雑感:「構成力」について

 「構成力」というのはむろん文章の構成力のことであるが、もう少しほかのことにまで敷衍して当てはめられるかもしれない。文章というのは、いわば思考の鋳型なのである。
 文章の構成力を上げるために何をすればいいのか? ということを考えた結果、「構成力」についての文章をしたためることにしたのである。やろうと思えば、ChatGPTでもGeminiでもClaudeでもなんでも使っていくらでも文章を生成できる2024年11月現在、わざわざ自分で文章を書かなければならない理由があるとすれば、それは自分の頭の中にあり、絶えず変形し続けている観念同士の連合のネットワークの全体像を把握しようとする試みにほかならない。文章を出力する上で重要なのは「何を書いた」のではなく「なぜ書いた」のか、なのだ。その本質は文章そのものの中にあるのではなく、文章を書いている人間の頭の中にこそあるのである。さらに言えば、文章を読んだ人間の頭の中に起こる観念同士の連合のネットワークの再構築にこそ「読む」意味があるのだ。文章そのものは「媒介」でしかなく「メディア」でしかない。そこを見誤るべきではないのだ。
 何故構成力が必要なのか? それは構成力がなければ物事をうまく説明することができないからである。他人に対してうまく説明できないということは、自分に対してもうまく説明できないということなのである。自分で「把握」をしているのと「説明ができる」のとではそのレイヤーが違う領域の話であることは言うまでもない。把握ができているとしても、その対象についての説明ができなければその対象を分解することはできないし、再構築することができないのである。分解をすることも再構築をすることもできないということは、延々とその対象についての「謎」を抱えこんだままずっと対峙し続けることになるわけで、そのようなあり方を一概に「非効率だ」と切り捨てればいいというわけでないことはむろんそうなのだが、しかしそれとは別の精神のあり方を模索するためにはその対象について分解し、再構築しなければならない。いわば文章の構成力を上げるということは精神性に関わることなのである。言うなれば精神そのものの構成力を上げるということなのだ。精神そのものの構成力を上げるということは人生そのものの構成力を上げるということでもあり、タイトルに掲げた「構成力」という概念は、人生において相対するありとあらゆる物事に対して適応できるものなのである。俺はそう解釈している。
 さて、文章の構成力について考察するにあたって、なにをその対象に選べばいいのか。むろんさまざまなフレームワークが存在するだろう。少し入門書を読んだだけではあるが論理学とか、記号論とかをそれらしいものとして採用することはできるかもしれない。ただ一番基本的で、馴染みのあるものを採用するならば、小論文で使われる「序論・本論・結論」といった段落構成が妥当かもしれない。論理とか記号とか、そこまでの最小単位にまで分割して考察をしなくても、文章全体を概観して、それをいくつかのフェーズに区切る程度でも事足りるはずなのだ。いくつかのフェーズに分けることで、この部分とこの部分はこのように関連しあっている、というその関係性さえ理解できれば問題ないはずなのだ。それが大雑把であるか厳密であるかはさておいて、セパレートされていること自体に「構成力」なるものの実態が潜んでいるはずなのである。
 俺がこういった「フレームワーク」全般に対して、それなりの時間、それなりの労力を費やし、それなりに考察を積み重ねてきた結果をここに記述してみようと思う。少なくとも2024年11月現在の俺の中では、文章を解釈、あるいは構築をする上で採用されているフォーマットであり、それがこれからどのように発展していくのか、あるいは発展しないのかはさておいて、それらが確実な形を持って俺の中に根を下ろしており、それが確固たる存在感を放っているということは確定した事実なのである。自分なりのエンコードが完了したため、それをここに書き残しておくことは少なくとも無駄な骨折り損にはならないはずだ。
 まずは第一のフェーズ。おそらく「序論」に相当する部分であり、文章の大前提、基礎、地盤を成すフェーズであると俺は解釈している。その文章がそこに存在する意味、というそもそも最も重要な事実がここで提示される。「概要」とか「あらまし」とか「目的」とか「ねらい」とかそういう見出しをつけたりすることもできるかもしれない。「概要」のことをシノプシス(synopsis)とかオーバービュー(overview)などの言い方を英語ではするらしいのだが、このオーバービュー(overview)という言い回しは極めて「鳥瞰的」な、「上から見下ろす」構図のイメージを喚起するため俺は気に入っている。この第一のフェーズでまずなされるべきなのは「座標」を確定させることである。なんの「座標」なのかといえば世界における、その文章の「座標」であり、その文章の取り扱う「主題」が世界の中でどのあたりに位置するのかをここで明確にする必要がある。世界における「座標」を決定するには、「社会的な視点」と「個人的な視点」の二つの、いわばマクロな視点とミクロな視点からそれを正確に捉える必要がある。「社会」と「個人」とは対極の位置にあるのと同時に、密接に関連しあって結びついている不可分なものでもあるため、まずは「社会」に対して「個人」(要するに著者のこと)がどのようなスタンスを表明しているのかを示さなくてはならない。どのくらい「社会」との距離が近いのか、あるいは遠いのか、社会に対して積極的にはたらきかけようとしているのか、あるいは消極的だったり懐疑的なスタンスなのか、あるいはそのどちらの性質も併せ持っていて、うまく融合させて運用しているのか。そして「個人」が「社会」に対してどのような「コミットメント」あるいは「デタッチメント」をしているのかに関わらず、「主題」はその間を繋ぎ止めているか隔てているかのどちらかなのである。どちらの場合にせよ「道具」として位置しているはずなので、そして「道具」であるからにはその「用途」を明らかにしなければならず、そこで文章全体の流れの方向づけが決定されるのだ。方向づけが決定したからには、その決定された方角へ向けて直進しなければならない。そしてその具体的な過程が次の「第二のフェーズ」で仔細に描かれることになるのである。俺としてはこの第一のフェーズが書けただけでも、その文章が一旦「完成」したという認識を持っている。準備を完全に整える、ということがいかほど難しいのかはわざわざ説明するまでもなく自明のことだろう、これが完了出てきただけでもまず労われるべきだし、それが重要な仕事であることはまず間違いないからだ。
