大内多々良譜牒(現代日本語訳) - 3749文字
前提知識
本文献の現代日本語訳は、散位四位下の位の多々良朝臣政弘氏が著した古文献をOCR(光学文字解析技術)技術を用いず、現代日本語訳に翻訳したものである。(試された方は理解されるとは思いますが、一つずつ、漢字を書き映していく方が早い…)
散位四位下(さんい しいのげ)とは
従四位下(じゅしいのげ)の位階を持ちながら、特定の官職に就いていない人々のこと
従四位下は高位の位階であり、その位階を持つこと自体が社会的に高い評価を受けることを意味します。
譜牒とは
氏族の系譜を詳細に記載したもの
元号とは
自然災害や社会の混乱を鎮めるため、または即位や重要な出来事を祝うために元号を改元する。
日本(本州)では、天皇、中国では、皇帝が、上記、責務を果たす。
嫡子と庶子
嫡子(ちゃくし):正妻から生まれた子供で、家督を継承する予定の子。
嫡子は家督を継ぐことが予定された子供であり、家の財産、権利、地位を受け継ぐ責任があります。
家督相続は、家族の存続や繁栄にとって非常に重要な意味を持ちます。
庶子(しょし):妾や側室から生まれた子供で、嫡子とは区別され、家督継承の権利は通常ありません。
本文
前書き
推古天皇17年(621年)、周防国・都濃郡・驚頭庄青柳の野原に、大きな星が松の木に留まって、七夜も明るく輝き続けた。国民はこれを不思議に思った。当時、占い師が言うには、「外国の王子が日本に来る前兆であり、鳥たちが守護して北から降りてくる」とのこと。そこでこの地を「下松浦杞星」と名付け、橘妙見尊星大菩薩を祀る社を建てた。その後、3年(624年)に百済国の斉明王の第三皇子、琳聖太子が来朝した。
百済国は東明善射(『東洋の賢者が、射撃のような手段』という意味であると思われる)によって治められ、彼は橋を架けることで国を築いた。その後、余映子口昆と子日慶、守日弁、日明、日淹心、子胃、子日璋、杰子白琳聖太子が続いた。
琳聖太子は釈迦如来を信仰し、木で像を彫り、日々の祈りに励んでいた。
ある夜、日本に降り立つことを夢見た。
日本の聖徳太子もまた釈迦如来の化身であり、琳聖太子はこれを知って歓喜し、船で日本に渡った。船が周防多々良の岸に着いた際、聖徳太子に招かれ、周防大内県を賜り、多々良姓(古代姓・こだいかばねのことであると思われる)を授かった。それ以来、多々良家は絶えず繁栄してきた。
妙見大菩薩の社は、下松から桂木宮に移され、現在(1486年現在)は山頂に上宮、山腹に下宮があり、それぞれに堂や塔が建てられている。琳聖太子の五代孫、茂村が大内県氷上山に神社を建て、仏教と神道の教えを広めた。
文明18年(1486年)の春、富山額弁可為願寺の依頼により、当山(大内県氷上山)が再建されることとなった。これに関して、賽隆卿耕討が当山を訪れ、その結果、この巻物が天皇に上奏(提案)され、勅命(天皇の指示)により当山が復興された。
抄録
文明18年(1486年)10月17日、散位四位下の多々良朝臣政弘の署名により、この記録が作成開始された。
来朝時(京都御所)に持参した五つの物品:
薬師像
不動明王像
妙見御神射
宝剣
系図 - 自定居元年(601年)から永正6年(1509年)まで、899年にわたる多々良家の歴史。- 家系図ではないことに留意!!
