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【似非エッセイ】縁(えん、えにし)

※三丁目公園(埼玉県坂戸市西坂戸)。当時の自宅から自転車で5分くらいの場所にあるこの公園は、幼時通い詰めた遊び場。この公園の対岸に、武者小路実篤で知られる『新しき村』がある 2021年5月撮影

 猫の額のように小さなわが家の壁は、凹凸のついた石灰石で組まれていた。そこへ、薄汚れ、何箇所もすり減っているC級ボールを投げつける。
 同じ速度、角度で毎回投げるなどという芸当はもちろんできない。だから、ぶつけたボールは2度と同じ方向へは跳ね返らない。それが、ボクの心をくすぐった。

 隣の家のFくんも、同じように“壁当て”をしている。彼の家の壁は真っ平だったから、規則的に弾むボールを楽々とキャッチする。上下左右に飛び跳ねて、何度もボールを後逸するボクを、いつの間にやら手を止めた彼はニヤニヤしながら見つめていた。「ガキだからわかんないんだろうな」と、4、5歳も年下を、相手にする気も起きなかった。

『キャプテン』(ちばあきお・日本テレビ系)を観終えたボクは、玄関に置いてあるグラブとボールを手に、まだ明るさの残る夕方の外へと飛び出した。Fくんも同じ。いやきっと、全国の野球少年がそうだったろう。
 向かいの堤さんの庭や、まだ空き地だった左後ろの草むらに飛び込んでしまったボールを探す。柴犬ゴローと並走した父が、フルマラソンのゴールのように門前になだれ込む。そのまま小さな縁側に腰かけた父は、滝のように流れる額の汗を拭いながら、黙ってボクの様子を窺っていた。

 ガラッと窓を開けた母の一声が飛ぶ。「ご飯できたわよ~」。気がつけば、赤いフィルムを貼ったような西日が辺りを包み込んでいた。すでに父の姿はなかった。昭和50年代後半、1980年代前半の光景である。

 身長160cmに満たない小さな体。だが、早朝に20㎞、夕方も10㎞走っていた市民ランナーだった父は、必ずお供をさせられていたゴロー同様、筋骨隆々だった。普段は無口で、だけど叱り飛ばす声は雷以上の大音量。そうして繰り出された拳や掌は、この世のものとは思えない威力だった。

 恐れ多い存在だったのは確かである。が、近寄れない存在だったわけではない。山形県は温海町五十川(現在は鶴岡市に統合)出身。東北人らしく、黙々と励む人。表現することが下手なだけで、優しい人だったと思う。キャッチボールはしょっちゅうやった。父の投げる球は速かったし、コントロールもずば抜けていた。ものすごい回転とともに、シュルシュルと音を立てて迫りくるボールの白さは鮮明だ。

 後楽園球場にもよく連れて行ってもらった。応援団が過分に占領している座席を、「子どもがいるんだよ。ここ座らせてもらえないか」。そう言って確保してくれた。翌日は喉が潰れて声が出なくなるくらい声を張り上げている息子を尻目に、カバンから取り出した書類を読み込んでいた。「お父さん、また仕事してたよ」と、その度に母にチクっては、彼女の呆れた表情を引き出していた。今となっては、父がどんな状況の中、ボクを連れて行ってくれていたか、容易に想像することができる。

 1度だけ、猛烈に反発したことがある。高校進学のときだ。僕はどうにも理数が苦手だった。小さいころから読書も好きだったから文系に進みたかった。そこで雷鳴が轟いたのだ。

 貧困な家庭に育ち、地元のパッとしない公立高校を卒業した父は、家の田畑を手伝いながら独学で学び、数年を経て東京大学農学部に進学した。奨学生だったから、上京してからの下宿生活も大変だったという。「アンパン1個で何日も過ごした」と、それは事あるごとに聞かされた。
 その後農学博士になった父は、息子に同じ系列に進んでほしかったのだろう。「男が文系なんてとんでもない。理系に進め!」と怒鳴りつけられ、なぜか「オレは映画監督になりたいんだ!」と言い返したのだった。
 もう、つかみ合いになる寸前だったが、半べそをかいた母が必死に割って入った。それ以来、父は2度と進路について口を出さなくなった。

 父にとってのヒーローは、長嶋茂雄、大場政夫、そしてモハメド・アリだった。大学院の修士課程を終え、そのまま研究室に残った父は、苦労を重ねてさる研究所に入った。彼の口から直接聞いたことがなく、今となってはとても悔いが残るのだが、おそらくヒーローの活躍に心を支えられていたのだろう。そうして母と出会い、やはり苦しい生活を送りながら、静岡(清水)、東京(練馬)、埼玉(上福岡、新河岸)と転々とし、ようやく坂戸に至ってマイホームを手に入れたのだ。5歳上の姉が生まれたのは練馬時代、僕が生まれたのは上福岡。坂戸の狭い平屋に移ったのは僕が3歳になったときである。

 胡坐をかく父の股にちょこなんと座らされ、アリやジョージ・フォアマン、具志堅用高、渡嘉敷勝男たちが闘う姿を一緒に見させられたのを、うっすらと記憶している。まさに「三つ子の魂百まで」である。
 ボクシングと野球の存在は、その後漫画の影響もあって、自分の中でぐんぐんと育まれていった。中学に入り、「凄い選手がいる」と浜田剛史を教えてもらったのが最後。僕の中でボクシングと野球の比率はいつしかかけ離れ、逆にオレが父にスター候補の選手を伝える。そういう関係になっていった。

