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【オリジナル】復讐【短編】

「ざまあみろ……! ざまあみろ!!」
 少女は目を爛々と光らせ、何度も肩で息をしながら、うわごとのように繰り返した。
 胸の上に突き立てた包丁。
 目の前で横たわる人物の服と布団が、じんわりと赤く染まって行くのを見つめる。
 満面の笑みを浮かべた。
 歪んだ口元から、乾いた笑いが漏れる。
 壊れた玩具のようにひとしきり声を上げ、電池が切れたようにぴたりと停止。
 ずるりと座りこむと、小さく呟いた。
「殺して、やる……」
 
 
 
 
 
 それは、佐伯が刑事課に配属されて最初の事件だった。
 管轄地域内にあるアパートの住人による、一件の通報。
 佐伯がアパートの前に駆けつけた時には、血を流した部屋の住民と思われる女性が救急隊員によって運び込まれようとしていた。佐伯はアパートの階段を駆け上がる。慌てて飛び込んだ部屋の中では、心神喪失といった風情のまだ幼げな少女が呆然と座り込んでいた。
 隊員が声をかけたが反応を示さない。
 制服姿の少女の白いセーラー服は血まみれで、すぐ傍には家庭用の出刃包丁が落ちている。
 刃にべっとりと付着した血糊。それが凶器であることは明白だった。
 佐伯は隊員を外へと促し、落ちた包丁と少女の間に腕を滑り込ませるようにしてそっと彼女の傍へと腰を下ろす。
「大丈夫か? ××中学の制服だね。……名前は言えるかな」
 佐伯が少女にそっと尋ねると、少女は虚ろな瞳をゆっくりと向けて視線を合わせた。
 興奮する様子はない。
「あ………わたし……」
 佐伯の顔を確認した瞬間、はっきりと意識が戻った様子で瞬きを繰り返した。
 少女は学年と名前をはっきりと告げ、質問にぽつぽつと答える。
 そして、言った。
「わたし……わたしが……、お母さんを刺しました」
 
 通報したアパートの住民は、現場の部屋の隣人。
 十四時頃、激しい悲鳴が聞こえて部屋の扉を叩きインターホンを鳴らすが、部屋の中から「痛い」という悲鳴が聞こえるばかりだった。慌てて部屋に戻り、救急と警察へ通報したという。
 少女はその年齢から検察へと引き渡される。そのことに承知し大人しく車に乗った。少女は始終大人しく、暴れる様子もなく殊更に弁解する様子もない。
 ただ一度だけ、
「わたし、どうなりますか」
 と静かに聞いたのを佐伯はよく覚えていた。
 少女は近所にある公立中学校に通って一年目。少女の十三歳の誕生日だった。
「昨日の中学生、母親に虐待されていたらしい」
 先輩刑事は翌日、佐伯にそう告げた。
 話を聞けば、母親は刺された箇所が急所が外れていたため、一命を取り留めたらしい。少女は他に親戚もいないため児童相談所で身柄を保護することになったという。
 
 佐伯はその事件を忘れることができず、何度となくその児童相談所へと足を運び、少女を見舞った。
 少女は淡々として大人しく、静かだったが、顔を合わせて行く度、次第に打ち解けてくれているように感じていた。
 児童相談所の職員とも顔見知りになり、母親の容態が回復し、児童相談所の職員が面会したこと。カウンセリングも受け、終始少女を心配して自分の不貞を詫びる様子を見せたことを聞いた。
 母親は少女との関係回復に努めたいと言い、引き取ると言って憚らない。
 児童相談所としてもその方がいいだろうとの判断だと。 
 そのことについて佐伯が少女との話題で触れた時、少女はそれまでに見たことないほどに激昂した。
「絶対にいや。佐伯さんまで騙されないで!」
 少女は激しく首を振り、声を荒げ、佐伯のシャツを握り締めて叫んだ。
「お、落ち着いて……」
「嘘! 全部嘘なの!! あいつの言うことなんて信じないで!」
 佐伯は少女の態度の豹変と、錯乱した様子に困惑し不安を覚えながら、必死で落ち着くようになだめる。
 何を言ったかは思い出せない。大丈夫だ、とか当たり障りのないことを言ったように思う。
「いや……絶対に………そんなことになるぐらいなら……」
 少女はうわごとのように繰り返していた。
 様子に気付いた職員が駆けつけてきて、佐伯は帰された。
 その背後で少女が言った言葉は、はっきりと耳に残っている。
 
「そんなことになるぐらいなら、今度は絶対に、確実に殺してやるから……」
 
 その後、少女は母親に引き取られ、親戚を頼りに遠方の地でカウンセリングを受けながら生活すると聞いた。
 最後に聞いた少女の言葉が耳に残る佐伯の不安をよそに、少女が児童相談所を出る見送りの日。少女の佐伯への態度はそれまでとなんら変わりがなかった。
「刑事さん、何度も会いに来てくれてありがとうございました。またいつか。――わたしのこと、忘れないで下さいね」
 そう、ぎこちなく微笑んだ。隣に立つ母親からは穏やかで優しげな印象を受けた。
 二人の負った傷は大きく、溝は深いかもしれないが、うまくやっていって欲しい。そう願いながら、少女と最後になるはずだった。
 もう会うことはないだろう。そんな風に、思っていた。
 あれから一度も、あの少女との交流はない。
 便りがないのも、問題がない証拠だ。そう信じて、わずかに感じた不安も薄れていった。
 
 
 
