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自由とは何かを改めて考える

思うことを思うままに書かせていただこうと、こうして毎日少しずつアップしています。

毎日習慣化するということは、最初はエネルギーが要ります。

それは、何かを始めるときはとても不安が起こるので、現状を維持しようとするからです。

これは、誰しもが体験したことではないでしょうか。

現状からの脱却、口で言うのは簡単ですが、いざ自分が実行しようと思うと躊躇してしまう。

初めての経験というのはどんなことでも、難しく感じたり、時には恐怖を感じたりするものです。

しかし、それが習慣化していくと、それが当たり前となり、日常となってしまいます。

堕落した生活を送るのも、規律ある生活をするのも同じ事だと言えましょう。

時には、規律ある生活という言葉だけが一人歩きして、なんとなく堅苦しい生活と思われるかもしれませんが、むしろ規律ある生活というのは、全てにおいて基準が定まっている分だけ楽なんですよ。

動く範囲が限られているのではなく、動ける範囲を最初から決めてあるので、危険地帯に足を踏み入れると言うことはないと言うことです。

自由というのは、日本語では一つの言葉しか有りませんが、英語で言うところの、「Freedom」と「Liberty」の二つの意味があるわけです。

そこで、ここからは私の勝手な考え方ではあり、皆さんへの質問でもあるのですが。

私たちが規律ある生活をしていくとき、「○○してはいけません」という制限を掛けられる場合がありますが、これは「Freedom」に対する制限でしょうか、それとも、「Liberty」に対する制限でしょうか。

制限された自由と完全なる自由

私は、これは、「Liberty」に関する制限であろうと考えています。

すなわち、制限された中の自由であり、その自由は制限された枠からはみ出さない限り守られているわけです。

子供が義務教育を受ける権利があるのも制限された自由があるからです、子供をその昔は働かせていました。

10歳程度の小さな子供が軽作業を行う、今でも発展途上国では重要な働き手として酷使される。

少なくとも、17歳・18歳頃までの子供の頭脳は非常に柔軟で、乾いたスポンジのようなものであり、どんどん新しい知識を吸収して行くことが出来るわけです。

そこで、基礎教育をしっかりとおこなう事は、将来の社会を支える上で非常に重要なこととなってきます。

そうした意味では、学生が学ぶ事が出来るのは「Liberty」な自由であり、その自由の中で多少の制限を受けるのはやむを得ないことだと言えます。

時々、校則などが厳しくて自由がないという人も居ますが、少なくとも校則然り、法令等で縛られているからこそ、制限された自由であるからこそ、私たちが自由に活動できるわけであって、「Freedom」な自由というのは、それこそアマゾンの密林等で生活するような場合を指すと言えないでしょうか。

ちょっとまとまりがなくなってしまったのですが、自由というものを改めて考えてみるとき、制限された自由である規律ある生活の方がよほど私たちには自由なのではないかと改めて思ってしまうわけです。

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