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「フジテレビ10時間会見」に元記者が思う 心理的安全性と職業意識|ちゅん
「残念な会見」と感じたわけ
世間の耳目を集めた、フジテレビジョンおよびフジ・メディア・ホールディングスの「10時間会見」。私も元新聞記者のはしくれとして、ほぼすべてのやり取りを見ました。
さまざまな論点が浮かび上がる会見でしたが、会見の発端となった「タレントの女性トラブル」および「フジテレビのガバナンス・社風」のほかに、大きく注目されたのが「質問する記者の質」だったのではないかと思います。
今回はもともとの問題とされていた「タレントの女性トラブル」および「フジテレビのガバナンス・社風」ではなく、あのような場で手を挙げ、名乗って質問をする記者という職業を通じて「働く環境」について書いてみたいと思います。
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元記者として、会見の率直な感想は「すごく残念」でした。フジテレビの回答や会見の仕方に対してではありません。「記者」という仕事に対して、ネガティブにとらえた視聴者が多かったのではと思ったからです。
観点としては2つあります。
1つは、まさに「記者の質」で言い表される、職業に就いている人たちのイメージ悪化です。
「質問ではなく自説を長々と話してしまう人」や「必要以上に強い態度や言葉で話す人」がいたことで、「記者は高圧的」というイメージを持たれたのではないか。要領を得ない質問、回答済みのことに対する再質問が少なからずあったことで「論理的な質問をできない」といったイメージを持たれたのではないか。
Xでは「記者の質」や「記者のレベル」といった言葉がトレンド入りしたそうなので、上記のような印象を持った方は少なからずいたのだと思います。特定の方についてはコメントしませんが、この点は私も少なからず感じました。
このポイントについては、会見後、いろんな場面で論じられていましたが、個人的にはもう1つ、残念に思ったことがあります。それは「記者が委縮したり、記者のなり手が減ったりしそうだな」と感じたことです。
今回の会見では、質問前に媒体名と名前を記者が名乗ることが徹底されました。それゆえネットでは、特定の記者の名前を出して批評する書き込みがあふれかえりました。中には誹謗中傷の範囲に入るものもあったように感じます。
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こうした注目の会見では、壇上にいる「回答者」だけでなく質問者側である記者も「世間からの評価の対象になる」ということを、多くの人が目の当たりにしたと思います。
記者への賞賛もありました。しかしそれ以上に、下手をすれば「批判の的になる」という事実が突き付けられたのではないでしょうか。
有意義な質問をするのは記者の責務。だが
もちろん、記者という職業において「質問する」というのは業務の根幹です。また媒体名や名前を名乗るのは、回答者に対する礼儀という面もありますが、「ペンの権力」を行使する者として避けてはならない場合もあると思います。
「可能な限り名前を明らかにして有意義な質問をする」。そのために必要な準備をするのは記者の責務でしょう。
しかし、記者も人間です。
ネットで中継されているような会見で「変な質問やふるまいをしたら、ネットで何を言われるか分からない」となると、委縮してしまうことは考えられるでしょう。特に経験が乏しい記者などは自信を持ちにくいと思います。
自分の媒体で記事を書くために必要なことは聞かざるを得ないでしょうが、「微妙な問題はほかの人に任せよう」「自分はこの件に詳しくないから、手を挙げるのはやめよう」といった心理が働いたとしても、おかしくはありません。
挙手して質問をするというのは、少なからず勇気の要ることです。
学校で、会社の会議で。大勢の目があるところで質問するとき「変なことを聞いたらどうしよう」といった不安を抱える人は多いと思います。
今回の会見で「変なことを言うと、こうやってネットで晒されるのか」と感じた記者は少なくなかったのではないでしょうか。商品として完成した「記事」や「動画」ならともかく、その前の段階の「質問の仕方」「ふるまい」についても批判の対象になる。そのことが、まざまざと見せつけられた事例でした。
心理的安全性が担保されない環境が増えた
近年、ダイバーシティの観点から職場での「心理的安全性」が重視されるようになりました。
この記事でも言及されていますが、心理的安全性とは
「心理的安全性とは、大まかに言えば『みんなが気兼ねなく意見を述べることができ、自分らしくいられる文化』のことだ」
とされています。主に、所属する組織内の文化を評価する際に用いられる考え方ですが、もちろん所属組織以外について適用することもできます。
インターネット中継がされている中での発言は、当然ですが心理的安全性が高いとは言えません。だからこそ集中し、最新の注意を払って発言・行動する必要がありますが、その状況がかなりストレスフルなのも確かでしょう。
「権力を監視する記者は、そのくらいの覚悟を持つべきだ」という声もあると思います。しかし、この「ネットに晒される恐怖」は何も記者に限ったことでもありません。
誰もがいつでも、スマートフォンで録画・録音できる世の中です。
公的機関、学校現場、企業のSNS運用担当、問い合わせ窓口、流通サービス業での接客。「正しさ」や「質の高さ」は社会の隅々で求められるようになり、「逸脱者」のレッテルを張られた瞬間にいつ、自分の画像や名前が悪意を持って晒されるとも限らないようになりました。
「良かれと思って、マニュアルから外れたことをして、思わぬクレームになった」
「専門知識を持った顧客に問い詰められ、有効な返事ができなかった」
自分に悪意や覚悟がなかったとしても、そんなことは起こり得ます。そんな様子が録画され、実名とともにネットにアップされる可能性があるとしたら。疑問を感じることがあっても、とにかく問題となることを避けるために、あえて口に出さないということはあり得るでしょう。
「心理的安全性が担保されない環境」は、残念ながら増えているのだと思います。
心理的に安全でない環境で、働きたい人はまずいない
心理的安全性が高く、「素朴な質問」や「そもそも論」などが提起されやすい集団は、「同質的な集団では気づきにくかった観点に気づきやすい」と言われます。
ビジネスの場面でも、そうした前提を疑う姿勢がイノベーションにつながったり、マイノリティーに対する配慮につながったりといった効果があるとされます。
批判された記者も多くいたフジテレビの会見ですが、原則として「それぞれの記者がそれぞれの問題意識を遠慮なくぶつける」というのは、とても大事なことだと思います。そこから重要な論点が、新たに浮かび上がってくることも往々にしてあるからです。
メディアの影響力が大きくなればなるほど、媒体の記者にはより高い職業意識が求められます。そのこと自体は、今も昔も変わらないでしょう。
ですが自分自身の経験を振り返っても、駆け出しの頃には、数多くのピントのズレた質問をしたものです。恥をかいたり、取材先に教えてもらったりしながら、質問の質も職業意識も高まっていったように思います。
今なら、もし自分が変なことをしてそれがあげつらわれても、「仕方ない」と思える部分もあると思います。実績が、ミスの盾となってくれるからです。しかしもし若い頃の変な質問を中継され、非難を浴びるようなことがあったら、そのまま記者を続けられたかは分かりません。
もし今、自分が若い頃よりも個々の記者が非難にさらされやすくなっているとしたら、それは守る仕組みがあってしかるべきだと思います。
上で紹介した書籍から、もう1か所、引用します。
「心理的に安全でない環境で好んで仕事をしたいと思う人はまずいない」
渦中のフジテレビ社員にとっても、記者にとっても、当てはまる言葉だろうと思います。