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ルイ16世の最期の日までの備忘録③フランスの宗教戦争・サンバルテルミの虐殺

1572年8月24日に起きたサンバルテルミの虐殺は、フランスのカトリックがプロテスタントを大量虐殺した事件です。

聖バルテルミーの虐殺あるいは聖バーソロミューの虐殺(St. Bartholomew's Day Massacre)とも表記される。
※8月24日は、聖バルトロマイの日。
バルトロマイは、新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。

ことの起こりは、その1週間前のある結婚式が発端となります。
1572年8月17日に、当時のフランス国王シャルル9世の妹マルグリットと、ナバラ王アンリ・ド・ブルボン(後のフランス国王アンリ4世)の結婚式が行われました。

当時のフランスは、カトリックとユグノー(プロテスタント)の対立が激化しており、国王の母后カトリーヌ・ド・メディシスの提案により、ユグノーとカトリックとの融和を図るため、ユグノーの指導者であるナバラ王アンリとマルグリットの結婚が行われたのです。
国王側はもちろんカトリックであり、ナバラ王アンリはプロテスタントでした。

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※カトリーヌ・ド・メディシスCatherine de Médicis、1519年4月13日 - 1589年1月5日)のメディシスはイタリアのメディチ家のこと。
フランス王アンリ2世の王妃。アンリ2世との間に10人の子供を設け、そのうち7人が成人した。夫のアンリ2世が事故死のあと、王位を継ぐ3人の男子の摂政を務めた。


マルグリットとナバラ王アンリの結婚を祝うため、ユグノーの多くの貴族がパリに集まっていました。宴は3日間開催されていたようです。
祝賀ムードの中、8月22日にユグノーの中心人物であるコリニー提督が狙撃されて負傷する事件が起きます。犯人は逃走してしまいますが、再び8月24日にカトリック派のギーズ公アンリ1世の兵が改革派貴族を襲い、コリニー提督も虐殺されてしまうのです。

※当時、ネーデルラントの改革派がカトリック国スペインの植民地支配に反抗していたが(八十年戦争)、コリニー提督はネーデルラントの改革派と連合して、スペインに開戦することを強硬に主張したため、摂政カトリーヌ・ド・メディシスらから疎んじられていた。
また、ユグノー戦争ではカトリック派に対して残虐な仕打ちが多く、カトリック側から恨みを買っていた。


このコリニー提督の暗殺が口火となり、サンバルテルミの虐殺が開始されます。この虐殺は、国王シャルル9世(当時は22歳)と母カトリーヌらによって計画されたものと言われています。
しかし、シャルル9世は、コリニー提督を父親のように慕っていたとも言われており、コリニーの死によって錯乱状態になっていたのでは?という説もあります。

※シャルル9世は、長兄フランソワ1世が早世したため10歳で即位している。実権は母后であるカトリーヌに握られていた。
この事件の約2年後の1574年5月30日にシャルル9世は死去した。


先の22日のコリニー提督の狙撃事件を聞きつけた、コリニーの義弟が兵4000を率いてパリ郊外に駐屯しており、彼らが報復を行うのではないかとパリ市民は恐怖におののいていました。
8月23日夕刻、母カトリーヌはシャルル9世を説得し、シャルル9世は虐殺を許可したとも言われています。結婚式のためにユグノーの貴族たちがパリに集まっていることは、一度に粛清するチャンスだったのです。

この決定が下されるとパリ市政当局者たちが召集され、プロテスタントの武装蜂起を防ぐために城門を閉じ、そして市民を武装させるよう命じられました。
虐殺開始の合図は、ルーブルに近いサン・ジェルマン・ロクセロワ教会(フランス国王の教区教会)の朝の祈り(深夜から夜明けの間)の鐘の音であったであろうと推測されています。

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コリニー提督の遺体は窓から投げ出され、首を斬られ、残された体は群衆によって切り刻まれ、胴体はセーヌ川の岸辺まで運ばれて絞首台に吊るされ、そして豚のように焼かれた、というおぞましい記録が残っています。
同時に他のユグノー貴族も殺害されました。

また、この虐殺は民衆の暴動の引き金となり、民衆が市内のプロテスタントを襲撃、商店を略奪し、女性、子供、赤ん坊まで見境なく虐殺してしまったそうです。パリ市内での虐殺は3日間続いたと言われています。
また、この虐殺の混乱に巻き込まれ、多数のカトリック市民も殺害されたそうです。

(本当に宗教観の相違による諍いは恐ろしい💦同じキリスト教徒なのに、宗派が違うことで殺し合うなんて💦)



新郎のナバラ王アンリとその従弟のコンデ公はカトリックに改宗することで助命されました。
8月26日、国王シャルル9世は「王室に対するユグノーの陰謀を阻止すべく虐殺を命じた」と宣言し、市内の一部で虐殺が続いている最中に祝祭と行列が催されたとのこと。

