【短編小説】労働人応援曲
人殺しだ。そう、私はたった今、人を殺してしまったのだ。
ある夏の日の夕暮れ、燃えたぎるような血色をした刃渡り5cm程の剃刀が、陰鬱なこの空間を照らす。鏡には鮮明な紅色のまだら模様が響いている。
きっかけは何だったのだろうか。生まれた時からの運命だったのだろうか。今までの人生をのらりくらりと過ごしてきた私の背に、ランドセルに重石をぎゅうぎゅうに詰めたほどの灰色の後悔が、ゆく手を阻むように伸し掛る。
3年ほど前、私は中堅it企業に勤めることになった。就活を真面目にやらず、正社員になれればどこでもいい、it業界なら先がありそうだっと思って適当に決めた。
この判断が大きな過ちだったのだ。it企業とは名ばかりで、正確には"人売り"産業だ。若いうちは体力があるということで、誰にでもできるのような作業を、薄汚れた暗い空間の中でただ淡々とこなさせる。もちろんスキルアップなど幻想だ。そのうち年が過ぎれば、体力の衰えとともに"クビ"を切られる。ドロドロのコレステロールで詰まった哀れな産業廃棄物の完成だ。「生きている内はなんとかなる。」そんな幻想や甘え、逃避をいつまで信じていただろうか。
会社勤めを続けていれば自ずと見えてくる。灰色に染まった上司の背中を。あれが私の辿る道だとするのなら、こんな絶望はない。
だから私は覚悟を決めたのだ。
夕暮れにはサイレンが轟く。ああ、チクショウ。もう終わりか。もう見つかったか。
あの頃は良かった。遠い将来のことなんて考えなくたっていい。日々の生活の中で、1分間に60回ほど紅色を巡らすような、玉音を轟かせる新鮮な楽しみは向こうからやってきたのだった。
4限終わりのチャイムが鳴れば、今でこそ小さく見えるグラウンドを駆けずり回りに行き、家に帰れば近しい誰かの優しい音がした。それと似たような、今を生きる他の誰かの微かなせせらぎが、このワンルームマンション2階の、陰鬱さと幻想で照らされるぼやけた窓辺で聴こえた気がした。
きっとこれが最後の音だろう。
やがて赤赤とした船は沈み、濃い灰青色の陰りを帯びた暗い反射光がこの地を照らす。
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