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備忘録『我がアメリカのいとこ』④リンカーン暗殺の首謀者ジョン・ウィルクス・ブースとシェイクスピア
さてやっと、リンカーン大統領暗殺の首謀者、ジョン・ウィルクス・ブースについて書いていこうと思いますが、ブースの先祖もなかなか興味深いメンツ揃いでした。
宗教改革がリンカーンの暗殺にも関わっていたなんて、考えが及んでいませんでした。
これまでの記事
本題に入る前にジョン・サラットに関する情報です。
ジョン・サラットは、母親が裁判にかけられる間、カナダのカトリックの司祭二人(イエズス会)のもとに潜伏していました。
9月に、サラットは髪の色を染め、偽名を使ってイギリス行きの船に乗り、リバプールでカトリック教会に匿われていたそうです。
その後フランスを経由してイタリアに入り、12月初旬、ジョン・ワトソンとして教皇ズアーヴに入隊しました。
翌年(1986年)4月、一旦捕らえられるも脱走し、自分は不当に拘束されているカナダ人だと偽って英国領事館のサポートを取り付け、エジプトに向かったところで逮捕となりました。
サラットの失敗は、まだズアーヴの制服を着ていたことです。
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ジョン・ウィルクス・ブースのルーツ
以前の記事で、ブース家の親戚だったロンドン市長ジョン・ウィルクスについて書きました。
父:ジュニアス・ブルータス・ブース
アメリカのブース家は演劇一家で、父ジュニウス・ブース(Junius Brutus Booth)と母メアリー・アン・ホームズはイギリス出身で、1821年にアメリカ・メリーランドに移住しました。
この時代のイギリスはジョージ4世が即位したばかり。ジョージ4世は反カトリックだったので、カトリック信徒は生きづらい時代(職業が制限されていた)ではありました。カトリック解放は1829年。
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実は、ジュニウスには若い時に結婚したマリー・クリスティーヌ・アデレード・デラノイという妻がおり、メアリー・アン・ホームズは花売り娘をしていた愛人でした。
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最初の妻マリー・クリスティーヌは、夫が長期の遠征ツアーに行ったぐらいに考えていたようです。
数年後、夫からの仕送りが途絶えたあと、成人した息子リチャード・ジュニウス・ブースをアメリカに送って、ようやく夫が新しい家庭を持っていたことを知ったそうです。
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ジュニウスの両親は、ロンドンで弁護士をしていたリチャード・ブース(ホイッグ党支持)とジェーン・エリザベス・ゲームでした。
母方のゲーム家の先祖はどうしても辿ることが出来ませんでしたが、Game姓はCamの変化形のようです。
父のリチャードは高齢になってから、イギリスからジュニウスのもとに移住しています。
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父方の祖父ジョン・ブースは銀細工師、祖母エリザベスが前述のロンドン市長ジョン・ウィクルスの親戚でした。
銀細工師は、彫金師や宝石職人と思います。
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ジュニウスの気になるポートレートを見つけました。
Hidden hands してますね?フリーメイソンだったのか??
とすると、ジュニウスはプロテスタントだったということかな。
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ジュニウスは、アンドリュー・ジャクソン大統領と親しかったと言われています。アンドリュー・ジャクソンは、両親がアイルランド移民でした。
少なくとも1798年からフリーメイソンであったジャクソン大統領は、1822年から1823年にかけてテネシー州グランドロッジのグランドマスターでした。
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余談(ジャクソン大統領暗殺未遂)
1835年1月30日にジャクソン大統領の暗殺未遂事件が起きました。
犯人のリチャード・ローレンス(イギリス移民の画家)は、2丁の拳銃を所持していましたが、2発とも不発だったのですぐに捕らえられました。
その後、ローレンスは精神異常を理由に無罪となり精神病院に送られたのですが、その時の検察官はフランシス・スコット・キーでした。
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ローレンスはペンキの毒(鉛毒)の影響で、自分がイングランド王リチャード3世であると妄想するようになり、2つのイングランドの地所を所有しているが、ジャクソン大統領が合衆国第二銀行に反対しているため、自分のお金が分配されていないと思い込んでいたということでした。
