スロバキア首相銃撃事件(2024年5月15日発生) - 3149文字
最新ニュース詳細 - 2024/05/15発生
事件概要: 5月15日、スロバキアのフィツォ首相(59歳)がハンドロバで銃撃され、重傷を負う。事件は午後2時半ごろに発生し、犯人は71歳の男性と報道されているが、動機は不明。
容態: フィツォ首相はバンスカー・ビストリツァにヘリコプターで搬送され緊急治療を受けた。一時は生命が危険な状態だったが、治療により生命の危機を脱した。
事件の詳細: 現場で首相が建物から出て群衆と握手しようとした際に3〜4発の銃声が聞こえ、そのうち1発が腹部に命中した。
犯人の情報: 犯人は元ショッピングモールの警備員であり、詩集を3冊出版したスロバキア作家協会の会員と報道されている。
国際的反応:
欧州委員会: フォンデアライエン委員長は事件を非難し、民主主義を損なう暴力行為を批判。
米国: バイデン大統領は暴力行為を非難し、スロバキアへの支援を表明。
ロシア: プーチン大統領はフィツォ首相を勇敢な人物と評価し、事件を非難。
フィツォ首相の背景: 昨年4期目の首相に就任。親欧州派と国家主義的立場を行き来し、最近はオルバン首相に同調し、ウクライナのNATO加盟に反対していた。
スロバキア歴史
先史時代
ケルト人のハルシュタット文化を受け入れたイリュリア人と古いプロト・スラブ人のルサチア文化が栄えた。
鉄器時代末期にラ・テーヌ文化のケルト人(コティニ人・ボイイ族)の侵略で崩壊し、プコフ文化に変わった。
古代ローマ
1世紀ごろにゲルマン人やダキア人が侵略し、ローマ帝国の拡大でプコフ文化が消滅。
168年から169年のマルコマンニ戦争が関与。
民族移動時代
2~3世紀にフン族が移住。
5~6世紀ごろにゲルマン人(東ゴート人、ランゴバルド人、ゲピド人、ヘルール人)がパンノニア平原に移住。
568年にアヴァール人が占領し、アヴァール可汗国を樹立。
623年にスラブ人の反乱でサモ王国(623年 - 658年)が成立。
大モラヴィア王国
9世紀に現在のスロバキア、モラヴィア、ボヘミア、シレジア地方に大モラヴィア王国が成立。
スロバキアでは大モラヴィア王国をスロバキア人の王国と主張する者もいるが、歴史的証拠はない。
当時のスラブ人は現在のチェコ人やスロバキア人と簡単に分類できなかった。
ハンガリー王国時代
10世紀にマジャル人が侵入し、ハンガリー王国が成立。
この地域は北部ハンガリーと呼ばれ、スラヴ人が多かった。
オスマン帝国の侵入後、オーストリア大公国の支配を受け、ブラチスラヴァ(ポジョニー)にハンガリー王国の首都が移され、北部ハンガリーは重要な地域となった。
人口バランスが崩れ、スラヴ人の反感が高まった。
チェコは神聖ローマ帝国の一員であったが、スロバキアはハンガリーとともにハプスブルク家の支配を受けたものの、その枠外とされた。
オーストリア帝国時代
19世紀半ば、民族主義の流れが高まり、周辺のスラヴ人はクロアチア人やボヘミア人と呼び名を変えた。
北部ハンガリーのスラヴ人も自らをスロバキア人、その地域をスロバキアと名づけ、スロバキア語を主張するようになった。
マジャル人に対抗してチェコ人とスロバキア人の連合が主張され始めた。
オーストリア=ハンガリー帝国時代
1867年のアウスグライヒ(妥協)によってオーストリア帝国はオーストリア=ハンガリー帝国となり、スロバキアはハンガリー側の支配下に置かれた。
スロバキア人はハンガリー人からの同化政策に抵抗し、文化的アイデンティティを守ろうとした。
オーストリア=ハンガリー帝国内でチェコ人との連携を強め、1907年にはスロバキア民族党が設立され、スロバキア人の権利を主張する動きが本格化した。
第一次世界大戦後
第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、1918年にチェコスロバキア共和国が成立。
