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無原罪の聖母*バラ窓の秘密&燃えた尖塔*ノートルダム大聖堂復活記念③

黙示録21章
「そして、私は新しい天と新しい地を見た。
最初の天と最初の地は去っていき、もはや海もなくなった。
さらに私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天からくだってくるのを見た」

カトリックでは伝統的に、聖母マリアはその母であるアンナの母体に宿った瞬間から「アダムの罪(原罪)」から保護されたと信じられています。
これを無原罪の御宿りとして、1854年に12月8日を無原罪の聖母マリアの祭日と定めました。

7日夜の開会式は、パリ司教がノートルダム大聖堂の西正面「最後の審判」の彫刻下のドアを、司教杖で3回ノックするところから始まりました。

「我らが貴婦人」を呼び起こすようなノックのあと、重い両扉が開かれました。
それにしても扉の文様が美しくてうっとりしてしまいます。


モダンなデザインの祭服にはびっくり。

下の写真は19世紀の祭服です。

そういえば、12月になったのでアドベント(待降節)が始まっているんですよね。
アドベントの間のミサは紫色の祭服という決まりがあったような・・・紫は悔い改めを意味する・・・・ま、まあ、いいか(苦笑)


バイオリン演奏「G線上のアリア」が素晴らしかった。

「アメイジング・グレイス」も素晴らしかったです。

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開会式は、7日午後6時15分(グリニッジ標準時17時15分)から開始された模様です。ドナルド・トランプ次期米大統領と、ウクライナのゼレンスキー大統領が特別ゲストで出席しました。

前列左端は、アシュリー・バイデンさん(バイデンお爺ちゃんの娘)とその隣はジル・バイデン夫人。
トランプ氏と話しているのは、マクロン大統領の妻のブリジットさん。


イギリスのウィリアム皇太子


しかし、「カトリックの長女」を自称するフランスの大聖堂のイベントに、肝心のカトリックのローマ教皇が出席していないのは奇妙な感じがします。
カトリック国のスペイン(スペインが「カトリックの長女」を名乗ってもおかしくない)のフェリペ6世も参加辞退でした。

いくつかの世界の指導者はノートルダム大聖堂のオープニングに行くことを拒否した - NEWS.ru - 01.12.24


開会式で一番心が温まったのは、消防士たち、修復工事の職人たちの労をねぎらい、彼らを賛美するシーンでした。



新しい要素

前回の記事に、19世紀に行われた大修復で錬金術の要素が取り入れられたと書きましたが、今回の大修復でも新しい要素が取り入れられていました。


「明るすぎる」「落ち着かない」「ショッピングモールのようだ」と言われているのは、全照明をLED照明に変えたせいのようです。

なんと司教杖にもLEDが仕込まれていました(驚)


新しい祭壇

いやぁ、こんなのありか?と思ったのが新しい主祭壇の形です。

以前の主祭壇は、普通の角ばった長方形をしていました。火災での損傷がひどく廃棄されたそうです。

パリの大司教、ローラン・ウルリッヒは、フランスの芸術家ギヨーム・バルデがデザインした新しい祭壇に油を注ぎます。


キリスト教会の祭壇は、「最後の晩餐」の食卓を象ったものという通説があるようですが、そもそもは「動物の犠牲を捧げるための祭壇」から始まっているんですよね。

ラテン語の altare (「祭壇」) は、おそらくadolere (「燃やす」) に関連しており、したがって「燃える場所」である。

つまり、供物の動物を焼くかまどのことを祭壇と呼んでいました。

神への供物を焼くかまどは四角と決まっていました。
人間が自分の食事の煮炊きのために使うかまどは、円形でした。

この形の違いを決めた理由が面白かったので覚えているんですが、天の神様が立ち上る炎や煙を見て、四角い火煙なら神への供物、丸い火煙なら民の食べ物とわかるように、ということでした(笑)


司祭の服も現代アートみたいですね。


キリスト教は儀式で動物の犠牲は行いませんが、上の写真のように聖体(キリストの唯一の犠牲が「再び現存」することを意味するパンとワイン)を奉献するテーブルを祭壇と呼びます。

ノートルダム大聖堂の新しい祭壇は、テーブルトップが長方形ではあるのですが、モダン家具みたいでカトリック風ではないと言われているようです。

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クリスマス時期、youtubeでバチカンのミサなどの祭壇が見られます。

バチカンのサン・ピエトロ寺院の主祭壇


新しいバラ窓?