しかし、ジャクソン大統領を含む多くの人々は、ローレンスはジャクソンの政敵の誰かに暗殺を命じられたと信じていたそうです。
リチャード3世(在位:1483年 - 1485年)は、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『リチャード三世』(1591年初演)において、ヨーク朝に代わって新たに興ったテューダー朝の敵役として描かれています。
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ジュニウスがアメリカに移住して、最初に演じたのが「リチャード3世」役でした。ジュニウスは1年も経たないうちに、当時の米国で最も著名な俳優になったと言われています。今でいう「憑依型俳優」だったようです。
しかし、上の写真のうつろな表情からも察せられるように、晩年はアルコール依存症になり舞台上でも奇行が増え、演技中に共演者を殺しかけたこともあったとか。
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ジュニウスは元の妻と正式に離婚した翌年(1852年)、蒸気船で旅行中に死亡しました。1981年になって、ジュニウスはアメリカ演劇の殿堂入りを果たしています。
ジュニウスが亡くなったとき、ジョン・ウィルクス・ブースは14歳でした。
彼は、ジュニウスが残したボルチモアのチューダーハウスに住んでいました。この家を建てた大工のひとりが、のちにリンカーン暗殺に協力することになったエドモンド・スパングラーでした。
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シェイクピア劇俳優の兄
長男ジュニウス・ブルータス・ブース・ジュニア(以下ジュニウス・ジュニアと記す)とすぐ上の兄エドウィンは、すでに舞台俳優として活動しており、シェークスピア劇の俳優として評判を得ていました。
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リンカーンが暗殺された際に、長兄のジュニス・ジュニアも共謀を疑われて投獄されましたが、彼はオハイオ州シンシナティの劇場に出演していたことが証明されて釈放されました。
1864年11月、ブース3兄弟は、ニューヨークのウィンター・ガーデン劇場の『ジュリアス・シーザー』に出演しました。
この公演は「ニューヨーク史上最高の演劇イベント」と絶賛され、収益はセントラルパークのウィリアム・シェイクスピア像の建設に充てられたそうです。
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シーザー役はエドゥイン
これが兄弟揃っての最後の公演になりました。
北軍支持派の兄エドウィンとは南軍支持のブースと対立し、兄弟は断絶しました。
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エドウィンがそうとは知らずに、リンカーン大統領の息子ロバートを助けていた話は「きつねの紋章のトッド家の歴史」に書きましたのでよかったらご覧ください。
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余談(エドウィン暗殺未遂)
エドウィンは、父や兄弟よりも大衆に愛された演劇人だったようです。
1879年4月23日、エドウィンがイリノイ州シカゴの劇場で『リチャード2世』を演じていたとき、マーク・グレイという人物がエドウィンに向かってピストル2発を発砲しました。
グレイの銃弾はエドウィンに当たりませんでしたが、グレイはエドゥインが友人に不当な行為をしたことが動機だと述べたそうです。
二人には直接の面識がありませんでした。
暗殺未遂事件が起きた日はシェイクスピアの誕生日でした。当時、エドウィンは暗殺予告を何度も受けていたそうです。
『リチャード二世』は、シェイクスピアの1595年頃の作品とみられています。
リチャード2世は、プランタジネット朝最後のイングランド王(在位:1377年6月22日 - 1399年9月29日)でした。
エドウィンの最後の出演は、1891年に演じた『ハムレット』でした。
ハムレット役はエドウィンの代表作として高く評価されています。
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ブースと政治活動
ジョン・ウィルクス・ブース(以下ブースと記す)が政治に関心を持ったのは16歳の時。父が亡くなり学校を中退した彼は、プロテスタントの「ネイティブ・アメリカン党」またの名を「ノウ・ナッシング」党(部外者に訊かれたら「私は何も知らない」という決まり)の活動家になったと言われています。
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反カトリック&移民排斥運動
1850年代初頭のアメリカは数多くの秘密結社が生まれていました。
