どうすれば良いか分からない時
※今回の記事は若干書き殴りになるため、「だ・である」調の常体で書きます。
どうすれば良いか分からない時、それは、頭ではわかっているけど心と身体がついていっていない状態である。この、「頭」というのはしばしば論理であったり、こうあるべきという思い込みや思考の縛りを指す。そもそも論理自体が、こうあるべきや、こうでなくてはならない等の社会通念や常識などから発生しているのかもしれない。西洋式で考えると、自分の身体と自分の思考は切り離すことができるとどこかで読んだことがある。身体の状態と自分の思考を分けて整理できる。しかし、私は自分の身体なしに思考は生まれないという「心身一元論」に近い考えを支持する。「頭では分かっているんだけど、心と身体がついていっていない、なんか、モヤっとする、晴れ晴れしていない、心の霧が晴れていない、なんだこれは、、でもこう感じることができるのは今自分の身体がここにあるからだよなあ」と思う。どうすれば良いか分かっている時は、今のように、見出しと段落なしで文章を書くことをしないはずである。自分のことを自分で分かっていないようで分かっている、分かっているようで分からない。そもそも、自分を分かるという言い方が、自分の体と思考を切り離しているよなあと気づいた。岡田斗司夫さんのYoutubeで見た動画のフレーズが今でも忘れられない。「合理は非合理を倒せないが、非合理は合理を倒せる。」と。今の状態もこれに近いと気づいた。合理的に考えれば〜して、次に〜して、〜するみたいに順番とか道筋がスッと見えるのだが、見えていないということは、今の自分は非合理なのだと、そして、この非合理が合理の自分を打ち負かしている感覚。ここに合理的にこうみたいな手立てを持ってきても太刀打ちできないのだ。ということは、いっそのこと非合理な自分をそのまま受け入れた方が楽なのでは、全部合理では進まないことを身を持って理解した。これまでの自分は、論理ベースでこうすればこうというように、分かりやすいものに目を向けてきたのでが、今思えばそれは無意識に非合理から避けて生きてきたのだなと発見している。決して非合理から避けず、かと言って非合理に懸命に立ち向かうとまでいかず、そのまま受け止めるくらいの感覚でいればいいのかな。一見非合理に見えるが実はそれが本質だったりするのかもしれない。
例えば、人を傷つけない言い方をすることがむしろそのままの表現を出してくれていないんだと人を傷つけたり、相手から褒められることをそのまま受け止められずなぞに戸惑ってコミュニケーションが上手くいかなかったりしたり、などなど。
やっと段落を変えるくらいまで心が落ち着いたのだなたこの記事を書きながら感じた。「合理と非合理」これは抽象度が高い事象だが人生でずっと付きまとう、こびりつく、逃れられない、けど考えないことは寂しくなる、人生のテーマなのかもしれない。
暴言やあまり綺麗でない言葉をそのまま口に出している人を見ると、「それでも付き合ってくれる人がいる、仲間がいる、愛してくれる人がいるのか。むしろ自分が綺麗な言葉を発するべきという論理や合理的な行動と思い込んでいるのか。「それでも」って自分がその人をあまり知っているわけでもないのに評価を下すのは失礼か。羨ましいなあ。自分もああなれたら良いのに。でも、いきなり言葉荒げられないしなあ。ああなりたいということは今の自分を否定しているからそれもまた違うよなあ」としばしば葛藤することがある。あくまで自分の言葉遣いを自分だけで気をつければ良いのか。自分以外の人の言動までは変えられない、そのままにしておくのが良いのか。これが合理だけでは太刀打ちできない自称の一つなのかもなと発見した。
というわけで、「どうすれば良いか分からない時」のテーマで記事を書き殴ってみたが、こうすれば良いみたいな解決に導くのではなく、感じたことをただ呟く形で完結したのは、自分でも新しい記事の書き方だなと思った。論理的に解決や抽象を具体に落とし込むだけではない記事のスタイルも大事にしよう。
それでは、また。