私が前に読んだ記事では、マクロン大統領は6つのステンドグラス窓を交換するという話がありました。

当初、火災では3つあるバラ窓は全部無事だったと言われていましたが、ステンドグラスの接合部の鉛が溶けている部分があったそうです。


Xに上がっていた北側のバラ窓がLED照明のせいなのか、よく清掃されたからなのか、以前とは違って青色が強く見えます。

北のバラ窓
火災以前の北のバラ窓


「ガーディアン」の記事では、西のバラ窓が新しくなったと書かれていましたが、バラ窓が前と違うと感じた人は、Xを見る限りでは今のところですが、私を含め5人ぐらいしかいません。私以外は英語圏の人。

実際に見ている方のほうが気がつかないのかもしれませんね。
まあ、パリの皆さんが満足しているなら、外野がごちゃごゃ言うのもね(苦笑)

西のバラ窓
火災以前の西のバラ窓



バラ窓の秘密

「バラ窓」は、ゴシック建築の教会の特徴です。
ノートルダム大聖堂のバラ窓はとても美しいと古くから評判でした。
私は実際に見たことがないので、写真から想像するだけですが。

聖母マリアは「奇しきバラの花」とも言われ、教会や大聖堂においてバラ窓はしばしば聖母マリアを暗示している。
しかし「バラ窓」という用語は17世紀以前には使われておらず、おそらく古フランス語の「roue(車輪、歯車)」からくるものであろうと思われる。

ノートルダム大聖堂に、初めてバラ窓が設置されたのは1182年または1185年頃。まだ網目模様がない小さなバラ窓だったそうです。

ノートルダム大聖堂に現存する最古のバラ窓は、1225年の西正面ファサードのバラ窓。
北の翼廊とバラ窓は1250年から1260年の間に設置され、1270年に南翼廊と南のバラ窓が完成しました。


当初、火災では3つのバラ窓は無事だったと言われていましたが、屋根が焼け落ちた部分を見ると、翼廊のバラ窓にわずかな損傷があったのではないかと思います。

火災で焼け落ちたのは赤で着色された部分。
南のバラ窓(覆いがかかっている部分)


ゴシック建築の大聖堂には基本的に3つのバラ窓がありますが、イギリスではバラ窓は通常、翼廊に限定されています。(例外もあり)

基本の3つのバラ窓は、入口(西)の上、左右の翼廊の端(北、南)の3カ所です。東は聖所(後陣)があるので、縦長のランセット窓になっているところが多いです。

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西のバラ窓
正面(西)の最古のバラ窓(1225年)
影になっているのはパイプオルガンです。
北のバラ窓
南のバラ窓
南のバラ窓


バラ窓が象徴するのは

バラ窓は「ホイールウィンドウ」とも呼ばれます。
ホイール(車輪)は秘教的には太陽の動き=時間のことです。
錬金術的な意味では火を燃やし続けること、やはり時間を意味しています。

錬金術では、黒→白→(黄色)→赤(ルベド)という経過をたどると前回の記事に書きました。
バラ窓も朝陽が入らない北のバラ窓は暗いので黒、昼間の陽が当たる南のバラ窓は白、夕陽が入る西バラ窓は赤に対応していると考えます。
太陽の動き=時間の移り変わりなんですよね。

そして三つの窓を結ぶと三角形になります。
黒い窓=土星、白い窓=木星、赤い窓=太陽と見てもいいでしょう。


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シャルトル大聖堂の北バラ窓のステンドグラスには、燭台を崇拝する天使が描かれています。
これも錬金術=火を燃やし続けることに通じているそうです。


シャルトル大聖堂の北バラ窓


バラ窓の起源

バラ窓の起源は、ローマのパンテオンのオクルスと言われています。
パンテオン神殿のドームの天井に穴が開いています。あれがオクルスと呼ばれる開口部です。

それがどのような経路でヨーロッパに伝わり、ステンドグラスで飾ったバラ窓に変化したのかは、まだあまりよくわかっていないみたいです。


フランスではメロヴィング朝の影響が強かったのじゃないかと思われます。
7世紀のイギリスの教会は、メロヴィング朝のガラス製造技術を持った石工をイギリスに招いて建てたと言われています。

