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教養への誤解が哲学を墓に埋める~現代的リベラルアーツ論

「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒し、自然態で生きる人を増やす」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。

御覧いただき、ありがとうございます。

さて、最近、ある勉強会の場で、リベラルアーツについてのお話があったのですが、そこに参加されていた方の感想で、いくつか気になることがありました。

もともとのお話としては、過去の様々な思想家や人文社会系の研究者の様々な理論や説を紹介して、これらが現代のわれわれにいかに役立てるか、といったようなお話だったのですが、そのお話への感想が、「自分は知識がないので難しかった(消化しきれなかった)」「自分は教養がないので知らないことばかりだった」というような声が多かったように感じました。

ちなみに自分の専門は社会学ですが、大学のときの学部は哲学科であったこともあり、ちょっとこれらの声に反応して、リベラルアーツとは何か、というお話をコメントとしてさせていただきました。

その話が割と整理されていたので、書き残そうと思って、この記事を書いています。


そもそもリベラルアーツとは何か?

まず整理しておきたいのが、そもそも「リベラルアーツとは何か?」ということです。

桜美林大学の整理がわかりやすかったので引用しておきます。

リベラルアーツを知る

古代ギリシアで誕生した人間を束縛から解放する知識で、 専門の学科や職業課程とは区別されるもの。 リベラルアーツとは元来、人間を良い意味で束縛から解放するための知識や、生きるための力を身につけるための手法を指します。古代ギリシアで生まれたこの概念は、やがて古代ローマに受け継がれ、言語系 3 学(文法・論理・修辞)と数学系 4 学(算術・幾何・天文・音楽)で構成される自由 7 科(セブンリベラルアーツ)に定義されました。 その後、17 世紀のイギリスを経てアメリカに継承され、現在のアメリカのリベラルアーツ・カレッジでは少人数制による基礎的な教養と論理的思考力の習得に重点を置いています。

https://www.obirin.ac.jp/academics/arts_sciences/what_is_liberal_arts.html

イギリスの場合については、こちらの記事がわかりやすかったです。

イギリスが中等・高等教育でエリートを養成してきたのは、階級社会であることに起因します。階級制度は歴史とともに変化してきましたが、階級意識や貴族制度は根強く残っています。貴族や上流階級で、パブリックスクールからオックスフォード大学へ進むのがイギリスの典型的なエリートであるという図式は現在でも変わっていません。

かつて貴族階級のエリートの仕事は「統治」することでした。役人や政治家として国内を治める、あるいはイギリス東インド会社を通じた植民地統治などを行う。そのためにはまず自国や現地の歴史、文化を知っておくことが欠かせません。歴史の知識は哲学と結びつくものですから、まず歴史と哲学が基本として学んでおくべき素養でした。政治や経済はその次にくるもので、哲学を源流としつつ、より実務に近い学問という位置づけです。そのため近代以降も、それらを総合的に学ぶことがエリート教育の基本として重視されているのです。

https://www.foresight.ext.hitachi.co.jp/_ct/17293196

イギリスという国の成り立ちを見れば、もともとはケルト人が住んでいたところに、中世にゲルマン民族のアングロサクソン諸部族が入り込み、建国した国です。文化的ルーツをたどればギリシアやローマに行くわけではないのですが、自分たちの歴史の正当性を担保するためにも、エリートが歴史や哲学を学ぶ、ということが重視されたようです。

アメリカの場合については、こちらの記事がわかりやすかったです。

このハーバードカレッジも最初は牧師の育成が目的でした。上述のとおり、神父がいないのが常態化していたこともありましたし、そもそもの大学の存在意義は神学の研究だったからです。

1640年、ケンブリッジ大学の卒業生でヘンリー・ダンスター(Henry Dunster)という人物がハーバードカレッジの学長に就任します。彼は2年制のリベラルアーツコースというものを始めます(カレッジ自体は3年制)。もともとは、神父養成のコースだったのですが、ダンスターは法学や、哲学、物理学、数学といった本も持ち寄り、幅広い学問への関心も高めます。

