読書記録:江藤淳「成熟と喪失」
当たり前なのだが、極めて陰鬱な本だった。
「批評」と呼ばれるジャンルのものを読むのは初めてというわけじゃないが、そんなに回数は多くない。その分類がなされるかどうかについて俺は詳しいことはよくわからないのだが、大塚英志の本は「物語消費論」を読んだことはありかなり面白かったのを覚えている。「ビックリマンチョコの神話学」の副題が付されているやつだ。かつて一世を風靡したカード付きのチョコ「ビックリマンチョコ」で展開された、マハーバーラタとかラーマーヤナとかなんかそういうインドの叙事詩かなんかを意識して作られた、巨大な世界観をバックに紡がれる「ビックリマン」(名前こそふざけ切っているが、世界観の作りこみにはかなり凝っているようなのだ)の物語と、それが欲しいがためにチョコを買い本体は食べずに捨てるといった「消費」のされかたを中心に、「物語」と「消費」について論じられた本だったはずだ。ほかには宇野常寛「ゼロ年代の想像力」や加藤典洋「敗戦後論」などはしっかり読んだ。特に「敗戦後論」は非常に面白く、太平洋戦争中から戦後にかけて、くるりと180度反転した世論・風潮を受けて、当時の文学者たちが、その内側に抱え込んだ「ねじれ」(これは本文中に使われていた表現であり、非常に言いえて妙だと思ったため、印象に残っている)を作品にどのように昇華したかをいくつか取り上げているのだが、その代表例としてあの太宰治が登場していたのがハイライトである。面白いので、またの機会にここをピンポイントに掘り下げてみてもいいかもしれない。
で、俺は「物語消費論」とか「ゼロ年代の想像力」とか「敗戦後論」とか、自分なりに「物語」とそれの「社会」における受容のされ方、ざっくりいえば「物語」と「社会」の関係性のようなものについて興味・関心を持ってその手の本を読んできたつもりである。「物語」というかフィクションというのは一から十まで「嘘」であり、しかしその「嘘」にも文脈があり、どのような形であれ「現実」と接続している、とでもいえばいいのか、そういった感覚が自分の根底には明確な形をもって沈殿しており、それを昭和とか歴史とか戦後とか、そういった具体的な話とつなぎ合わせて考えるために本を選んでいたようなところがある。
「成熟と喪失」はその需要に応える本であるのは無論そうなのだが、「戦後」や「日米関係」などといった重要な点に加え、「”母”の崩壊」の副題の通り、「母性」というかなり大きなポイントからそれらを論じているのがその最大の特徴だ。安岡章太郎「海辺の光景」や小島信夫「抱擁家族」、遠藤周作「沈黙」、吉行淳之介「星と月は天の穴」、庄野潤三「夕べの雲」などの戦後日本の文学作品を題材にとっている。著者の江藤淳は戦後日本を代表する文芸評論家として知られており、小林秀雄の後を引き継ぐようなポジションをとっているとかいないとか。あの石破茂が高校時代に江藤淳の著作を愛読していたらしいという話をこないだ小耳にはさんだばかりである。この「成熟と喪失」はその江藤淳の代表作とされる評論だ。
小説は全部で五作品取り上げられているわけだが、俺が特に注目したいのは小島信夫「抱擁家族」だ。あらすじを書き出すと、大学教授を務める主人公・三輪俊介の妻・時子が米兵と不義の関係を持ち、それをとがめられない俊介といつまでも居直り続ける時子との間で関係がこじれ、やがて長男が出奔し、時子も乳がんになり死亡する、というものだ。
はっきりいってしまえば「読みたくない」。「面白そう」とか「つまらなさそう」以前にまず「読みたくない」としか思えないのである。別に展開が陰鬱だったり、人死にが出たりとか、あるいは暴力やセックスが描かれていたりとか、そういったことをいちいち神経質に気にするたちではないのだが、なんかもうこの「抱擁家族」に関して言えばピンポイントにそこらへんの要素が絡まりあってちょうど「完成」しているようにしか思えない。「抱擁家族」という、ともすれば一見するとハートウォーミングな印象すら受けるタイトルとはどうやら内容は乖離しているようだ。