残念なことにメロヴィング朝の装飾写本はほとんど残っておらず、バチカン図書館にある8世紀のゲラシアの秘跡の写本に留めるのみです。

「ゲラシアの秘跡」は、グレゴリオ聖歌以前の3つの部分から成り、典礼年に対応し、日曜日と祝祭のミサ、祈り、イースターと油の儀式と祝福、教会の奉献式での祈り、修道女の受け入れで構成されています。

ベルリンに所蔵されていたメロヴィング朝の大規模な美術コレクションは、ソビエト軍によってロシアに運ばれており、今日までロシアに残っているそうです。


余談*リンカーン大聖堂
イギリスのリンカーン大聖堂のバラ窓は、(イギリスでは通常、バラ窓は翼廊に設置される)北のバラ窓は「ディーンズアイ」と呼ばれ、南のバラ窓は「ビショップアイ」と呼ばれています。

ディーンズアイ(キリストの再臨と最後の審判が描かれている)
ビショップアイ(司教の目)

リンカーン大聖堂のバラ窓の解釈では、北は悪魔を、南は聖霊を表しており、司教の目は聖霊を招待するために南を向き、学部長(ディーン)の目は悪魔を除けるために北を向いています。
一方は救われるように注意し、もう一方は滅びないように注意しているのです。

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焼け落ちた尖塔、その意味


尖塔が崩れ落ちるシーンは何度見ても衝撃的です。
火は尖塔をコーティングしていた鉛を溶かし、有毒ガスと多くの粒子を放出しました。

2019年4月15日の火災当時、尖塔は修復中で、翼廊(トランセプト)の上に足場が建てられていました。
聖堂はラテン十字架の形をしており、翼廊は十字架の横の梁に相当します。

この修復工事は、13世紀に建てられた最初の塔が老朽化により1792年以降に解体されたあと、1859年8月15日ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュク(Eugène Emmanuel Viollet-le-Duc)によって新しく建設された2代目の塔もまた老朽化によって腐食したためでした。

塔の位置は、身廊(十字架の縦の梁)と翼廊が交差する部分(クロッシング)の真上に建てられていました。上の図で色が濃くなっている部分です。

塔が解体されていた時期のノートルダム大聖堂(1851年)


「昇天」と「復活」

ちなみに8月15日は「聖母の被昇天」の祭日です。

聖母の被昇天( Assumption of Mary)とはカトリック教会の用語で、聖母マリアがその人生の終わりに、肉体と霊魂を伴って天国にあげられたという信仰、あるいはその出来事を記念する祝日(8月15日)のこと。

聖母被昇天の日に尖塔が完成とは、聖母マリアに捧げられたとされている大聖堂に相応しい日ですね。

火災が起きた2019年4月15日は、とくに記念日ではなかったと思いますが、
不思議なシンクロで同じ日の夕方にエルサレムのアル・アクサ・モスクでも小規模な火災が起きたことを覚えています。


アル・アクサ・モスクは、8世紀にイスラム教の預言者ムハンマドが天馬に跨がり昇天したのを記念するために作られたと言われています。

宗教は違うけれど、「昇天」が共通ワードなんですよね。

キリスト教とイスラム教の共通点は、「イエス・キリストが世の終わりに戻って来る」ということです。

コーランにはイエスが戻ってくるとは明記されていませんが、イスラムの伝統では、イエスが世の終わりに戻ってきて、治癒の力を行使すると信じられています。

※イスラム教では、イエスは預言者であり、救世主とは考えません。


同じ日のほぼ同じような時刻に、キリスト教とイスラム教の重要な礼拝堂で火災が起きるなんて、これは単なる偶然でしょうか。
最近「偶然陰謀論」と呼ぶみたいですね(苦笑)


アル・アクサ・モスクは、シオニストがそのモスクを壊して「第三神殿」を建てようとしている場所です。

「手がかりは、まるで我々に知らせたいかのように残されている」と言った人がいます。それに気づくかどうかですよね。

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たとえば、2015年に起きたフランスとアメリカの銃撃事件の関連性

パリ同時多発テロ事件(2015年11月13日)
パリ市街と郊外のサン=ドニ地区の商業施設において、ISIL(イスラム国ないしIS)の戦闘員と見られる複数のジハーディストのグループによる銃撃および爆発が同時多発的に発生し、死者130名、負傷者300名以上を生んだ[2]テロ事件。

