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なぜ人はラーメンを頻繁にSNSにアップし、語ろうとするのか

##このテキストは、尾藤がGPT4-oとのやり取りを通して、最終的にGPT4-oがアウトプットしたテキストに、尾藤が最終的に手を加えたテキストとなっています。



ラーメンを語ることの魅力

この間「多くの人がラーメンをSNSにアップするんだけどなんで?私はどっちかというとカレーの方が好きなんだけど」というつぶやきをみました。これはなかなか考えさせられる問いですね。いわれてみればなんでなのでしょうか?私自身もラーメンもカレーもどちらも大好きです。そして、どちらも同じように国民に人気のある食べ物です。ただ、食べる頻度でいうなら、私は年間200杯程度ラーメンを食べますが、カレーを食べる頻度は30杯程度でしょうか。それでもその頻度の問題だけでもないような気もします。例えば、私が下北沢に住んでいたのなら、週に一度カレーの写真をSNSにアップしているかもしれません(神保町に住んでいたとしてもそれはないでしょうね。あ、このことも何かしらのヒントかも)。一方で、ラーメンは、少なくとも関東圏に住んでいるならどこに住んでいても「オレが今日食べたラーメン」を撮影し、SNSにアップしてそれを語る欲求を持ち続けることができそうです。

SNSが私たちの日常の記録媒体として機能する中で、食べ物はその主要なテーマの一つとなっています。そしてその中でも、ラーメンは特別な地位を占めています。単に「美味しいものを食べた」という記録を超え、ラーメンを食べる行為は、多くの人にとって「人生の旅路の中で発見し、語り、体系化する楽しみ」の一環となっているように見受けられます。
ラーメンを食べる行為が、なぜ他の料理以上に人々の「語りたい欲求」を刺激するのか。それは、ラーメンという料理が持つ特性と、現代人の情報消費や共有文化との親和性にあります。しかし、そこにはさらに深い動機があります。ラーメンを食べることは、その一杯を個別に楽しむだけでなく、自分の中に「ラーメン体験の系譜」を構築していく行為でもあるのです。そしてこの系譜が豊かになればなるほど、ラーメン愛好家はその体系化された知識や感覚をさらに楽しむようになります。



ラーメンを食べる行為が「系譜の構築」につながる理由

ラーメンは、一杯一杯がユニークな存在です。スープの種類(醤油・塩・味噌・豚骨)、麺の太さや硬さ、トッピングの組み合わせ、さらには提供される器や店の雰囲気まで、そのすべてが「その瞬間にしか味わえない特別な体験」を形作ります。このような一杯一杯の違いが、ラーメンという料理を単なる「消費物」ではなく、「個別の体験」として記憶に刻み込ませるのです。
さらに、ラーメン文化の豊かさは、地域性と進化の速さにも起因します。たとえば北九州地区だけを見ても博多豚骨、熊本豚骨、久留米豚骨といった多様なスタイルが共存し、それぞれに固有の味わいと哲学があります。一方で、首都圏では醤油ラーメンが進化を続け、新しいトッピングや製法が次々と生み出されています。これらを食べ歩き、比較し、記憶することで、ラーメン愛好家は自分の中に一種の「ラーメンの地図」を構築していくことができます。
この「地図」を広げ、より精緻にしていく過程そのものが、ラーメンを食べる行為の喜びの一部なのです。ワインの世界で、愛好家がテロワールやヴィンテージを比較しながら系譜を語るように、ラーメン愛好家も一杯ごとの微細な違いを楽しみ、自分の中のラーメン観を更新していくのです。
地図を描き、それをリッチな人生体験の中に落とし込めていく上では、何らかの指標があるとわかりやすいです。ラーメンの強みは、その指標が共通言語として認識され、さらにそれが複雑に体系化されていることにあると思います。例えば、それは以下のようなものです。