虐殺はフランス各地に広まり、約2か月続きました。ほとんどはパリからのニュースが到着した直後に起こりましたが、1ヶ月以上遅れて発生している場所もあったそうです。
犠牲者は約1万人~3万人と言われ、正確な数は把握できなかったようです。
このあと、ユグノーからの大量改宗が行われ、また他国へ避難したユグノーもいたため、ユグノー人口は大幅に減少していきました。


カトリック教会は、サンバルテルミの大虐殺を「ユグノーによるクーデターの脅威に対する正当防衛」とみなし、教皇グレゴリウス13世は「ユグノー撲滅 1577年」(Ugonottorum strages 1577)の標語とともに虐殺されたプロテスタントの隣に十字架と剣を掲げた天使を刻んだメダルを発行しました。
コリニー提督はキリスト教世界に対する脅威であると見なされていたので、1572年9月11日をレパントの海戦とユグノー虐殺の合同祝祭日と制定されました。

※教皇グレゴリウス13世(Gregorius XIII,1502年1月7日 - 1585年4月10日)
教会改革、ならびにユリウス暦を廃し、グレゴリオ暦を採用したことでも有名である。ちなみに1585年3月、天正遣欧使節の少年たちが謁見している。


フランスの穏健派カトリックは宗教統一がかくも多くの流血の価値があるものなのかと動揺し、宗派間の利益よりも国家の統一に重きを置くポリティーク派が生まれます。
ポリティークとは、王国の統一のためにはカトリック・プロテスタントの両教徒は教理を超えて市民として平和的に共存すべきだとするもので、政教分離原則(ライシテ)の土台となる考え方のひとつ。
キリスト教からの国家の独立を掲げ、国内にあっては神から直接権限を委託された存在としてフランス王権の強化を図ろうとするこのグループが、宗教戦争を勝ち抜いたアンリ4世の周囲でブルボン朝による国政の主流を担うことになっていきます。
それが、絶対王政というかたちとなって次代に展開していったのです。


1574年5月にシャルル9世は死去し、弟のアンリ3世が即位していました。
サンバルテルミの虐殺のあと、ユグノーとの四次戦争に突入します。
その後、開戦と休戦を繰り返し、アンリ3世の弟で第4王子のアンジュー公フランソワが中心となったポリティーク派がユグノーと同盟を結んで優勢になっていきます。
この同盟は、不満の党マルコンテンツと呼ばれ、アンジュー公を王位継承者にする陰謀が計画されていました。そのため、ナバラ王アンリも宮殿から逃走する助けを得られたのです。
しかし、アンジュー公がアンリ3世より先に亡くなったため、この陰謀は実現しませんでした。

ナバラ王アンリは1576年に宮廷から脱出して、プロテスタントに再改宗しています。1584年6月にアンジュー公が死去すると、ナバラ王アンリが筆頭王位継承権者になりました。
危機感を持ったカトリック陣営はギーズ公アンリを盟主とする「カトリック同盟(ラ・リーグ、"la Ligue")」を結成して対抗します。
カトリック同盟はアンリ3世に退位を求め、内乱は宗教問題に王位継承問題が加わって、国王アンリ3世、カトリック同盟のギーズ公アンリそしてユグノー陣営のナバラ王アンリによる「三アンリの戦い」と呼ばれるようになります。

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1588年にパリで「バリケードの日」事件が起きます。
1588年5月12日、パリ市民は通りにバリケードを築き、カトリック同盟の盟主であるギーズ公以外のいかなる者の命令に従うことも拒否しました。
ひとつを除いてパリのすべての門が閉鎖されたため、王立軍はルーブル美術館に撤退しました。次の日、1588年5月13日は約60人の兵士が殺されたそうです。
母カトリーヌは間一髪で危機を逃れ脱出していた国王に、この場は妥協をするように助言し、6月15日、アンリ3世は正式に統一勅令に署名をし、同盟の全ての要求を受け入れました。

アンリ3世は巻き返しを図り、12月23日ギーズ公を暗殺してしまいます。この時、病床にあった母后カトリーヌは息子の愚行を嘆きながら、翌年、1589年1月5日に69歳で病死しました。


カトリック同盟の盟主だったギーズ公の暗殺にフランスのカトリックは激昂し、国王アンリ3世とさらに敵対していきます。
アンリ3世は、ナバラ王アンリ率いるユグノー陣営と同盟を結び、応戦しますが、1589年8月2日、アンリ3世は暗殺されてしまいます。
アンリ3世の死により、3世紀近くにわたったヴァロワ朝は断絶し、ナバラ王アンリがアンリ4世としてフランス王位を継承し、ブルボン朝が開かれたのでした。

このアンリ4世が、フランス革命で散ったルイ16世に繋がって行きます。
前の記事②
https://note.com/blessing_m/n/nbe0c66d75f41

さて、アンリ4世と結婚したマルグリットがどうなったか?は、また次の記事に書きますね。

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