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過去の恋にお別れした話。

3年半ぶりに高校時代に好きだった人に再会した。
ほぼ一年前、noteに書かせて頂いた人で、高校時代にお世話になった恩師でもある人。
(そのnoteは以下。)

https://note.com/bless71you9/n/n1b380abba8ad

少し怖さを感じて、緊張しながら、気軽になんとか挨拶を交わして、話をしにいった。
先生と向き合って、目の前に立ったその時。
目線の真っすぐ先に、先生の目があった。
目線はぴたりとあった。
あれ?
生まれたのは違和感だった。
あれ、この人、こんなに背、低かったっけ。
私は大学に入ってから校則等々の問題で履けなかった高いヒールの靴を履くようになった。その日も8センチのサンダルで、だから、自分の背が一時的に高い事は間違いのないことなんだけれども。でも、もっと先生は背が高い人な気がしていた。

今思えば、きっと、過去の私はずっと「憧れ」ていたんだろう。先生なら自分の知らないことをなんでも知っている、「正解」をいつだって教えてくれる、そんなことを思っていた。
もちろん、高いヒールを履いていないから、先生の方が背が高かっただろうけど、そういうことじゃなくて、「かっこいい」とか、「すごい」とか、そういう憧れが少なからず、自分よりも大きな存在として、先生を見せていたんだろう、印象付けていたんだろうと思う。
先生がとても大きな存在で、高校時代の私をかなりの部分で形作っていたことも間違いはない。そのことは事実だと思う。

そのまま先生と会話を重ねながら、でも、心の中で自分がどこか冷静になるのを感じた。
あ、この人も私と何も変わらない人間だったんだ。そう思った。
その時、かつて好きだったその人が、今好きじゃないとはっきりわかった。過去の私が「好きだった」その人は、もはや今の私にとって「ただの人」になったのだと分かった。

長くも短くもない、でも、かつて高校時代一緒に過ごさせてもらった3年という時間よりも長い時間を、一人で、もしくは先生ではない誰かと一緒に過ごしてきて、私は大分変わったんだと思う。同時に8センチのヒールなんてものを手にいれて、先生を分かった気になるなんて、馬鹿げているのかもしれない。でも、少なくとも私にとって、そのヒールは私が3年半という時の中で身に着けた知識の中で出来上がった武器でもあって、たったそれだけで先生と対等になれる、目線が同じ高さになることはとても大きな意味があった。

その時、憧れていたその人がやっと等身大の、一人の人間として見れた気がした。
過去に好きだったところはそのままで、好きだったなとも分かるけれど、今の私にとってはそれそのもの以上の価値を感じる事はなかった。
「ああ、私はこの人が好き『だった』んだ」と、そう静かに確信した。

今、私にはパートナーがいて、その人にはそこそこ大事にされていると思う。(副詞については議論の余地あり。) ほんの少し、今のパートナーは、好きだった先生に似ているところもある。多分、系統として、私は大概そういう人が好きだ。分かりやすい、けど、冷静に客観視するととても恥ずかしい。
二人は似ている。だから、ある意味で私が先生を意識しないこともないような気がしている。だけど、高校時代のようにはなっていない。一方通行ではない恋をさせてもらっている。先生からおこぼれのようにもらっていた、もらおうとしていた優しさは、きちんと正当に、対等に、定期的にもらい、私も同じように渡している。一生懸命追っかけていた自分の一途さや頑張りは認めるけれど、大概子どもだったし、もうそういう一方通行な幸せは求めたくない。私はもう「大人」だ。もう追っかけはしない。

いつも頭のいい先生がふと見せる不器用というか、ちゃらんぽらんなところが好きだった。それを笑っていたかったし、話にしていたかった。でも、今はそうしたいとは思わない。私は先生と同じような不器用さを持つパートナーが好きだし、不器用ながらに私の話を聞いて、具体的に寄り添ってくれるところが好きだ。その双方向的な愛を知っているから、もう、必要以上に頑張ったり、苦しくなったりしない。私は私として、最低限の「生徒」のままでよくて、何も望まない。それが今の私の、先生に対する「当たり前」になった。

先生に対する気持ちはすっかり冷めていて、なんだか不思議な気分になる。かつて熱かった心の温度が下がってしまったことに対して寂しさはあるけれど、新しい温度が別のところでふつふつと確かに安定してあることも知って、自覚しているから、それほど落ち込んでもいない。今残っているのは先生への感謝と敬意だ。

大きな気づきだったなあと感じる。
あの時、自分が追いかけていた人は、こんなにも対等な目線で立って、向き合える人で、拒否も肯定も沈黙も交わせる人だと分かった。
私は私が思っている以上に「高校生の自分」ではなかった。きっと私が思っている以上に、今ここに「私」がいるのだ。それを認められてよかった。
今なら認められる。高校生の私、よく頑張ったね。偉かった。先生、ありがとうございました。本当にたくさんのことを教えて下さって、感謝してます。
今なら私は同じ「大人」として、そう思う。あの時の自分を否定はしないけど、肯定もしない。少なくとも、今の私とは違う何かだ。

きっといつか、この感覚も忘れるだろう。そんな気がする。
今は少し寂しい気もするけれど、それすらきっといつか消える。
それぐらいすっきりした。すべて完璧に丸く収まった、大団円だ。個人的な気分としては。
三年半ちゃんと生きててよかったなあ。
あと、恋人さんにあいらびゅーしたい。相互的にちゃんと恋をしているんだと感じたい。

まあ、だから、つまり今回のnoteは。
過去の恋にお別れした話。

先生や、これを読んでくださった皆様に祝福がありますように。
明日も、その先もずっと、幸せな日々を送られますように。

(追伸。ひつじは先生との学びのイメージ等々に合わせて。星の王子さまが懐かしい。
「C’est le temps que tu as perdu pour ta rose qui fait ta rose si importante.」なんてね。)

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