岡林勇希の超絶プレーへの反応に、長年感じる“ドラゴンズカラー”を見た
※写真は中日スポーツ(8月8日付)より。あんなプレーをして調子に乗らないほうがどうかしてる!
四球、安打、また四球。快投を続けてきた“未来のエース”髙橋宏斗が7回表、突如乱れた。ベンチはためらうことなく“7回の男”清水達也をマウンドへ送り込んだ。
1死満塁。1-0。一打同点、あるいは逆転の場面。投手・フェルナンド・ロメロの代打に送り込まれたのは大和。しつこく粘ることもできるし、小技も利く。こんなとき、相手にとっていちばん嫌なバッター。スクイズへの対応も考えなければならないからだ。
清水は内角へストレート。大和が反応した。
ライトファウルゾーンへの大飛球を、岡林勇希は回り込むような形でキャッチした。フェンス際だったから、真正面からは入れていない。走ってきた勢いが半減する捕り方。バックホームするには充分な捕球体勢も取れていない。いくら強肩のバヤシでも、これは無理だ──瞬時に「同点」の文字が浮かんできた。
しかし、ノーバウンドで放たれたボールは、ホームからやや三塁側へと逸れたものの、木下拓哉の持つミットにぴたりと吸い込まれる。かなり遅れて視界に入ってきた三塁走者・楠本泰史は、回り込むような形でヘッドスライディング。が、ミットに収めたボールをしっかりと握りしめていた木下は、余裕を持ってタッチした。わずか数秒前の崖っぷち状態から、一瞬にして安住の地へ──。4回の捕殺に続く、いや、それ以上のスーパープレーだった。
近所に轟く絶叫を上げたことを、恥ずかしいとも思わなかった。ファンとはそういうものだ。おこがましいが、一緒に戦っている感覚だから。すっかりベンチに入っている気分。雄たけびを上げ、右腕を振り下ろす髙橋宏斗の絵がテレビカメラに抜かれる。当然、同じ気持ち、いや、自分だったらベンチから走り出し、何度もジャンプして喜んでいただろう。
ベンチに控えていた選手たちはその場で立ち上がって拍手。守っていた野手が集まり、グローブタッチを交わす。清水が岡林の頭をグラブでポンと叩き、右手で尻を叩いて労う。ベンチに入っていった岡林は、数名とタッチしながら、大西崇之コーチの元へ。プレーの確認をしている様子だ。十秒たらずの会話が終わり、ふたたび向かって左方向に移動した岡林を、待ち構えていたダヤン・ビシエドが抱擁し頭を撫でる。それが終わると岡林は、ベンチ裏へと消えた。
こちらの感情とは大きな差を感じた。いや、いつもそう。何年も前からそうなのだ。
ピンチを切り抜けた投手を迎える。逆転ホームランを打った打者を迎える。歓迎することはするが、“おざなり”感しか伝わってこない。岡林にとって、あれは「当たり前」のプレーなのか。本人が「当たり前にしたい。いや、そもそもタッチアップを諦めさせたい」と思うのは彼の志向の高さ。でも、同じ選手なら、われわれ以上にあのプレーの凄さはわかるはずだろう。
熾烈な競争社会だ。ライバルの活躍は、自分の出番を失うことを意味する。だから「あいつが出ているときは、打たれろ三振しろと思っていた」という、引退後の選手たちの言葉は迫真に迫る。もちろん、自分が活躍することが第一。でも、チームが勝つこと、優勝すること、日本一になることこそが、さらに自分のプレーヤーとしての価値を高めるのではないか。注目度だって大きく変わる。
歓喜してよいはずの場面ですらお行儀よいドラゴンズのムード、カラーだ。守備でのピンチ、攻撃時のチャンスの場面では、いっそうおとなしくなる。声を出していないわけではない。が、やはり他チームとの“熱量”の違いをまざまざと感じさせられる。自然、重苦しくなる。ピンチを背負っているピッチャーは、「呼吸できてるか?」と問いかけたくなるほどの顔。チャンスのはずのバッターは、まるでピンチを背負っているかのよう。緊張しすぎて、手も足も震えているんじゃないか?というくらい。中には泣き出しそうな表情の者もいる。
ただ観ているだけの傍観者ですら、そう感じてしまうのだ。プレーしてる本人たちは、ものすごい閉塞感、窮屈さを味わっているはず。そもそも、相手が気づかないはずがない。顔や所作を見ただけで「上から目線」になれるだろう。
「単純に技術が足りないから」「自信がないから」「そういうプレッシャーを乗り越えてこそ、選手としての成長がある」。たしかにそうかもしれない。だが、それだけじゃない。プレッシャーのかからない場面では、のびのびとプレーしてるじゃないか。結果を出してるじゃないか。
何のために「チーム」があるのか。「野球も個人競技」という意見も聞くし、それも一理ある。けれども、選手ひとりで勝つことは絶対にできない。「大谷翔平や村上宗隆、山川穂高がいれば勝てる」なんてことはない。