時子の不倫相手が米兵であるという点は重要であり、これがただの日本人ならまだしも、目が青く図体がでかくおまけに軍隊に所属しているという三拍子そろっている得体のしれない男に妻を寝取られる、ということになる。この米兵が俊介に対して発する「自分は祖国に責任を取ろうとしてるんだ(大意)」というセリフに江藤淳はかなり注目しているようだ。「祖国」というワードが口から飛び出るだけでも、21世紀の日本に生きる俺としては、かなり迫力を感じてしまう。なにせ「祖国」である。そこにはどうしても「戦争」とか「人死に」とか「おびただしい量の犠牲」とか、ある種切実で、のっぴきならぬ、非常にはなはだ深刻な含意を見出さざるを得なくなる。三輪俊介と同じく、あるいは江藤淳ももしかしたらそうだったのかもしれないが、そこにギョッとしてしまうのも無理からぬ話だ。
俺はアメリカ産のアニメ、いわゆるカートゥーンと呼ばれるカテゴリのものががわりかし好きなほうであり、「ザ・シンプソンズ」や「サウスパーク」といった作品を視聴しまくっていた時期があるのだが、そういったところでまず学べるのが、アメリカで生活を営んでいる、ごくありきたりな人々が共有している「自明の前提」とでもいうべき、ざっくりと言い換えてしまえば「常識」ということになるのだが、そういったものを垣間見ることができるのが、海の向こうの文化に触れることの最大の妙味なのかもしれない(ぶっちゃけ、物語の筋よりもそっちのほうが面白いまである)。で、俺が「ザ・シンプソンズ」とか「サウスパーク」とかを視聴していてまず感じることは、「国」や「宗教」の距離感が非常に近いということだ。日曜の朝にバート・シンプソンは家族と連れ立ってミサに行くし、父のホーマーは「アメリカは自由の国なんだから」とこともなげに言ったりだってする。宗教に関しては(ここでは)特に本筋とは関係ないのだが、登場人物の一人が「国」について云々するということ自体、日本ではまずないことのように思える。ジャンルとしては二つとも「大人向け」アニメだということになっているらしいのだが、しかしこのあまりにもナチュラルに「国」や「宗教」に関して言及するという感覚は、広大な太平洋を隔てている分、日本人の俺とはまったく違う「文脈」の上に成り立っているもののように思えてならない。だからこの米兵・ジョージもそこまで深い意味をこめて「祖国」という語を使ったわけではないはずで、江藤淳はそこを極めて敏感にとらえ戦後の日米関係と重ねているようなのだ。そこには深く埋めがたい「断絶」が横たわっているように俺には思える。
「抱擁家族」の結末は、時子が家を出ていくとか、あるいは俊介のほうが何かおかしくなるとか、そういったものではなく、時子が乳がんに冒されて死亡する、というものだ。徐々に衰弱していく様子が仔細に描かれるのだが、安岡章太郎「海辺の光景」の章でも母親が失明して眼球が白濁している様子が取り上げられたりしており、それらは「”母”の崩壊」の副題が示すそのものの象徴的な場面なのだろうと思う。文庫版の解説で上野千鶴子が「”母”の「喪失」でなく、”母”の「崩壊」であるところに、これがフロイト的な母からの「自立」の物語でもなければ、寺山修司的な「母殺し」の物語でもないことがわかる」という旨のことを述べているが、これは極めて重要な視座だと言わざるを得ない。「抱擁家族」で言えば、俊介が何か特別なことを時子に対してしたというわけではなく(というか、むしろ、「何もできなかった」点が重要な気がする)、時子は癌という病気、要は世界そのものというシステムのランダムネスの前に晒されて死んだのだ。「母」は、「子」がいかようなはたらきかけをするか、あるいは応答をするかどうかに全く関係がなく、いわばひとりでに「崩壊」するのである。当たり前といえば全く当たり前の話だ。