2021年11月11日 - 在るべきところに収まれ

良いことをした人が良いことをされ、悪いことをした人が悪いことをされる社会になってほしいと切に願う。正直者が馬鹿をみる社会ではいけない。因果の法則というのがあるが、あれには時間差というものがあるように思う。良いことをしても、うまくいかず、運が悪いなと感じる。しかし、必ず、どこかで、その良い報いが返ってくると信じている。悪いことをしても、誰も何も言わないから、もっとやってやろう、人を騙してのさばってやろうという人は必ずいつか悪い報いが返ってくると信じている。ただ、中々、その因果関係が目にみえることは少ない気がする。でも罰が当たるなどという昔からの日本の考え方を教えられてきた人は、常にそのことが念頭にあるから、発見しやすいと思う。

もし、この世が全て因果の法則で成り立っているとしたら、最初の原因があったら、結果は一つなはずなのに、なんでこの世はこんなに複雑なのだろう。それは、理由もない行動、見返りを求めない行動、通り魔のような無差別殺人のような衝動的な行動があるからだと思う。それは、原因がないため、その行動が新たな原因となって、この世を複雑にする。

行動には段階があって、赤ちゃんのときには、高度な行動はできない。しかし、大人になって、衝動的に起業を思いついたり、ふとボランティア活動やってみようと思い立ったり、あ、この副業始めてみようというチャレンジ精神が湧くことがある。これは、衝動的ではあるが、それまでの思考や行動の経験の積み重ねがあり、それを土壌にその思い付きがある。とすれば、なぜ、無差別殺人のような犯罪が起きるのだろう?それまでに、ふつふつと怒りが溜まっていたとしても、それを行動にちょっとずつでも出さないと、それが悪いことかどうかわからない。行動しなければ何も起こらないからだ。そうやって、逆恨みのようなことが起きる。相手にしたら、いつの話?もう時効ではないか?と思うが、相手は、常にそのことについて考え続け、それを悪いことと思っていないから、爆発して、初めて行動に起こしたときに初めて気づく。そういう人をなくすためにも、ひきこもりや社会的行動の頻度を減らさないようにしておくべきなのではないかと思う。

人によっては、悪いとわかってて、悪いことをする人もいる。そういう人こそ因果の法則に気付いてほしい。例えば、万引きをして、悪いと思っていてもやめられない人は、人が万引きしてるのを見て、自分のやったことの意味を理解し、やめることがある。他にも、めちゃくちゃ怒っている人に対し、言っていることをそのまま繰り返し、鏡のようにすることで、相手も自分の言動の意味を理解し、冷静になり、収まる。

他人に攻撃するのではなく、自傷行為に至る人もいる。その多くが、感情的苦痛から逃れるためである。それはある意味自己肯定感が低くなっているときであり、自己効力感もない。つまり、自分は良いことをしても良いことが起こらない。なにをやっても無駄だとなっているのかもしれない。そういうときこそ、因果の法則には時間差があることを思い出し、今の時点で、良い結果が出てなくても将来には必ず起こると信じるか、すでに、過去にそういうことがあったことを思い出す。まず、前提として、存在しているだけで、良いことをしているのだ。例えば、赤ちゃんのときなど、別に何も良いことをしているわけでもなく、どちらかというとやんちゃしているはずなのに、親は、どんどん愛情を感じて、守らなければとか、幸せになってほしいと思うはずである。親にしてもらったことを思い出すだけでも、自分は存在しているだけで、良いことをしているのだと思い出すことができる。

ただ、虐待を受けているケースがある。自傷行為や自殺企図になるのは、そういうケースが多いと聞く。そういう人の場合、自分の存在をぞんざいに扱うかもしれない。そういう人こそ、人に感謝してもらう経験を積んでいくことが大切なのかもしれない。そうやって、良いことをしたら、良い結果が返ってくるということを理解し、自己効力感を高めていくことが重要になるのかもしれない。

偽善者のする行動は、目的が悪である。しかし、行動は善である。つまり、行動より深いところに存在するのが目的ではないだろうか。つまり、その人の行動だけみて判断するのではなく、どういう目的で行っているかをみることで、厳密に評価できる。例えば、本当に人を助けようと宗教を開く人と、金目的で宗教を開く人では雲泥の差がある。人は、行動ではなく、目的によって、良いことをしているか悪いことをしているかを判断されてほしい。例えば、殺人でも、自分の性的嗜好を満たすためにするのか、家族を殺されてしかたなくするのか、戦争で人を殺すのでは、全て意味が変わってくる。また、人が失言をしてしまったり、失敗したり、事故を起こしたりして、ただちに非難するのは良くない。経験は一度に全て経験できないのである。その人のひととなりは、しっかり付き合っていかないとわからないのである。しかも、夫婦ですら、最後まで誤解しつづけていたからこそ離婚しなかったということもあるのである。つまり、人の評価というのは簡単にしてはいけない、というか物事の評価も簡単にはできないのである。良い悪いは簡単に決められないのである。良いことをしようとして良いことをすると偽善になる。つまり目的や原因を持たず、ありのままやり、良い報いが起これば、それは棚からぼたもちという風な心がけがよいのではないかと考える。それはさきほども述べた通り、衝動的な行動である。新たな現実を作り出すことができる。直接的な原因や目的はないが、間接的な原因や目的はある。それはさきほど述べた通り、普段、どのような考えや行動をしているかに依る。また、人が悪い人か良い人か、もしくは、このような分類にある人であるなどと決めつけるのもよくないと思う。人は、時間とともに変化していくものである。それを写真を撮るかのように、切り取って判断するのは、一面はとらえているかもしれないが、必ず見落としがある。また、人は二面性も持っており、ある人には、優しいが、ある人には、厳しいなどはよくある話である。どんな人にも優しいひとは、さきほどの例でも述べた、どこかで爆発するタイプである。人は、必ずバランスを取って生きているのである。これが、恒常性、ホメオスタシスと呼ばれるものなのかもしれない。また、社会にもそのような機能があると思う。一つの主張がずっとまかり通ることはないのである。違う言い方だと作用反作用の法則なども近いのかもしれない。これが、因果の法則と呼ばれるものだと時間差で分かりにくいというのが、今回の言いたいことである。

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