっていた。
この法律では、国王ではなくローマの権威に従うことも大逆罪とされた。
カトリック教徒の解放にはさらに200年かかりましたが、ジェームズ王の統治では多くの忠実なカトリック教徒が高官の地位を維持できていたことを思えば、ジェームズ王は比較的カトリックに寛容だったと思います。
『マクベス』と『悪魔学』
『マクベス』は火薬陰謀事件の翌年1606年頃には書かれました。
シェイクスピア劇としては『テンペスト』、『間違い続き』に次いで3番目に短い作品です。
ステュアート家の祖と言われるバンクォウが描かれているので、ジェームズ王のために書かれた物語の抜粋ではないかと言われています。
ジェームズ王は、スコットランド王時代の1597年に『デモノロジー(悪魔学)』を出版しました。
『デモノロジー』(Daemonologie、『悪魔学』)は、当時の降霊術と古代の黒魔術で使われた様々な占いの歴史的関係についての考察した哲学論文。この文献は、悪魔学と悪魔がどのようにして人間に危害を加えるかということについての研究や、狼男や吸血鬼などについても扱っている。
『デモノロジー』は、シェイクスピアが『マクベス』が書いた際の主な参考資料の 1 つでした。
魔女、魔女裁判の事例、魔術研究に関するさまざまな論文、そして聖書がこの著作の情報源であり、ジェームズ王が1590年からの魔女裁判に個人的に関わっていたことが大きく影響したと見られています。
(詳しくは近いうちにUPします)
シェイクスピアは、『デモノロジー』に出て来る魔術を『マクベス』では「3人の魔女」に帰しましたが、『マクベス』はイエズス会を悪魔崇拝者、殺人者、魔女として巧みに表現した戯曲でした。
イギリスの演劇関係者の間には、劇場内で『マクベス』の名を口にすると災いが起きるというジンクスがあり、いまでも「The Scottish play」と呼びかえる者もいるそうです。
長くなりました。今日はこのへんで。
お読みくださりありがとうございました。
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