その中でもユナイテッド・アメリカンズ騎士団と星条旗騎士団(OSSB)が最も人気だったそうです。これらの秘密結社は非カトリック教徒、特に下層中流階級や熟練労働者にまで浸透していったそうです。
ノウ・ナッシング党は、後に米国で起こった反ユダヤ主義の民族主義グループとは異なり、また彼らの熱狂的な外国人嫌悪と宗教的偏見にもかかわらず、ユダヤ人やユダヤ教に怒りを向けることはなかった。
アメリカにおける反ユダヤ主義
1855年の春、ノウ・ナッシング党の候補者レヴィ・ブーンがシカゴ市長に選出され、すべての移民の市内での雇用を禁じました。
リンカーンはノウ・ナッシング運動の理念には反対していましたが、イリノイ州で奴隷制度反対連合を成功させるために党員の票が必要だったため、公に非難することはありませんでした。
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1855年8月6日、ケンタッキー州ルイビルで22人が死亡した暴動は、「血の月曜日」と呼ばれて記憶されています。
後に5人が起訴されましたが、有罪判決は下されず被害者への補償も行われなかったそうです。
「血の月曜日」のきっかけは、主にルイビル・ジャーナル紙の編集者ジョージ・D・プレンティスによる過激で扇動的な反移民の社説だったと言われている。
暴動の後、1万人以上がルイビルから移住したと言われていますが、人口減少により数十の地元企業が廃業し、賑わっていた商業地区も空き店舗が増えたそうです。この傾向に歯止めをかけたのは、皮肉にも南北戦争でした。
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ブースが住んでいたメリーランド州は、カトリックのルーツを持っていましたが、1850年代には人口の約60%がプロテスタントとなり、反移民感情の高まりがノウ・ナッシング党の台頭を促しました。
ボルチモアで最初にノウ・ナッシングの候補者として当選したのは、1855年の市長サミュエル・ヒンクスでした。
民族的対立と世俗主義の対立がメリーランド州の市町村選挙と連邦選挙をめぐる暴動となり、ノウ・ナッシング系のギャングと民主党系のギャングの激しい衝突が起こりました。大砲も使用されたそうです。
ノウ・ナッシング運動の土着主義的、反カトリックの精神は、1890年代のアメリカ保護協会や1920年代の第二次クー・クラックス・クランなどの後の政治運動によって復活した。
2002年の映画『ギャング・オブ・ニューヨーク』では、"ネイティブ・アメリカンズ"のリーダー、ビル・ザ・ブッチャー(実在のノウ・ナッシング党のリーダーであるウィリアム・プールの架空のバージョン)とアイルランド移民達の戦闘が描かれています。
幼少の頃に目の前で父親を殺され、ビル・ザ・ブッチャーに復讐を誓う移民の青年をレオナルド・ディカプリオが演じています。
俳優デビュー
1858年、ブース(17歳)は俳優として活動を開始しました。
優秀な兄弟と比較されたくなかった彼は「JB・ウィルクス」という芸名で、最初の役は『リチャード3世』のわき役リッチモンド伯爵だったそうです。
リチャード3世時代のリッチモンド伯爵といえば、のちのヘンリー7世です。当時は、王族もしくは王族に近しい貴族がリッチモンド伯になりました。
ブースは1858年に合計83の演劇に出演しましたが、暴君を殺すブルータスの役が一番好きだったと語っていたそうです。
シェイクピアによって書かれた『ジュリアス・シーザー』(1599年)では、は、シーザーとして知られるローマの独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルに対する陰謀・暗殺が描かれていますが、この劇の主人公はシーザーを暗殺するマーカス・ブルータスです。
シェイクスピアは、ブルータスを通して名誉欲・愛国心・友情、葛藤が描きました。
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女性ファンが多かったらしい。
石油ビジネスの失敗とリンカーンへの敵意
1859年8月にペンシルベニアの石油ラッシュが始まったとき、ブースは「ドラマティック・オイル」(後にフラー・ファーム・オイルに改名)を共同経営していました。当時は良好な産出量と考えられていた1日25バレルを 産出していたそうです。
しかし、スタンダード・オイルのような大きな生産者が地域の油井や製油所を併合し始め、オイルラッシュは下火になっていきました。
ブースの油井は産出量を増やすことに失敗し、1864年11月に石油事業から撤退しました。現在の価値で1,168,000ドルの損失を被ったそうです。
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奴隷制度廃止論者への敵愾心
この頃、ブースには大きな心境の変化があり、奴隷制度廃止論者に強く反対するようになっていました。
移民排斥で一致していた「ノウ・ナッシング党」は、奴隷制の問題では分裂していました。
1859年12月、ブースは奴隷制度廃止論者ジョン・ブラウンの処刑を知り、処刑に立ち会えるように民兵の制服を借りて着て行きました。
なぜ、わざわざ処刑を見に行ったのか?
