死生観の話。
まず
※不謹慎かつ不快感を催す恐れのある内容です。ご注意頂くと共に、わたしイチ個人の考えでしかないことを踏まえてお読みください。
はい、ではここから自分語りです。(いつもの)
最近になって私は、おそらく初めて「死にたくない!」と口に出して叫んだりもしたのですが、基本的には昔から『死』や『無』に対して根強い渇望を抱いて生きています。
けれど、そういう感情が全くない。「生きている以上は死にたくないのが当然で、人生は楽しい」と心から思える人がいるのも理解しています。
その感情を否定する気はありません。
生き物は命こと切れるその瞬間まで、生を渇望しながら呼吸をするのだろうし、自分が実際に死の淵に立ったとき、どういう感情を抱いてそれが絶えるのか、どういった行動にでるのかは、考えても想像がつかないからです。
(一応ですが、考えてはいますし、私の理想はありますが、実際のところそうなってみないとわからないという意味です。)
わたしは日々、楽を求め、食を好み、睡眠を必要とし、時に体調不良を嘆き、薬を飲み、栄養を摂取しようと画策し、身体についてやメンタルについて生活についてを考えながら今も生きています。
にも拘わらず、その根っこでは「死にたい」と思っているなんて、臍で茶を沸かすぐらいちゃんちゃらおかしい話ですよね。阿保で滑稽の極みであります。
それは重々、百も承知の上で、それでもやはり、「生きていきたい」「生きるのは楽しい」とは思えない。
「生きていたくないなぁ」
が再三に渡って辿り着く結論なのです。
人生はおもしろいです。それを否定はしません。でもだから、続けたいとは思わないのです。
この感覚を人が病的だと思うのかどうかもわからないし、私は私を異常だとは思わないのですが、「普通ではないんだろうなぁ」と感じています。
死んだら終わりだよ。何もないんだよ。死んだらもっと苦しいかもしれないよ。
と、幾度となく言われて来ました。人生の半分以上の年数で知らない人から、友人から。
仮に死の先に苦しみがあるとして、痛みがあるとして、では果てはどこなのでしょう。
生の果ては死ですよね。
わたしが生をしんどいから嫌だと思う理由は飢餓です。
飢餓が嫌なのはなぜか。
生命活動に必要だからです。
餓えて苦しいのも嫌です。死んだらそれがずっと続くのかもしれないよと人は言います。
そうかもしれません。苦しいのは嫌ですよね。
でも、苦しくてもその先に死は待ってないですよね。頑張ってもがく必要はないですよね。諦めて苦しいならそれはいいんじゃないかと思うんです。そうなってみないとわかりませんけどね。
私がしんどいのは、しんどい状況が頑張らないとずっと続くからです。頑張るのをやめたらしんどいからです。頑張らないといけないことが嫌です。
世の中は頑張っている人ばかりですね。すごい。ほんとうに。
飢餓が辛くて苦しいのは生きていないといけないからじゃないかと思う。
死んでいるならその必要はない。明日のことを考える必要がない。働かされる必要がない。地獄という場所があり、どんな酷い目に遭うとして、それが未来永劫続くのだとしても、私自身がアップデートを続ける必要がない。なぜなら生命活動は終えているから。
そんなことを常々考えている私が、身近な人の不幸な情報を耳にしてもやはり、大きく人生観を揺るがされたりはしないのです。
他人の不幸は辛いことです。本人が望んでいないのだとしたら尚のこと。
本人が望んだんだとしても悲しむのは、自分の願望的な感情なのでそれはそれで仕方ないこと。
ただ他人の不幸を目の前に、どれだけ心が痛んだとしても、自分だったらと考えると「楽にして欲しいな」と思うのです。
私が「死にたい」と言った時、それを聞いてくれた人たちはみんないつも、「あなたが死ぬと誰かが悲しむ。私も悲しい」と言ってくれた。
そう言ってくれる存在があったことは本当に感謝するべきだったと思うし、そんなことを言わせてしまって申し訳なかったとも思う。申し訳ないと思うのはそんなことを言って困らせてしまったことと、「私が同じこと言われても同じようなことしか言えないだろうな」と思うことに関してである。
当たりさわりのない励ましなのか慰めなのかよくわからないその言葉は、全く響いていないことに申し訳なさを感じるばかりだ。
でも、言われる方もうんざりするよね。正直ね。そう思っちゃうことも申し訳ないですほんと。
最初にわたしが最近「死にたくない」と叫んだ話をしました。
それはとある狩りをするゲームでのことです。
私は自分がその言葉を発したことに妙な感動を覚えました。この感覚は異常かもしれません。自分でもそれはちょっと深刻に首を傾げるぐらい。
そのゲームで、私というプレイヤーは【狩り】をするのですが、同時に相対する獲物から「狩られるかもしれない」立場でもあります。
たかがゲーム。されどゲーム。
その中で私は生きていて、獲物もまた生きているのだと強く感じるのです。
私の中の(ほとんどない)野生と生命力がみなぎるのをコントローラーを握り画面を見つめ、回復薬に選択を合わせてボタンを押そうと体力ゲージを見つめている瞬間はとても感じます。
でもゲーム中の私が、「死にたくない」のは、結局のところ「死」の先に待つ【続き】や【再戦】があるからなんです。失敗が嫌なのです。
ゲームの話からもとに戻しましょう。
リアルでは、自死の話題を持ち出すと必ず「死ぬぐらいなら~」と言われる。
死ぬ『ぐらい』の代わりにもっと楽になれる方法を善意で提案してくれているつもりなのだろうが、その先に生が続いて今の自分が延々アップデートを続けて変化を求めてその変化のための進化をしなければならないと思うのが、もう無理なのだ。
そう言ったことを考えるたびに、私には私が、生き物として必要な物が圧倒的に欠如していると思えてならない。
そんな私がそれでも今もこうして生きていられるのは、周りの色んなもののおかげなのだと思う。それでも、果たしてこれがいつまで続くのだろうと思うと早急に終活の仕方を考えておくべきなのだと焦るばかりだ。
よくわからないんですけど美味しいもの食べます!!