サンバーナーディーノ銃乱射事件(2015年12月2日)
アメリカ合衆国カリフォルニア州のサンバーナーディーノの障害者支援の福祉施設インランドリージョナルセンターで、重武装した2名の犯罪者によって発生した銃乱射事件。
事件現場にて14名が死亡、重軽傷者17名。事件発生後に事件現場から数マイルの住宅街で、警察によって容疑者2名(男女1)が射殺された。

この離れた場所での事件が同じ意図で繋がっていることは、CIAだけが知っていたかもしれませんね。


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ノートルダム大聖堂の火災原因については、フランスでは詮索してはいけない雰囲気があるようですね。

私が「おや?」と思ったのは、ノートルダム大聖堂の閉門時間は通常18時45分だったそうですが、4月15日は17時30分にすると発表していたとか。

ノートルダム大聖堂の火災のページによると、大聖堂の屋根の下の屋根裏部屋から18時18分に出火したそうです。
通常の閉門時間だったら大混乱になっていたことでしょう。一般のけが人も出ていたかもしれません。




思いっきり余談

余談ですが、現在起きているシリアのアサド政権の崩壊。
無原罪の聖マリアの祭日に起きた出来事でした。

アサド政権を倒した反体制勢力「ハヤト・タハリール・シャム(HTS)」の指導者と言われているアブー・モハメド・アル=ジュラニは、2017年にシリアのアメリカ大使館がテロリストと認めた人物。

アブー・モハメド・アル=ジュラニ

アブー・モハメド・アル=ジュラニは、ISISとアルカイダでテロリストとして20年以上活動。 アル・ヌスラ戦線(アルカイダ支部)を創設した。

ヌスラ戦線は主にシリアのスンニ派イスラム教徒で構成されており、アサド政権の転覆を目的とし、シャリーアに基づくパン=イスラーム主義国家の成立とイスラム帝国の復権を目指している。

反政府勢力と言われるテロリストたちが、新しいシリア政権になったわけですが、混乱の本番はこれからだと思います。
詳しくはまたのちほど。


大イスラエル計画については、良かったら下の記事をご覧ください。



以前の尖塔の概要


火災前の尖塔

ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクの尖塔のデザインは、オルレアン大聖堂アミアン大聖堂の尖塔をモデルにしたもの)に触発され、土台は木製(オーク材)で鉛でコーティングされていました。

尖塔の高さは96メートル(315フィート)で、最初の尖塔より18メートル(59フィート)高くなっていました。


尖塔は大聖堂の特徴のひとつですが、ロンドンのウェストミンスター寺院(チャールズ国王が戴冠式をした)は、第一次世界大戦で失ったままです。

現在、世界で最も高い尖塔の教会は、ドイツのウルム大聖堂の約162メートルの尖塔です。


ノートルダム大聖堂の尖塔は、伝説の生き物の 4 つの王冠に囲まれていました。幸運にも火災の4日前に修復の為に取り外されていました。

尖塔の基部を取り囲んでいた12使徒の像(屋根の 4 つのセクションにそれぞれ、3人の使徒が1 列に並んでいる)も工事前に取り外されており、美術品の修復を専門とするソクラ社に移管されていました。



ガリアの雄鶏

尖塔の頂上には、雄鶏の重さは約30 キログラム (66 ポンド) の重さの雄鶏が取り付けられてあり、その中には 3 つの聖遺物(いばらの冠の小片、聖ドニの聖遺物、パリの守護聖人である聖ジュヌヴィエーヴの聖遺物) が収められていました。


最初は、焼失したと思われた雄鶏は、災害の翌日に瓦礫の中から発見されました。ほぼ無傷の状態で、深刻な損傷はなかったそうです。


この雄鶏を見て思い出した言葉があります。
石は水には強いが火には弱い。青銅は火には強いが水には弱い」。
これはフリーメイソンにも関係した言葉です。

今回の新しい尖塔の外観は、あまり話題になりませんでしたが、19世紀のウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクの設計に合わせて再建されたそうです。
2023年12月16日に新しい尖塔に、新しい雄鶏(金銅)が置かれました。

黄金の雄鶏には古いオンドリと同じ聖遺物のほかに、建物の再建に参加した2000人の名前も含まれているそうです。
古い雄鶏は現在、大聖堂博物館に保管されています。


最後の晩餐の日、イエスはペテロに翌朝雄鶏が鳴く前に彼がイエスを三回否認すると予言しました。イエスの予言通り、捕らえられたペテロは雄鶏が鳴く前にイエスを三回否認しました。

