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遊学の勧め

今日も少しだけ言葉遊びしてみようと思います。
ここ最近、ちょっと思うことがあって中々blogの更新も思うように行きません。

遊びと学び、なんだか全く両極端の言葉のように思えますが、考えてみればどちらも受け身というか受動的なんですね。
遊びも学びも・・・そう思いませんか?

これが例えば、「遊ぶ」とか「学ぶ」という言葉だったら。
間違いなく、自発的ですよね。

「自ら学ぶ」、「ひたすら遊ぶ」という風になりますよね。
でも、考えてみれば、学ぶことも、遊ぶことも、実は受動的でも十分成果を上げられると思うわけですね。

と言うのが、遊びというのは受動的な、どちらかというと与えられるというイメージですが、このblogのように、「言葉遊び」であれば、そこから何かを感じ取ってくれれば。

成る程、そういうことかという気づきを自らが感じてくれたら、これはもう立派な学ぶことになりますよね。

机に向かってするものばかりが勉強じゃないんですよね。
逆に言えば世の中の全ての出来事は自ら学ぶチャンスを与えてくれているわけですよ。
目の前の現象、例えばマスクの値段が急激に値崩れしている・・・・それなら、そのマスクの値段を毎日記録してグラフにしてみる、更にそれを最小二乗法を使って分析してみるとか、コロナの発生状況をグラフにしてみて統計解析してみるとか・・・もちろん、そんなことしなくても良いわけですけど、ちょっとした視線を変えて色々な視点から考えてみるともっともっと面白い事が見えてくると思うわけです。

僕は、勉強するぞ・・・と気合いを入れるんじゃなくて、どこまでも遊びの延長で、学びを得ることが大事なんじゃないかなぁと思うわけです。

勉強というのは、勉めを強いる【勉めてというのは、努めてと同じ意味】と書くように、どちらかというとある程度強制的にされるものと言うイメージがあります、しかし、一般的に「勉強」をそんな風に考えるから、学生を卒業すると、学ぶことを止めてしまうのではないでしょうか。

むしろ、僕は、学びは、勉強ではなく、「遊びの中に学びあり」という姿勢でよいともうわけです。これを僕は「遊学」と言う言葉を使いたいと思っています。

もっとも、遊学の本来の意味は、「よその土地や国に行って学問すること。」なんですけど、ここでは敢えて独自の解釈を加えさせてもらって、「遊びの中に学びあり」と言う意味で使いたいんですね。

特に社会人になると、日々の仕事と遊びの誘惑で、学ぶことを止めてしまう人も多いので、社会人こそ、「遊学」を実戦して欲しいなぁと思うわけです。

「遊びながら、学びを見つける」

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中々難しいことのように思えますが、気になったらそれはなに?と調べてみる。
それを繰り返すだけでも、大分変わってくると思います。

中々難しいことのように思えますが、気になったらそれはなに?と調べてみる。
それを繰り返すだけでも、大分変わってくると思います。


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