ブースと仲が良かった妹エイジアにのちに語った言葉は「ブラウンは「勇敢な老人」であり、自分が見捨てられたと感じたとき、彼の心は傷ついたに違いない。誰も彼を救いに来なかった」でした。
ジョン・ウィルクス・ブースは、ジョン・ブラウンの絞首刑を目撃します–鉄の旅団
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ブースは、ブラウンとは反対に奴隷制を支持していましたが、ジョン・ブラウンには敬意を持っていたそうです。
ブラウン自身は自分の死が「奴隷解放」の助けになると信じていました。
なので、ブースはブラウンの死を見届けて安堵したのだそうです。
矛盾していますが、ブースはブラウンの死を「殉教」や「犠牲」と捉えていたのだと思います。それは、大義のために死ぬことへの憧れだったのではないでしょうか。
そういった屈折した死への憧憬が、「生贄」としてリンカーンを暗殺することに繋がったのじゃないかという気がしました。
ヴィクトル・ユーゴーは、ジョン・ブラウンの恩赦を得ようと新聞に公開書簡を送りました。1859年12月2日に書かれたこの文章は、内戦の可能性を警告していました。
1860年11月の選挙を前に、共和党はブラウンからできるだけ距離を置こうとしていました。残念ながらリンカーンも、ブラウンを「狂信者」と呼んで退けました。
たしかにジョン・ブラウンのやり方は行き過ぎたけれど、私の好きなフレデリック・ダグラスやエマーソンが、ジョン・ブラウンを評価していたのはせめてもの救いです。
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ゴールデンサークル騎士団(KCG)
ブースは、1860年頃からゴールデンサークル騎士団(KCG)に参加していたと言われています。ジョン・サラットもメンバーでした。
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ゴールデンサークル騎士団は、1854年に冒険家、闇医者、作家でありノウ・ナッシング党の活動家だったジョージ・W・L・ビックレーによって設立された。KGCの目標は、ハバナを中心としてアメリカ合衆国南部・テキサス州・メキシコ州・西インド諸島・中央アメリカ・南アメリカ大陸の一部を含む約3800平方キロメートルの円内に、奴隷制の帝国を築く事にあった。
儀礼や位階など、会に関係する多くの要素をフリーメイソンから取り入れていたそうです。
メンバーには、著名なフリーメイソンのアルバート・パイクもおり、パイクはノウ・ナッシング党の設立時に参加していました。
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アメリカ南北戦争中は、北部の南部の同調者たちは「自由の息子達」と改名されました。
自由の息子達による多くのゲリラ戦行為の中には、政権転覆蜂起を企てた北西部陰謀事件などがあります。
名目上は秘密結社ではあるものの、ゴールデンサークル騎士団と自由の息子達の存在は決して秘密とはみなされていませんでした。
第15代大統領を務めたジェームズ・ブキャナン・ジュニアもゴールデンサークル騎士団のメンバーでした。
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1859年(安政6年)には日本の江戸幕府における神奈川奉行兼外国奉行で、日米修好通商条約批准書交換使節(万延元年遣米使節)として渡米した新見正興と謁見した。
大統領として特に実績のない彼にとっては、日本史の舞台に登場する数少ない出来事である。孝明天皇にはウォルサムの懐中時計を贈呈している。
副大統領ジョン・C・ブレッキンリッジもメンバーで、最初の計画はリンカーンが1回の就任時にボルチモアで捕らえてワシントンに到着させないようにし、その後コロンビア特別区を占領して、リンカーンの代わりにブレッキンリッジを大統領に据えるというものだったそうです。
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https://en.wikipedia.org/wiki/Baltimore_Plot
このときにキプリアーノ・フェランディーニというコルシカ島出身の理容師が告発されていますが、ゴールデン・サークル騎士団の会員であることで起訴されなかったそうです。
リンカーンが大統領に選出されると、ゴールデン・サークル騎士団は南部諸州の米国からの脱退に対する支援に方向転換したと言われています。
ゴールデンサークル騎士団は、イエズス会のフロント組織とも言われています。真実は??ですけれども。
ただ、リンカーン暗殺の関係者にイエズス会の名前が度々出てくるんですよね。ジョン・サラットの先祖もイエズス会絡みでしたし、ブースはどこかの段階でイエズス会にスカウトされたのかも知れません。
長くなりますので、続きは次の記事に送りたいと思います。
悲劇『マクベス』
ところで、シェイクスピア作品は「愛」「人生」「人間」という普遍的なテーマを扱っているので400年以上経っても人気があるのだと思います。
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悲劇『マクベス』(Macbeth)は、 勇猛果敢だが小心な一面もある将軍マクベスが妻と謀って主君を暗殺し王位に就くが、内面・外面の重圧に耐えきれず錯乱して暴政を行い、貴族や王子らの復讐に倒れるという筋書きですが、実はシェイクスピアはイエズス会への非難を巧みに隠していたそうです。
そんな風に思ってなかったのでびっくりでした。
シェイクスピアのこの物語の出典シェイクスピアのこの物語の出典は、シェイクスピアや同時代の人々によく知られたイングランド、スコットランド、アイルランドの歴史であるホリンシェッド年代記(1587年)における、スコットランド王マクベス、マクダフ、ダンカンの記述であるが、劇中の出来事は実際のマクベスの歴史とは大きく異なっている。
この悲劇の出来事は、1605年の火薬陰謀事件に加担したとしてイエズス会神父ヘンリー・ガーネットが処刑されたことと関連づけられている。
今日はこのへんで。
お読みくださりありがとうございました。
https://youtu.be/Tr3jiSk2uMY?si=BXWy4L7YaSMfChNl