いったい、いつからドラゴンズはこうなってしまったのだろう。遡って考えると、落合博満監督時代の後期だった気がする。いや、決して批判するつもりじゃない。むしろ、あのころの“プロフェッショナル然”とした振る舞いは大好きだし、今でもあの頃のドラゴンズを求めている。でも、当時の選手たちは、それぞれが淡々と、自らの役割に徹し、実際に余りある結果を残していた。井端弘和、荒木雅博の二遊間、英智の外野守備……挙げだしたらキリがない。ビッグプレーを“当たり前”のようにこなし、平然と振る舞う。それがいかにも職人のようで、ドラゴンズファンだけでなく、プロ野球ファンを虜にした。
では、落合監督が「派手なアクション」を禁じていたかと言うとそうじゃない。彼らの年齢も選手としての能力も青かった頃は、いいプレーをすればダイナミックに体で表現していた。選手としてチームとして成熟していくと同時に、冷静さ落ち着きもともなっていったのだ。
表向きの、“そのスタイル”だけが、もう10年以上経つにもかかわらず、いまだ「ドラゴンズカラー」として残っている。亀澤恭平が来て、平田良介を巻き込んで体現していた時代もあったが、あっという間に“カラー”に飲み込まれた。今季も山下斐紹が「ベンチ・キャプテン」認定を受け、シーズン当初こそ大きな声で鼓舞していたものの、抹消から戻ってきたときは、すっかり落ち着いてしまった。
チームの“核”を担う選手が、率先してアクションや声で引っ張る。それがもっとも、やりやすい形かもしれない。だが、大島洋平はそういうタイプじゃない。残念だが、彼にそれを求めるつもりもない。けれども、そういうチームリーダー不在が、ドラゴンズの選手たちを長年覆い包み、じっとりと纏わりついている気がする。のびのびと、相手に向かっていきたいのに、それ以前の足かせのように。
ヒーローインタビューも、申し訳ないが12球団一つまらない。いや、今年から充実している球団YouTubeを見れば、明るくておもしろい選手はたくさんいる。選手どころかコーチやスタッフもだ。けれども、それがいざあの場になると、途端におとなしくなってしまう。「職場では黙して」なのか。そうじゃないだろう。「職場だからこそ輝くべき」だ。やはり、“何か”を気にしているとしか思えない。
「声を出せば強くなるのか」「元気に振る舞えば結果はともなうのか」「そんな精神論は通用しない」。Twitterに要約を書いたら、そういう意見を耳にした。そもそもの“見方”“考え方”が違う。
若い選手が増え、体力も技術も経験もまだまだなのはもちろんわかってる。けれど、前述したとおり、“持っている能力を出せない”精神状態に追い込まれている場面が多いのだ。それを取り払い、良いテンションで相手と向き合ってほしい。そのためには、チームの雰囲気、ベンチのムードの役割が大きいと言いたいのだ。それで結果が出なければ、「相手が上」「未熟」と納得できる。
声の力、体で表現する力。この大きさは、スポーツを経験した人にはわかるはずだ。私が普段、本業としている“個人競技”と思われがちなボクシングでさえ。どんなにずば抜けた能力を持ったボクサーでも、「チームの熱量」がなければ結果を残せない。ドラゴンズも、われわれの目に見えない多くのスタッフの熱で成り立っている。その熱を、現場、当の本人たちが放出しないのは本末転倒だ。
プロ野球は相変わらず縦社会。それを批判するつもりはないけれど、時代は刻一刻と変化している。声や体現の力を他チームから感じることも多くなってきた。つまらなそうにやるよりも、楽しんでやるほうが頭は働き、体も動く。それはわれわれの仕事だってそう。何だってそうだ。その力がわからない人は気の毒としか言いようがない。
見ている限り、放熱したい若手はドラゴンズにも何人もいる。彼らの想いを摘むようなことだけはしてほしくない。何かといえば「戦力が……」というファンが多いが、それこそ“逃げ”にしか思えない。今のメンバーだって、選ばれし才を持って集った者。プロ野球の世界に入った瞬間から“横並び”なのだ。
そんな彼らの精神にプレッシャーを与え、プレーを小さくさせ、普通の選手に終わらせる。こんな悲しい結末を繰り返してほしくない。どんどん調子に乗って、村上や山川を越えてほしい。調子に乗ること、失敗をすることは若者の特権だ。そして、調子に乗った若者が見せる信じられない力を、私はこれまで何度も目にしてきている。
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