 次に第二のフェーズ。おそらく「本論」に相当する。ここでは第一のフェーズで組み上げた「土台」の上に塔を建てていく段階である。純粋な構造体を形作る、というイメージが強いので、できる限り(根本的な)主張は抑えめに記述したほうがいいかもしれない。第一のフェーズでは「所信表明」も含まれてくるのでともかく、第二のフェーズでは「主題」に対しての文脈を次々と明らかにし、書き加えていくという、いわばブロックを組み上げていくような作業だと俺は捉えている。ここで理系だったならひたすら実験と結果を繰り返していくところのはずだ。まあ俺に関して言えば理系でもなければ大学生でも大学院生でもないので、そのように厳密なデータの収集にこだわる必要はないだろう。たとえば本を読んだのなら、どこの記述にどのように解釈を加えたのか、そしてそれがどのように主題と関係するのからということをひたすら羅列していくという感じになるのだろうか。全体的な主題との照らし合わせをやりながら、どんどんどんどん論を展開していき話を膨らませていく必要がある。「主題」の論拠さえ意識していれば、おのずと自然に「結論」の方向まで引っ張られていくようにしてまとめることができるはずだ。そして扱う情報の量が増えれば増えるほど、この第二のフェーズはそれだけ分量も増えていくことになるだろう。勝手に脇道にそれたり脱線したりする話をすべてうまく丸め込んで文脈に回収していく技術が求められる。これはもはや「慣れる」までの辛抱である。あえて見出しをつけるとして「所見」あたりの語がいいだろうか? Googleでサーチしてみると「見た結果」と「考えているところ」という二つの意味合いがこの「所見」には込められているようだ。第一のフェーズで組み上げられた論拠に対してのレスポンスというふうに捉えるといいかもしれない。
 そして第三のフェーズ。おそらく「結論」に相当する。ここでは第一のフェーズで組み上げられた「土台」と、その上に建つ「構造物」であるところの第二のフェーズで組み上げられた「本体」の部分をチェックし、点検するイメージだろうか? いや、完成した「塔」の上に立ってすべてを見渡すようなイメージが近いかもしれない。「鳥瞰する」という単語がここで思い浮かぶのだが、第一のフェーズの説明でオーバービュー(overview)の語を引き合いに出した時とダブってしまうため非常に紛らわしいことになるが、すでに「構造体」そのものが出来上がってしまっているため、どうしてもそのように「固い」イメージから離れて「自由」なニュアンスが染み付いてしまっているように俺には思える。見出しをつけるとすると「まとめ」とかになるのだろうか? ここではまず大前提に立ち返り「社会的な視点」やら「個人的な視点」やらと、第二のフェーズで得られた結果とを接続させ、「座標」の再定義を行うのである。論理を展開していった結果、どのくらい「主題」の持つ文脈に変化が生じたのか、というその一点に絞られることになる。ここで解決する問題もあれば、さらに浮き彫りになる問題もあるだろう。そしてそこからまた新たな問いを立て、そこから新たな「主題」を立ち上げるという、次のステージに進むことができるのである。これを延々と繰り返すことで賢明に「知識」を「知識」として、「経験」を「経験」としておのれの文脈に取り込むことができるようになるのである。何回も何回も繰り返し繰り返し折り重ねるようにして文章を量産することで、たとえば反復して使われる語彙や問題意識がより緻密に理解できていくようになるだろう。このようにして徐々に「優先順位」が明らかになっていき、鮮明に思考を描き出すことができるようになる。何事も反復して繰り返すことが重要なのである。
 さて、ここまで書いてかなり満足した気分になったのだが、見返してみるとどうだろう。俺は確かに第一のフェーズを重要視していて、それは「主題」を設定する、あるいは問いを立てるというまず大前提を成す能力だというような趣旨のことはこれまでに散々述べたはずなのだが、そもそも「問い」を立てること自体不可能な場合、についてよく頭の片隅にチラつくのである。「問い」すら立てることが許されない場合どうすればいいのかというと手段は限られており、どこかに「固着」して、そこを気店にアイデンティティを確立させようとする精神の働きにしたがうことになる。そもそも「問い」を立て続けること自体、アイデンティティをそのたびに解体し直さなくてはならないということでもある。それを「そういうものだから仕方がない」と毎回毎回受け容れるのにはそれ相応の強固な精神的地盤が必要になるし、それを固めるためには普段から、そもそも言葉を超越した領域でその根拠づけを行わなければならないということになる。この極めて流動的な世界において、精神的な地盤を確立することほど重要なものはない。最初のほうに述べたことを繰り返すが、重要なのは文章そのものではなく、文章の外側で起こっている出来事なのである。


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