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備忘録*19世紀の革命(ウィーン体制崩壊)&教皇ズアーヴ

リンカーン暗殺の記事に書いた「教皇ズアーヴ」について補足です。

教皇ズアーヴとは教皇領の防衛に専念する歩兵大隊のことですが、始まりは19世紀後半でした。名前はフランス陸軍の軽歩兵連隊ズアーヴにちなんでいます。



元祖:フランス陸軍ズアーヴ

フランス陸軍のズアーヴの設立は、フランスの植民地支配を強化するための戦略的な一環であり、当初はアルジェリアのズワワ族グループ(「ズワワ」はフランス語のズワーヴの起源)からの志願兵の連隊でした。

フランスのズアーヴ兵は、アルジェリアの先住民から学んだゲリラ戦法と機動力で知られています。

フランスのズアーヴ

フランス領アルジェリア(1830年 - 1962年)
1830年6月14日、フランスはオスマン帝国アルジェリアに侵攻しました。
フランス経済は1827年以来、農産物の不作と深刻な不況に陥っており、労働者やブルジョワ階級を中心に王政への不満が高まっていました。
ジュール・ド・ポリニャック内閣が国民の不満をそらすためにアルジェリア遠征を行なったと言われている。(同年7月には七月革命が起きている)
その後もフランスから移民がアルジェリアに送り込まれ、フランス支配の既成事実が作られていき、1834年にはアルジェリアはフランスに併合されました。

ルイ・ジュショー・ド・ラモリシエール
「アルジェリアズアーヴの父」と見なされています。

ルイ・ジュショー・ド・ラモリシエールはフランスの将軍。
ブルターニュのジョシュー家の分家の出身。
彼は1830年以降のアルジェリア戦線に従軍し、ズアーヴの大尉に任命されました。しかし、ナポレオン3世(シャルル・ルイ・ナポレオン・ボナパルト)に反対したため、1851年12月2日のナポレオン3世の自己クーデター後、彼は逮捕され追放されました。
そののち教皇ズアーヴの指揮官となり、1860年のイタリア遠征で指揮を執りました。

ジョシュー家の紋章


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余談*ウィーン体制

1814年から1815年にかけて開催されたウィーン会議(Congress of Vienna)では、ナポレオン戦争の戦後処理が話し合われ、ヨーロッパの秩序再建と領土分割が行われました。

ウィーン会議の基本原則となったのが、フランスの代表タレーランが提唱した正統主義でした。
正統主義は、ヨーロッパを革命前の絶対王政に戻し、その体制を維持しようとしたものでしたが、ウィーン会議では大国による「勢力均衡」を踏まえた形での正統主義の実現を目指しました。

例えば、革命によって神聖ローマ帝国が解体したドイツ諸国は、オーストリアとプロイセンの二大国を中心としたドイツ連邦として再出発することとなりました。
これによって大国同士が相互に均衡を維持し合うウィーン体制が構築されました。


ウィーン会議で合意されたヨーロッパ内の国境

ウィーン体制を補完するものとして、イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンによる四国同盟(1818年にフランスも加わり五国同盟に)、ロシアのアレクサンドル1世が提唱した神聖同盟がありました。

ナショナリズム運動

ウィーン体制は自由主義とナショナリズムを抑圧したため(特にロシアは「ヨーロッパの憲兵」といわれて、国境を越えてそれらの民衆運動を弾圧する役割を担った)、人々は不満を募らせました。
一方で産業革命の進展による市民生活の発展や各国の利害関係の複雑化していきました。

ラテンアメリカ諸国の独立、ギリシャの独立戦争(1821年ギリシャ革命)、ベルギー独立革命(1830年)、フランスの七月革命(1730年)などが、ウィーン体制に動揺を与え、1848年革命(諸国民の春)ではヨーロッパ各地で革命が起こりました。

19世紀の中盤、天王星と冥王星が牡羊座から牡牛座にかけてコンジャンクションを形成していました。
この会合周期は、およそ113年から141年というかなり緩みのある間隔です。
現在の私たちは、1965年頃に乙女座で始まったサイクルにいます。

各国の民族が独立を求める動きが強め、特にドイツやイタリアでは統一を求めるナショナリズムが高まり、ウィーン体制の限界を露呈させました。
このように、ウィーン体制の崩壊はナショナリズムの影響を受けた結果であり、19世紀のヨーロッパにおける重要な歴史的転換点となりました。

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アメリカのズアーヴ

ズアーヴ兵の軍服や戦術は他国の軍隊にも影響を与え、1860年代には多くの国でズアーヴが創設されたそうです。

ポーランドのズアーヴ兵
西インド連隊


アメリカでは、南北戦争中に多数のズーブ連隊が組織されました。
北軍は南北戦争を通じて70以上の志願兵ズアーブ連隊を持ち、南軍は約25の中隊を配備しました。

北軍は、リンカーン大統領の友人だった北軍将校のエルマーE.エルスワースが訓練した「シカゴのズアーヴ士官候補生」が注目を集めました。


南軍は、チャタム・ロバードー・ウィート少佐による「ルイジアナ・タイガース」が有名でした。
南北戦争では、アイルランドやドイツからの移民が兵士として多く参加していました。