さらにダンスターは後に、学部を4年制に変えたり、カリキュラム策定をするなど、ハーバード大学の原点を作っていきました。

ちなみに、ハーバードがCollegeからUniversityへと名前を変えたのは1780年です。リベラルアーツカレッジという意味合いで、ずっとカレッジという言葉が使われ、いまでもそのニュアンスで学部生たちは、Students of Harvard Collegeと自分たちを呼んだりします。

牧師養成からリーダー養成へ
しかし、本国を離れ、新大陸を開拓していく入植者たちにとって、神学といった精神世界よりもひっ迫した課題がありました。これからの村、町、国をどのように作っていくのか、そして、それを牽引するリーダーをどのように育成するのか、という新大陸ならではの課題です。

このような背景もあり、アメリカの教育が徐々に「リーダー育成」という観点に切り替わっていったのです。

そして、この時、Dunsterのリベラルアーツコースが「リーダー育成」という新しい命題と遭遇することになります。結果、リベラルアーツという名の下で「リーダー育成」を課題とした教育が進められることになったのです。

その後、ニューイングランド以外の植民地もこの教育をモデル、ライバルとして追随します。そして、1693年にウィリアム・アンド・メアリー大学(バージニア)、1701年にイェール大学(コネチカット)と続いていきます。

リベラルアーツで求められたリーダー像
さて、ここで重要になるのがアメリカにおけるリーダー像です。

リーダーですから、政治、経済はもちろんのこと、多種多様な分野に見識があり、バランスのある教養を持ってなくてはいけません。教養と言っても、ただ単に知識があるだけではなく、その中で人と議論をし、多角的な視野で諸課題に取り組み、クリエイティブに発想する力が求められます。一方で、当然人間性に優れ、人を引き付ける力も必要になります。

一言でいうと「教養と人間性に優れたリーダー」と言えます。そして、そのような人材を輩出することが高等教育のミッションになったのです。

こうやって、近代アメリカのリベラルアーツ教育は、フロンティアスピリッツの中で「広い教養と優れた人格を持つ人材の育成」というテーマで書き換えられ、その素養を身に付けるための教育として始まったのです。

http://www.maxclassroom.net/21edu/page03_03.html

ちょっと長くなりましたが、注目したいのは、こちらはリーダー教育である、ということと、「ただ単に知識があるだけではなく、その中で人と議論をし、多角的な視野で諸課題に取り組み、クリエイティブに発想する力」を養うために、リベラルアーツが始まった、ということです。

そしてその素材はやはり、歴史のないアメリカですから、ギリシアやローマの古典を学ぶ、ということが中心になっていったのですが、これは先述のイギリスのプログラムを取り入れたからなのでしょう。

教養は知識ではない

それでは話を教養に移していきましょう。名古屋大学の新入生向けのコンテンツの中のコラムがわかりやすくまとめてありましたので、こちらも引用してみます。

 ところで、「教養とは何か」ということについては、いろいろな解釈があります。もともと教養教育を意味するLiberal Artsは、近代大学のルーツといわれる中世ヨーロッパ大学においては、聖書を読み解くための能力(論理、修辞、文法)と神の摂理による自然現象を理解するための能力(天文、算術、幾何、音楽)から構成されていました。つまり教養とは、キリスト教世界において「神につながる」力を意味したのです。

 ドイツ中世史の研究者である阿部謹也氏(元一橋大学学長)によると、12世紀にヨーロッパで都市が発展したときに、都市の一部の人々が「いかに生きるか」を考えるようになったことが教養の始まりだと述べています。都市にさまざまな職業が発生して、それまで当然とされてきた父親の仕事を継ぐことから解放されて、自分の力で「いかに生きるか」を考える人々が出現しました。彼らは古典語(ラテン語)を駆使して「いかに生きるか」に思いを巡らしました。教養とは古典語に精通することでもありました。