 そんな昔の事件のことをふいに思い出し、カレンダーに目をやる。
「そうか……もう五年か」
 月日の流れはあっという間だと、配属されたばかりの後輩の淹れた珈琲を一口啜った。
 今日の日付は、佐伯が配属されてちょうど五年。あの少女の誕生日だ。
 何気なく当事を思い出したのも、きっとそのせいなのだろう。
 そんなことを呑気に考えていた時、上司に名前を呼ばれる。
 顔を上げると、内線を取った上司が部屋の外を指した。
「外。お前に面会だとよ」
 告げられるまま、佐伯は外へと足を向ける。
 予感じみたものはあったのかもしれない。
「お久しぶりです。佐伯さん」
 支持されるまま向かった場所には、つい今しがた懐かしく思い出された少女の姿があった。背丈は伸び、成長して髪も伸びている。女性らしさも兼ね備えた様子で、恭しく頭を下げた。
 佐伯はやや、呆然と立ち尽くす。
「――あ、……ああ、久しぶりだね……大きくなったね驚いたよ」
 少女は、やんわりと微笑む。
「急に会いに来てしまってごめんなさい。今日、こっちに戻ってきたの」
「戻って?」
「母がどうしてもこっちに戻って来たいって言うから。――懐かしくなってしまったから、挨拶も兼ねて佐伯さんに会いたくなって……迷惑でしたか?」
 遠慮がちに尋ねてくる少女に、佐伯は頭を振って否定する。
 驚き、困惑する気持ちはあれど、そんな風に感じてくれていたのだと嬉しく思う。
「そんなことない。来てくれて嬉しいよ」
「……よかった…………」
「ちょうど、君のことを思い出していたんだ。確か今日、誕生日だっただろう?」
 佐伯がそう告げると、少女は驚いた表情を見せた。
「覚えてて……くれたんですか」
「あ……ああ」
 純粋に喜ばれると心苦しくなる。その記憶に紐付けられているものは苦々しい。
 少女は苦い表情を浮かべた佐伯には気付く様子もなく、嬉しそうに微笑む。
「実はそうなんです。それで、もしよかったら佐伯さん。今夜、うちにいらしてくれませんか?」
「今夜?」
 今日は早上がりの日だった。当然、何事もなければの話だが。
「はい。今日は母も早く帰るそうなので。母も佐伯さんにはご挨拶がしたいってずっと言ってるんです。なので良かったら、うちで食事でもしていっていただけないでしょうか」
 佐伯は一瞬逡巡する。
 本来であれば、断るべきところだ。
 だが、寄る辺を失くしていた少女の成長と、母親との関係の回復に驚きと喜びの方が大きい。職務や立場よりも人として、彼女の誕生と新生活の始まりを祝うのもいいだろう。そんな風に思えた。
「わかった。寄らせてもらうよ」
 佐伯がそう告げると、少女は花が咲くような笑みを見せる。
 五年前には見ることのできなかった表情だった。
「ありがとうございます! 帰って気合入れてお掃除しなきゃ」
 少女らしいしぐさで笑って、身を翻す。
「これが住所です。それじゃあ佐伯さん、夜に待ってますね」
「ああ、それじゃあまた後で」
 駆け出した少女の背中を見送って、業務に戻る。
 その日、幸いにして急な事件や事故に借り出されることもなく仕事を終えた。
 どっぷりと日は暮れているが、途中でケーキと花を買い、予定通り少女の家に向かう。
 思えばきちんと母親と顔を合わせて話すのは初めてだ。そんなことを考えながら、渡されたメモを頼りに歩く。
 たどり着いたのはどこか見覚えのあるような感じのするアパートだった。
 以前、少女が住んでいたところに似ている。
 二階建ての木造アパート。
 塀で囲まれた敷地にひっそりと佇んだ外灯の明かりは、点いたり消えたりを繰り返していた。
 どことなく人の気配の感じられないその建物を見上げて、住所を確認する。
 アパートの傍の電柱には、確かにメモに書かれた住所の番地が記載されていた。
 音の鳴る階段を少しでも音を立てないように踏みながら、二階へと昇る。
 メモに書かれた番号の部屋の窓には明かりが無かった。
 部屋の番号を確認しながら、表札に名前のないインターホンを押した。
 
 ピーンポーン
 
 アパート内が静かなせいだろう。
 インターホンの音は異様に思えるほど大きく鳴った。
「はあい」
 中から少女の声が聞こえて、佐伯は胸をほっと撫で下ろした。
 妙な緊張感を抱えていたことに気付いて失笑を漏らす。
「どうぞ、入って下さい」
 少女の声は静かに、佐伯を中へと促す。
 佐伯はひんやりとするドアノブに手をかけた。
 手前に引いて、ゆっくりと部屋を覗き込む。
 薄暗く、やはり電気は点いていないようだった。
 不審に思いながらも、さらにドアを開いて、中へと足を踏み入れる。
「お邪魔しま……」
 つん、と鼻を突く嫌な臭いがした。思わず手で鼻と口を塞ぐ。
 その臭いを、佐伯は嫌というほど知っている。
「いらっしゃい、刑事さん」
 薄暗がりの中、少女が微笑む。
 座り込む彼女の目の前には一組の布団が敷いてある。
 その中央に深く突き刺さった刃物の柄がはっきりと見えた。
 少女は顔まで血で汚して、佐伯に向かってにっこりと笑う。
「覚えてた? 刑事さん。わたし、ちゃんと言ったでしょう」
 その瞬間、佐伯は自分の考えの甘さ、認識の誤りを思い知った。
 
 
 
 
 脳裏にはかつて少女と交わした会話が、走馬灯のように流れる。
 
『刑事さん、どうして私逮捕されないの』
『君がまだ幼いからだ。お母さんが助かったのも運が良かったんだよ』

よくわからないんですけど美味しいもの食べます!!