忘れる、という地雷
忘れる、という地雷
妻は「忘れた」というと怒る。彼女は瞬間画像記憶を持っているため、過去に見たことをビデオを再生するように脳内再生できる。そのためなんでも覚えていることが「忘れた」で怒る一因だと思う。
私は忘れっぽいために、表現に常に気を使うようになった。世間一般的には会話する時に相手の地雷を避けて喋るというのは当たり前かもしれないが、これがなかなかしんどい。「忘れた」と言ってはいけないことを忘れてしまうからだ。
事務連絡としてとっさに「忘れた」と言ってしまう。気を使う事を忘れてしまう。
例えば先日結婚式に出た好青年Hは音程がうまく取れないせいか、カラオケが苦手だ。
それは一緒にカラオケに行ったりして相手が辛そうにしていたり気まずそうにしていた顔がうっすら情景記憶として残っているから、彼の顔を見るたび「あ、カラオケはNGだなー」と思い出せるのだ。
対して「忘れた」と言ってはいけないのは情景記憶として思い出せないため咄嗟に出そうになる事がある。「うまくシナプスがつながらないなぁ」等と言い換えたり、話題を変えて対応している。
思えば地雷過ぎて、妻が何故「忘れた」という言葉が嫌いなのか聞いていない。いや、もしかしたら聞いたのかもしれないが嫌過ぎて忘れてしまったのかもしれない。忘れっぽい性格は妻との相性が本当に悪い。もういやだ、つらい。
特定のキーワードを言ってはいけないというと幽遊白書の海藤戦を思い出す。50音が「あ」からだんだん言えなくなっていって最後は「ん」しか言えなくなってその縛りを破ると魂を取られるというものだ。
妻との会話は常に海藤戦である。脳の一定のメモリーを常に言ってはいけないことに割き続けなければいけない。
自分は結婚する時に「なんでも言い合える仲になるといいなぁ」と言った。でもそれは幻想だ。相手は自分ではない以上、絶対に言ってはいけない事は存在する。自分の願望を相手に押し付けても裏切られたと自分が感じて傷つくだけだ。
情景記憶として「忘れた」というキーワードが嫌な記憶として定着すれば良いのだが。
例えばだけど「忘れた」という張り紙と妻の顔をプリントした張り紙を見ながら1時間くらい両手にバケツを持って立って辛い思いをしてみたら少しは記憶に定着するだろうか。
カレンダー、こんだてアプリ、メモ等、目に見える形で記録を残す事で「忘れた」と言わずに済むように対応している。
将来どうなってしまうのだろうか。私はますます忘れっぽくなるだろうし妻もいずれ忘れっぽくなるだろうから。その時は私が「忘れた」と言っても笑って許してくれるだろうか。それとも妻は忘れっぽくなった自分自身を許せなくなるのだろうか、それとも忘れっぽくなったことすらも忘れてわからなくなってしまうのだろうか。昔、私に「忘れた」ということを禁じていたことも忘れてしまうのだろうか。