系図
琳聖太子
大日本国周防の優波都、右田の里に住んでおられました。廟所(お墓の場所)は吉敷都・御堀庄の南、朋山の奥福寺の東にあります。聖徳太子は四十歳の時、特に来朝されました。人王三十代・推古天皇の時代に治世二十年目の壬申年(672年)に定后(琳聖太子が、推古天皇の后を決定)されました。
正恒 - 多々良氏の初代・琳聖太子の長男。長門守とも号した。
藤根
宗範
茂村
保盛
弘貞
負盛
成房 - 負盛の長男。治承四年・庚子・琳聖太子・九代目の末裔にして、源頼朝(鎌倉幕府・初代将軍)に特に仕えた。
盛房
弘盛 - 盛房の長男。文治元年(1185年)乙已の年に治世35年目に逝去。
満盛 - 弘盛の長男。承久元年(1219年)己卯の年に治世6年で逝去。
弘成 - 満盛の長男。元仁元年(1224年)甲申の年に治世21年で逝去。
成縄 - この情報は定かではない
弘貞 - 日本本州の大别駕(おおべつが・地方行政官の役職名)。法名(死後に授与された仏教徒としての名前)は覚浄。号(別名)は右田太即。寛元二年(1332年)甲辰の年の7月17日に逝去。
弘家 - 日本本州の大別駕。法名は円浄。字は太即。正安2年(1300年)庚子3月28日逝去。
重弘 - 薬福寺殿。日本本州の大別駕。法名は道山。文応2年(1261年)申3月6日逝去。
弘幸 - 永興寺殿。日本本州の大別駕。法名は寒岩妙厳。文和3年(1354年)3月6日逝去。弘幸の子供は、男三人兄弟。長男は五条殿。次男は弘世。三男は勘三郎。
弘世 - 玉院殿。従五位上。日本本州の大別駕。法名は篤玄拳道。治世9年。康暦2年(1380年)庚申10月15日逝去。
義弘 - 香精寺殿。弘世の嫡子。従四位下。中国六州の行政長官を代行・京都の東部の行政高位の役職を兼任。法名は秀山實公。応永6年(1399年)己卯12月11日逝去。
足利義満と親密な関係を築き、明徳の乱で室町幕府を支援。
明との勘合貿易を推進し、日明貿易を活発化。
文化や学問の保護と奨励。
応永の乱で室町幕府に反旗を翻し、最終的に敗北して自刃。
盛見 - 国清寺殿。従四位下。中国四州の行政長官を代行・京都の東部の行政高位の役職を兼任。法名は大先徳雄。治世33年に、永享三年・辛亥・6月28日筑前戦で逝去。享年55歳
持盛 - 勝音寺殿。日本本州の大別駕。観音寺での法名は、芳林道繼。永享5年(1433年)癸巳4月8日逝去。享年37歳。
持世 - 澄清寺殿。従四位下。中国四州の行政長官を代行・京都の東部の行政高位の役職を兼任。治世9年。法名は道岩正弘。義弘の次男。嘉吉元年(1441年)辛酉7月28日逝去。享年48歳。
教弘 - 闢雲寺殿。従三位(朝廷における高い地位)。中国四州の行政長官を代行・京都の東部の行政高位の役職を兼任。治世25年。寛正6年(1465年)己酉9月3日逝去。享年46歳。
政弘 - 法泉寺殿。大中大夫(中程度の高位官職)、左京兆尹(京都の東部地区を担当する高位の役職)を兼任し、防長、豊、築(周防国・長門国・豊前国と豊後国・筑前国と筑後国)の大寺を管理する真翁真正が、洛世(都に住む時代)三十七年。この殿は新介殿で、山名氏と細川氏との大乱(応仁の乱)がありました。都に攻め込み、数多くの戦闘が行われましたが、大敗することなく名誉を天下に示しました。明應可年(1492年)乙卯9月18日逝去。享年50歳。
義興 - 凌雲院殿。三品、左京兆尹(京都の東部地区を担当する高位の役職)と長豊(長門国・豊前国と豊後国)の三石七州の行政長官を兼ねた。偉大な義秀であり、優れた人物であった。治世34年。遠く先祖を顧みて、本朝(日本)の「二十五代」と称された。明應の庚申の年(1500年)、義植将軍は密かに興を引き連れて防州(周防国)に下った。しかし永正の丁卯の年(1507年)には、ついに念願の帰洛(京都に戻ること)を果たし、さらに外敵を討ち、朝敵(日本の敵)を討伐して国を治めることの賞を受けた。勅命(天皇の指令)によって三位の位に昇進し、その幸運と共にその名声は家に残った。
義隆 - 龍福寺殿。端雲珠天。大居土(どこの国か不明)防長豊(周防国・長門国・豊前国と豊後国)、筑備(筑前国と筑後国・備前国と備後国)、薮三石州(どこの国か不明)の行政長官。左京大夫(京都の東部地区の統治者)、従四位下。天文20年9月1日、内藤救の謀叛(裏切り)により、長州(長門国)の大寧寺で切腹した。
義長 - 別名・陶隆房 - 尾張国の守護職(一般に、陶隆房が謀反を起こし、大内氏を滅亡させたと言われているが、古文献を見ると全く違っていた)。義隆の後継子(大内家が絶えたとされたため、陶家から養子を取った)。豊州(豊前国と豊後国)の大友末子として、大内左京大夫義長と号する。大内家において相続し、壬陶に赴いたが、厳島の基后に討たれ、長府(現在の山口県下関市南部)で敗れた。弘治3年3月のことで、この時をもって大内家は滅びた。舅(しゅうと)に六人の男子がいたが、そのうちの一人、輝弘は毛利家に仕えていた。輝弘は豊後国に逃れ、山口に戻り、その後も武功を重ねた。輝弘は政弘の嫡子(正統な後継者)で、政弘の室は雄生を懐いた。政弘はその女子を政弘に嫁がせることを望んだが、名家の男子が少なく、山口に住む者がいた。
輝弘 - 政弘の嫡子(必ずしも後継者になるとは限らない・妾や側室ではない正妻との子のこと)。政弘は義興を適子(最も適した後継者)として授かった。輝弘は出家し、水上山で修行し、還俗して高く評価された。義隆の時代において、輝弘は大内家の適字柳として、その高い評価を得た。輝弘はまた、義隆生前の恨み(毛利氏と大内氏の禍根)を晴らすために毛利家に対して戦いを挑み、防州茶旧山で切腹した。永禄12年のことである。