教皇のズアーヴ

イタリア統一運動(リソルジメント)に対する教皇ピウス9世を擁護するために組織されました。

教皇ズアーヴの制服


教皇ズアーヴの設立者は、ベルギーのメロード家出身のグザヴィエ・ド・メロード(フレデリック・フランソワ・ザビエル・ギスラン;1820年3月22日 - 1874年7月11日)大司教でした。

メロードは、フランスの歴史家シャルル・フォーブス・ルネ・ド・モンタランベールの義理の兄弟であり、アメリカ独立戦争のフランスの英雄であるラファイエット侯爵の甥でした。

司教になる前、アルジェリアのトマス・ロベール・ビュジョー将軍の私設参謀の外国駐在官だった時代に、前述のルイ・ジュショー・ド・ラモリシエールと知り合っていました。


グザヴィエ・ド・メロード司教
メロード家紋章


フランスニ月革命(1848年)の影響を受け、イタリアでも立憲政治を求める市民階級の革命運動が広まりました。

カルボナリのプロパガンダの影響を受けた若者により、教皇ピウス9世の信頼が厚かった内務大臣ペッレグリーノ・ロッシが暗殺されて暴動が起こり、教皇自らも市民軍によって軟禁される事態になり、教皇はローマを離れガエータへ逃れました。


メロードは1849年9月にローマで司祭に叙階され、イタリアのヴィテルボに駐屯するフランス守備隊の牧師として任命されました。

教皇の街ヴィテルボ


1849年2月9日に革命によりローマ共和国が樹立された。
ジュゼッペ・マッツィーニアウレリオ・サッフィカルロ・アルメッリーニの3人が三頭執政官となった。
しかし、7月3日にルイ=ナポレオン・ボナパルト(後のナポレオン3世)率いるフランス軍に降伏した。教皇も1850年にローマに戻った。


ピウス9世がローマに戻ると、メロードは侍従として迎え入れられ、陸軍大臣に任命されました。
メロードは教皇を説得して、イタリアや他の国々からのカトリック志願兵の軍事部隊を結成し、ルイ・ジュショー・ド・ラモリシエールを指揮官にしました。

約4ヶ月で18,000人が集められ、1870年に解散するまで教皇に仕えました。
メロードは十字軍を想定しており、集まった若者たちも自分たちを十字軍だと思っていたそうです。


普仏戦争(1870年)が始まったため、教皇領を守護していたフランス軍が撤退すると、ただちにイタリア王国軍によってローマは占領されました。
教皇領が消滅したため、教皇ズアーヴも解散されました。


余談*普仏戦争

普仏戦争の目的はドイツ統一でしたが、なぜフランスとプロイセンが戦うことになったのかは、フランスがドイツ統一に反対していたからでした。

ドイツ統一が実現してしまうと、隣に大国が出来てしまうからです。
フランスにとってはようやく倒した神聖ローマ帝国の甦りのようなもの。
隣が強大な国になってしまうと国境警備も大変です。

ドイツ統一のためのナショナリズム形成を目論見、プロイセン王国は全ドイツ共通の敵を必要としていた。そして、スペインで発生したスペイン1868年革命による女王イサベル2世のフランスへ亡命後のスペイン王位継承問題でプロイセンとフランスの対立が高まる中、プロイセン首相(北ドイツ連邦宰相)オットー・フォン・ビスマルクは「エムス電報事件」でフランスとの対立を煽り、また北ドイツ連邦と南部諸邦の一体化を図った上で、フランス側に開戦させた。

しかもスペイン継承問題(プロイセン王家のレオポルトがスペイン国王に推薦された)も絡み、フランスとしてはプロイセンに挟まれるのも避けたかったんですね。
これもフランスにとっては、ハプスブルク帝国のデジャヴのように思えたのでしょうね。

結果的に、ドイツ諸邦もプロイセン側に立って参戦したため、ドイツ統一が達成されて(オーストリアを除く)、フランス第二帝政は崩壊しました。


普仏戦争とドイツ統一後の欧州


アルザス地域圏


フランクフルト講和条約で、私が注目したのは、統一ドイツとフランスの領土線の確定(=アルザスの併合)とアルザス地方からのフランス系住民の追放でした。

アルザスは、普仏戦争でドイツ領となりましたが、第一次世界大戦ではフランス領になりました。
アルザス地域は、葡萄、小麦などの豊かな農作物や、鉄・石炭の産地です。フランスもドイツもここを取りたいわけです。

そんな中で、普仏戦争から二十年後にアルザス出身の登場人物ばかりのドレフュス事件が起きたのも非常に興味深く思いました。

今日はこのへんで。
お読みくださりありがとうございました。

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