スロバキアはチェコとともに新しい国家を形成。
スロバキア人とチェコ人の間には経済的・政治的な不均衡があり、スロバキアは次第に自治を求めるようになった。
1939年にはナチス・ドイツの圧力でスロバキアは独立を宣言し、スロバキア共和国が成立(ドイツの傀儡政権)。
第二次世界大戦後
第二次世界大戦後、1945年にチェコスロバキアが再建され、スロバキアは再びチェコと統一。
1948年に共産主義政権が樹立され、チェコスロバキアは共産主義国家となる。
スロバキアは共産主義体制の下で経済的発展を遂げるが、文化的・政治的な抑圧も経験。
1989年のビロード革命によって共産主義政権が崩壊。
1993年にチェコスロバキアが平和的に解体され、スロバキア共和国が独立。
共産党体制下のチェコスロバキア(1945年 - 1989年)
1945年: チェコスロバキア亡命政府が帰国し、チェコスロバキア共和国が再興される。
1948年: 共産党政権が成立(二月政変)。
1960年: 国名をチェコスロバキア社会主義共和国に改称。
1969年: 「プラハの春」後、ソ連を含むワルシャワ条約機構5か国が介入(チェコスロバキア侵攻)。分権化の要求に応えて連邦制が導入され、「スロバキア社会主義共和国」が発足。しかし、フサーク政権の「正常化」路線で再度の中央集権強化が行われ、両共和国の権限は形骸化。
民主化から連邦解体へ(1989年 - 1992年)
1989年11月: ビロード革命により共産党政権が解体。
1990年3月: スロバキア社会主義共和国が「スロバキア共和国」に改称。
1990年4月: チェコスロバキア社会主義共和国が国名をチェコおよびスロバキア連邦共和国に改称(ハイフン戦争の結果)。
1992年11月: チェコスロバキア連邦議会でチェコ共和国とスロバキア共和国の連邦解消法が可決。
スロバキア共和国(1993年 - )
1993年1月1日: チェコとの連邦を解消(ビロード離婚)。
2000年12月: 経済協力開発機構(OECD)に加盟。
2004年3月29日: 北大西洋条約機構(NATO)に加盟。
2004年4月17日: 新大統領に元国会議長のイヴァン・ガシュパロヴィッチが当選。
2004年5月1日: 欧州連合(EU)に加盟。
2006年6月: 総選挙が行われる。
2006年7月5日: イラク派遣部隊を撤退させる方針を確認。2003年に地雷処理部隊など約100人をイラクに派遣していたが、3人が死亡。
2009年1月1日: ユーロを導入(EUで16か国目)。
ビロード革命
1939年11月17日: ドイツ占領に反対するデモがドイツ軍に鎮圧され、学生9人が死亡(大学閉鎖事件)。「国際学生の日」として祝日となる。
1989年11月17日: 事件から50周年にプラハで反体制学生デモが実行され、治安部隊が鎮圧。これに抗議する国民の大規模なデモが発生。
11月28日: チェコスロバキア共産党が政権独占放棄と一党独裁制解消を公表。
11月30日: 連邦議会が憲法から一党独裁条項を削除。
12月末: アレクサンデル・ドゥプチェクが連邦議会議長、ヴァーツラフ・ハヴェルが大統領に就任。
これにより、チェコとスロバキアへの大幅な権限委譲が進み、1993年1月1日に連邦制が解消され、チェコとスロバキアが独立(ビロード離婚)。
今後の予定
欧州委員会が今回の事件を非難
ロシア(プーチン大統領)が今回の事件において銃撃されたフィチオ首相を勇敢な方と評価し非難
アメリカ(バイデン大統領)がスロバキア支援を表明
上記と共に、なぜ、日本が、ウクライナを擁護する意見が多いのかと、
スロバキアがウクライナのNATO加盟に反対していたことと日本政府がこのことに敢えて気づいていないように見せているのか、情報統制を図りたいのかは今後の予定にする。
以上