終戦前の陰鬱
まるで梅雨が舞い戻ってきたかのような、連日の雨。しかも強烈。風も強い。最近、まったくニュースを見ていないし、ネットでも読んでいないから、これが台風の影響なのかどうかすらわからない。
また九州で豪雨被害の様相だ。近年、毎年のように九州が標的にされている。Yahoo!の天気情報は、家族が住む佐賀県小城市に設定しているから、そのことだけは把握している。「避難警報」だなんだと、画面半分くらいを真っ赤な文字が躍っているから。
わが家も福岡県との県境の山(佐賀市三瀬)に居を構えていた3年前、土砂災害に遭った。半壊。
幸い、子どもたちは学校に行っていて難を逃れたが、自宅にいたかみさんが、早朝からの家事を終えて、いつものようにひと眠りしていたら、のみこまれていた可能性が高かった。
以前から、強い雨が降っていると聞くたびに、土砂による災害を懸念していた。それがついに現実となった。みんな無傷だったのが、せめてもの救いだった。
単身赴任というかたちで、実家(といってもおふくろ一人の家)のある小田原に来て14年目になる。おふくろは4年前に他界。いまはたったひとりで住む、寂しい暮らしの毎日だ。
今日も1日中、近所の総合病院に向かう救急車のサイレンがひっきりなしに鳴り響く。新型コロナウイルス感染者を積極的に受け入れていると聞いた。それに加え、熱中症患者、さらには雨による被害に遭った方々も搬送されているのだろう。
あの音を耳にすると、いまだに体がこわばってしまう。父が倒れた23年前のあのとき、長男が滑り台のてっぺんから落っこちて頭の骨を折ったあの日、そして、おふくろを乗せて何度も乗ったとき。そのすべての光景が一気に蘇ってくるからだ。
近所には、大きなスーパーが2軒あるが、その片方は件の病院の目の前にある。おふくろが通院し、手術し、入院し、そして亡くなった病院。建物を見るのもイヤだったから、このコロナ禍になる前までの2年間は、そのスーパーには足を運べなかった。
夏はやっぱり、肌を刺すような強烈な陽射しと、うだるような暑さ、うるさいくらいのセミの声が必要だ。日夜問わず聞こえてくる、近所の子どもたちのはしゃぐ声もほしいところだが、それはコロナ禍になる前からまったく聞かれなかった。われわれの子どものころとは、家族構成も子どもたちの遊び方もすっかり様変わりしてしまったようだ。
雨とサイレンの音以外、何も聞こえてこない。そういう状況で何日も過ごしていると、だんだんと気が滅入ってくる。テレビを観るのもめんどうだ
料理もする気にならない。ご飯を炊く気にもならない。コンビニに弁当を買いに行くことすら億劫。こうして、どんどんどんどんと、陰鬱な世界ににじり寄り、吸い込まれそうになる。が、なんとかその淵で踏みとどまる。
精神的に参ってしまう人たちは、こんな感じでクルクルと渦の中に飛び込んでしまうのだろう。コロナ禍で、そういう人たちが増加していると聞く。
でも、自分はなんとか踏みとどまってこられた。支えてくれる人たちがいる。家族がある。そして、いつも勇気を与えてくれるボクサーたちがいるからなのだろう。
明日は76回目の終戦記念日。沖縄、広島、長崎。いや、全国各地で空襲被害があった。戦地に散っていった多くの人たちがいる。自分が生まれる、わずか27年前の出来事。今から27年前といえば1994年。ついこの前。そう考えると太平洋戦争は、遠い昔の話などではない。
いつになっても祈り、そして心を強くあらねばならない、そういう日だ。