 科学哲学者である村上陽一郎氏(国際基督教大学教授)は、教養とは高等教育を受けたかどうか、難しい本をたくさん読んだかどうかではないと言います。村上氏は「規矩」(きく:ものさしのこと)という言葉を使って、生きていく上で価値判断の基準となる自分なりのものさしを持っている人のことを教養があると表現しています。

 数学者でエッセイストでもある藤原正彦氏(お茶の水女子大学教授)は、人間にとって最も大事なものは論理ではなく情緒であり、国語力(つまり日本語の能力)であると主張し、アメリカ型の合理主義や英語万能主義に警鐘を鳴らしています。このように、教養の意味は時代によって、国によって、人によってさまざまに定義されてきました。あなたはどう思いますか? ぜひ、大学時代にたくさん本を読んで、教養とは何かについて考えをめぐらせてみて下さい。

https://www.cshe.nagoya-u.ac.jp/nu_stips/st02_col.html

さて、ここで、リベラルアーツと教養がつながりました。このコラムでもいろいろな定義が書かれていますが、無理やりに共通項を探すと、自分がどのように生きるべきか、ということに答えを得るために学ぶこと、ということが言えそうです。

ここまで話してきて、最初の「自分は知識がないので難しかった(消化しきれなかった)」「自分は教養がないので知らないことばかりだった」という言葉への違和感の正体がわかったような気がします。

つまり、昔の誰々が何を言った、という情報を知っているか知っていないか、ということは、この教養やリベラルアーツの目的から言って、意味のないことである、ということです。

教養やリベラルアーツにとって重要なことは、今、あなたが自分の生き方に照らして何を思い、何を考えたか、であって、そのネタになっているものを知っているか知らないかはどうでもいいのです。しかし、なぜか日本の教育を受けた人は、知っているのがいいこと、知らないのは良くないこと、と思ってしまう。ここに問題意識を持った方がいいのでは?と思ったのです。

古典を学ぶのではなく、古典から学ぶためのテクスト論

この問題を払拭するためには、まずは、テクスト論という考え方を知らなければなりません。

これもわかりやすくまとめている記事がありましたので引用してみます。

まず、テクスト論の定義を確認しましょう。テクスト論とは、

書かれてある言葉に注目し、テクストを多様に解釈していこうという立場

を指します。

「テクスト論の考えなんて当たり前じゃない?」と感じる人もいると思いますが、日本の文学研究では1980年代ごろまで主流な考え方ではありませんでした。そこで、まずはテクスト論が何を意味するのかを簡単に説明します。

そもそも、文学の読み方はさまざまです。人によって同じ文章を読んだとしても感じ方が違ってくるのは当たり前です。

しかし、同じ文章を読むことですべての人が同じような感情を引き起こすというような「神話」を抱いてしまったりもします。意外にもそのような考え方は今なお強いといえるのではないでしょうか?

https://liberal-arts-guide.com/the-theory-of-text/

考えてみましょう。古代ギリシアやローマの古典が書かれているのはギリシア語やローマ語です。その言葉の意味を本当に理解するためには、その時代に存在していたものを知らないと完全に理解することは難しいでしょう。従って、良くも悪くも私たちは、自分たちの常識に照らして古典を読むことになります。そこで解釈が入ることになります。

さらに、多くの場合、私たちは翻訳されたものを読むことが多いでしょう。それは、例えばラテン語から英語に翻訳され、それがさらに日本語に翻訳されたりしています。そうなると、誰かが解釈したものにさらに解釈がされ、それを解釈する、ということになります。そこに正しく著者の意図が理解できているかどうか、という問いを立てても、これは確かめようのない問いになってしまいます。

実際には、私たちは既に当たり前に「テクスト論」的な立場を受け入れています。例えば、国語の問題で、「作者の意図を答えよ」という問題は、出題側も回答側も、この「テクスト論」の立場に立たないと成立しません。

極論を言えば、既に文字と化してしまったものは、誰がどんな風に読もうと自由なわけです。その前提に立つと、結局、リベラルアーツにとっても教養にとっても、あるテクストを読んで何も思い、何を感じたのか、ということが重要であり、そのテクストについて知っているか、知っていないか、ということを言うのは、そもそも意味のないことである、ということができます。