 ボクシングを一緒に見に行ったのは2度だけである。鬼塚勝也のラストファイト(李炯哲=韓国=戦、1994年9月18日)が行われた代々木第一体育館と、名護明彦vs.村越裕昭戦(1998年7月20日)のあった後楽園ホールだ。アルバイトで貯めたお金で、父を誘ったのだった。

「ボクシング記者になりたい」と伝えたのはいつのことだったか。一緒にボクシングを見に行ったずっと前のことは確か。大学に入学したころだったか。
「そうか」。返ってきたのはたったひと言だった。けれども、微笑んだ父の表情がすべてを表していた。

 1996年から、当時小石川(文京区)にあった『ワールド・ボクシング』の編集部に出入りするようになっていた。といっても、山のようにある貴重な試合ビデオを借りては見て返し、また借りてくるという“あてのない”日々。数年が経ち、当時編集長だった前田衷さんがよほど不憫に思ったのだろう。ワープロ打ちという単純作業を少しずつ頼まれるようになったのだ。

 1995年。研究所を定年退職した父は、小田原にある某大手メーカーの研究所に再就職。これを機に長年の夢だったマイホームを手放して、母と社宅生活を送り始めていた。

 僕の方といえば、1浪して入った大学を、4年生を2回送って1996年に卒業。阿佐ヶ谷にある西友でアルバイト、児童書制作の編集プロダクションでのバイト、正採用を経て、「新婚旅行でメキシコに長期行きたいから」という理由であっという間に退職したのが1998年10月のこと。無職のまま、バリバリ働いていた妻とともに下井草のアパートに住んでいた。

「小田原に行ってみようか」。12月19日、結婚からおよそ2ヵ月後、土日を利用してふたりで向かった。

 夜。「ピ~、ヒョロヒョロヒョロ」という独特の音が鳴り、FAXが流れてきた。徳山昌守が井岡弘樹を破ったその日、「(数日後の)新人王戦取材を手伝ってもらえないか」という前田さんからの依頼だったと思う。『Number』の愛読者で、前田さんのコラムファンだった父にアピールする絶好の機会だった。「お~、そうか」。そう言って、ペラペラの感熱紙を手にした父の顔には、無数の笑い皺が浮かんでいた。

 翌日。相変わらず、早朝ランニングを終えて帰ってきた父は、いつものように食事を摂り、自分が子どものころからそうだったように自室にこもって仕事をし、ひと段落したところで畳に寝っ転がり、急に頭を抱えだして意識を失い、3日後にこの世を去ってしまった。63歳。わずか26年の付き合いだった。
 その夜、呆然としたままブラウン管を眺め、飯田覚士がヘスス・ロハスに敗れたのを見た。妻と一緒に観に行くはずだった6日後の辰吉丈一郎vs.ウィラポンのチケットも、下井草に置いてきたままただの紙切れと化した。カリスマが崩れ落ちる瞬間も、テレビで見届けた。

 年明けの1月から、建売ながらマイホームに住むはずだったが、父はそれを叶えられなかった。母ひとりでは心許ないからと、下井草の家を引き払い、同居することにした。そうして1年間、近所のスーパーでアルバイトに精を出した。その間、前田さんや春原俊樹さんからいくつか取材依頼もいただいて、何の素養もないままに必死にこなした。初めて取材に行ったのは三津山ジムだ。静岡県清水にあって、村越の取材だったというのがなんとも奇遇である。

 そうして正式に『ワールド・ボクシング』編集部に入ったのは2000年5月のことだ。父にその事実を見せたかった。その年の10月に生まれた長男、2年おきに生まれた次男、長女を抱いてほしかった。

 亡くなる1年ほど前から不思議なことがあった。風邪ひとつひかず、病院にかかったこともなく、「俺は100歳まで生きる」と豪語していた父が、突然、真鶴に墓を建てた。そして、あの大喧嘩以来、一切アドバイスめいたことを言わなかったくせに、「出会いを大切にしろ」と顔を合わせる度に言い聞かされてきたのだった。

 中学生のときだった。何気なく父の顔を見ていた瞬間、「この人は誰だ?」と突然わからなくなったことがある。いや、父という認識はもちろんあった。けれども、この人と自分の関係性に真っ白な靄がかかったような状態に襲われたのだ。
 振り返れば、思春期特有の、なのかもしれない。なぜ、この人の下に生まれたのか。この人は誰の下に、そのまた彼らは誰の下に……と、家系図を辿っていくような感覚に陥り、果てしない旅に迷い出してしまったのだった。

 夜空の遠く遥か彼方、まるで蛍のようにぼんやりと柔らかく輝く星がある。目を凝らし、細め、ようやく何とかその鈍い光をキャッチする。詳しくはわからないが、計算上、「何百年も前に光った光が今、届いているのだ」と聞いたことがある。その途方もなさは、80億人を超えた人類の中での出会いに似ているといつも思う。そして、1度めぐり合った人やものとの、ふたたびの出逢いという手繰り合わせられる奇縁をも。

 昨年5月、およそ30年ぶりに西坂戸を訪れた。平屋建てから移り住んだ2階建てのかつてのマイホームと、レンタカー越しに再会を果たした。
 肌色だった建物が群青色に変わっており、猫の額だった壁はさらに半分に削り落とされていた。若干の改築も施されていたのだが、あの縁側だけはしっかりと残されたままだった。

 父の遺言どおりの生き方をしているとは到底言い難い。けれども、縁の下を支えたいという想いは持ち続けている。それだけは胸を張って言える。

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