雄鶏が毎朝明け方に鳴くことは、光が闇に勝利し、善が悪に勝利することの象徴と言われています。
また、雄鶏はキリストの突然の再臨、死者の復活、そして最後の審判に対する警戒と準備というキリスト教徒の態度の象徴でもありました。

そのためルネッサンス時代には、雄鶏はカトリック国家としてのフランスのシンボルとなったそうです。

紋章における雄鶏は、「戦いの準備や覚悟ができていること」を暗示するものとして描かれることが多い。1789年から1804年にかけて、雄鶏はフランスの国章に描かれ、革命という闘争で勝ち取った自由を象徴していた。

ガリアの雄鶏とは、ラテン語で「ガリアの住人」を意味するGallusと「雄鶏」を意味するgallusの言葉遊びによるものです。

パリのエリゼ宮の庭の門に立つガリアの雄鶏


ガリアの雄鶏は国家の擬人化として人気が薄れていましたが、フランス革命のときに再び人気が高まりました。
それまで歴史上のフランスの起源を「フランス初のキリスト教徒の王」であるクローヴィス 1 世の 洗礼まで遡らせていましたが、共和主義者は王族とキリスト教の起源を否定し、フランスの起源を古代ガリアまで遡らせました。


ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクについて

尖塔の中央の支柱の基部には、労働者の功績をたたえる鉄製の銘板があり、コンパス(製図用具)と三角定規の絵が刻まれていた。
これらは石工組合のシンボルであり、カトリックの伝統における宇宙の偉大な建築家としての神の役割をほのめかすものであった。

銘板にはウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクとオーギュスト・ベル(1796-1862)の両名の名前が記載されているため、この2人はフリーメイソンだったと推測されている。

ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュク(覚えられない長い名前(苦笑)は、祖父が建築家で、父は詩人で上級公務員のエマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクでした。

ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュク自身は、歴史家、理論家、デザイナー、教授、作家、装飾家、考古学者、雑誌編集者、登山家などでもありました。

ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュク

デュクの弟、アドルフ(1817-1878)は画家で、デュク一家は全員チュイルリー宮殿に住んでいたそうです。

チュイルリー宮殿(1860年頃)


母エリザベトは、知識人を招いたサロンを開いていており、母の兄でドレクリューズは美術評論家として小説家のスタンダールプロスペル・メリメ(『カルメン』の作者)と交流のあったため、幼い時から知的交流のあふれる教養的な家庭環境で育ちました。

メリメは交流があったモンティホ伯爵夫人の娘ウジェニーが、1853年にナポレオン3世の皇后になった経緯で、第二帝政政府はその年のうちにメリメを元老院議員とし、レジオンドヌール3等と2等を立て続けに授与しました。

叔父は1806年に創設されたエコール・デ・ボザール(高等美術学校)への入学を勧めましたが、デュクはジャック=マリー・ユヴェアシール・ルクレールの建築事務所で実務経験を積むことを選択しました。

デュクの弟子は数多く、彼の作品は ヨーロッパとアメリカの19世紀と20世紀の最も偉大な芸術家たちに影響を与えました。
サグラダ・ファミリア教会の設計者アント二・ ガウディもデュクの影響を受けています。


19世紀当時新しい建築材料として使われ始めていた鉄の利用を認めている点もヴィオレ・ル・デュクの建築論の特徴の一つである。
彼はゴシック建築への合理的解釈を広げ、合理的建築こそが良い建築なのであり、19世紀の建築も合理的建築を目指さなければならないとした。
彼は中世ゴシック建築の研究をしていたが決して懐古主義者ではなく、過去と現在の建築の目指すべきものの違いを認識していた。
その上で彼はその違いを材料の違いに求め、新しい材料である鉄を目指すべき新しい建築の材料として重要視した。

デュクは画家でもありました。

チュイルリー宮殿の貴婦人たちの晩餐会

ルイ・フィリップ国王に絵を売って資金にし、1836年にイタリアへの長旅をを実現させています。
彼の絵は、アールヌーボー を含む19世紀末の装飾芸術にも影響を与えました。


以下は、デュクの仕事について書いています。
マグダラのマリアの教会のこともチョッピリ。

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