ですので、これまた極端な話、リベラルアーツは別に古典ではなくても、漫画でも絵本でも成立する、ということが言えるのではないか、と思うのです。

間違った教養感が哲学を殺す

さて、リベラルアーツや教養の目的について考えていくと、自分はどう生きるのか、ということを自分で考えるためのヒントとして、様々なテクストを使っている、という本来の姿が見えてきます。

しかし、世の中にはまだまだ、教養=知識である、と思っている人も居て、知識の量のあるなしを、教養のあるなしと思ってしまっている人も多いような気がしています。

私が大好きな本に、鷲田清一さんの『聴くことの力』という本があるのですが、この本の中で、鷲田さんは、「哲学はこれまでしゃべりすぎてきた」とおっしゃっています。

哲学者が何かを思い、それを文字化するのは、まあ、お仕事なので、哲学者を責めるのは間違っているとは思いますが、古典から始まり、いろいろなことを言っている間に、いわゆる市井の民にとって、哲学が難しい、よくわからない、と思うようになってしまった、そういう問題意識を鷲田さんは持たれていると思います。

結果として、例えば、理系の科学者であっても、社会に影響を与える存在になるのであれば、その根底には、人とは何か、幸せとは何か、人の倫理とは何か、といった、哲学的な問いを考えておいて欲しいわけです。しかし、現在の教育はそうなっていない。その結果、人や世界を不幸にする科学の発展が起こってしまうかもしれない。そういう危機感です。

教養=知識、と考えると、知識が多い人が教養がある人、になってしまう。実際には、様々な人の考え方に触れ、自分なりに、生きるとはどういうことなのか、自分はどのように生きるのか、といったことを考えて、大人になるまでに何らかの答えを自分の中に持っておいて欲しいわけです。それが教養であり、様々な哲学者もそれをやってきたわけですし、哲学者の価値は、人々が自分で考えるきっかけを作ることにあるのです。そのとき、まさに古典であっても、哲学が生きている、活動している、活躍している、と言えるのです。

しかし、哲学者の言っていることってよくわかんないよね。難しいよね。自分は教養がないからわかんないや。となったらどうでしょう。この時、哲学者の言っていること、書いている文字群は意味を成さず、重い固い書籍という棺桶に閉じ込められ、図書館の奥や古本屋の隅といった墓場に、そっと埋められることになります。哲学の死、というのはまさにこういう状況です。

今こそ、哲学の復活が必要なとき

大学生と接していても思うのですが、現在のわれわれのまわりには、ものすごくたくさんの情報が溢れています。すべての情報をキャッチすることなど、とてもとてもできそうにありません。それでは断片的な情報からどのように世界を判断していくのか、ということを問われることになるかと思うのですが、そのとき、重要になってくるのが、自分の中での哲学的な対話の経験です。

人とは何か、社会とは何か、自由とは、愛とは、正義とは、、、、、

こういったことをあらかじめ考えていない人は、容易に他人の言説に自分の思考を流されてしまいます。さらには最近ではAIも誰でも使えるようになっています。私は大学生には、AIは使ってもいいけど、AIに洗脳されないように、とよく言っています。自分の考えとは合わないけど、AIのアウトプットの方が賢そうだから採用しよう…としていると、いつまでたっても教養ある人間にはなりません。そうするとAIにも人間にも、いいように使われる人になってしまうかもしれません。

最後に大事なことなので繰り返しますが、教養というのは古典について、あなたが知っているか知っていないか、が問題なのではありません。古典で書かれていること、言われているとされていることに対して、あなたがどう感じ、何を思うか、ということの方が重要なのです。そこに正解はありません。ただ、あなたがあなたとして生きるとはどういうことなのか、そのスタンスを明らかにした方が、あなたが幸せに生きることができるのではないですか?と哲学は問うているのです。これが、哲学を生かす、ということだと思うのです。

現場からは以上です。お読みいただき、ありがとうございました。
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市井カッパ
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