・    ジャンル:醤油、塩、味噌の3台ジャンルの他、担々麺系、家系、二郎系、ニューウェーヴ、ちゃん系、油そばその他スープオフなどなど。たくさんのジャンルを持ちながらもそのジャンルは並列に並んでいるのではなく、複雑なサブグループを形成しています。
・    スープのベース:鶏(さらにこの中でも鶏ガラと丸鶏)、豚、魚介(この中はとても多様で、煮干し系のような突出したものもある)、野菜、さらにはダブルスープ、トリプルスープなどについて分析する座標軸が設定されています
・    麺の種類:太さ、ちぢれ、加水率、製麺機の使用の有無、グルテン保有率、かん水保有率、製麺所か自家製麺か。これらを分析しながら主観的な体験としてラーメンイーターは自らの血肉としていきます。
・    地域:喜多方、和歌山、佐野、飛騨高山など、もはやそれぞれの地域がしっかりとしたご当地の個性をもち地図を展開しています。さらには和歌山の中でも車庫前系と井出商店系にジャンルが解れるなど、勉強の深みに事欠きません。



ワインと比較したラーメンの「手軽さ」と普遍性

このような「系譜の構築」という行為は、本来、ワインのような特権的な世界でしか体験できないものでした。ワインの場合、産地、ぶどうの品種、気候、作り手の哲学などが複雑に絡み合い、それぞれのボトルが個別の物語を持っています。ワイン愛好家は、この物語を楽しむために相応の経済力を必要とし、多くの場合、一般消費者には手の届かない世界と見なされがちです。
一方で、ラーメンはそのような「特権的な体験」を非常に手軽に提供してくれる存在です。1杯あたりの価格は平均して1000円以下であり、日常的な経済状況であっても年間200杯程度の食べ歩きが可能です。この「日常性」と「特別感」の両立が、ラーメンを他の料理や嗜好品と一線を画すものにしています。
さらに、ラーメンは家庭料理ではなく外食文化として成立しているため、「特別な一杯」としての意識が自然に芽生えます。この意識が、SNS投稿という行為を通じて「体験の共有」と「知識の体系化」を促進するのです。ラーメンの手軽さが、多くの人々に「系譜の構築」という高度な楽しみを提供する可能性を開いている点は特筆に値します。


ラーメンを語ることが人々に与えるもの

ラーメンを食べるという行為が、単なる「食事」を超えたものである理由は、その体験を通じて人々が自己表現を行い、他者との関係性を再構築する点にあります。

・    自己のラーメン観を育てる楽しみ
ラーメンを繰り返し食べ歩く中で、人々は自分自身の中に「好み」や「価値観」を発見し、それを育てていきます。たとえば、ある人は「濃厚な豚骨スープが好き」と気づき、別の人は「魚介系のあっさりしたスープがいい」と感じるでしょう。これらの発見が積み重なることで、「自分だけのラーメン観」が形作られていきます。
このプロセスは非常にパーソナルでありながら、他者と共有されることでさらに豊かになります。SNS投稿は、この「自己のラーメン観」を他者と比較し、修正し、洗練させるためのツールとして機能します。一杯のラーメンを語ることで、投稿者は自分の体験を振り返り、その体験を他者に伝えることで再確認しているのです。

・    他者とのつながりを生む体験
ラーメンを語る行為は、単なる自己表現にとどまりません。同じ店のラーメンを食べた人々がSNS上で共感し合ったり、異なる店のラーメンを食べた人同士が「次はここを試してみたい」と情報交換を行うなど、新たなコミュニケーションが生まれます。
こうした「つながりの再構築」は、特にSNS時代において重要な役割を果たします。ラーメンの多様性や地域性が、共感や発見の対象となり、投稿者と閲覧者の間に新たな関係性を生むのです。



カレーやうどんとの比較を再考する

ラーメンが持つ「語りやすさ」と「体系化のしやすさ」を考えると、同じく日本人に愛されるカレーやうどんがなぜラーメンほど語られないのかを再検討することが必要です。特に、カレーとの相違点について言及します。

・    カレー:オリジナルの強さと、ジャンル間の質的な距離感
カレーも、ラーメンと同様ネパール、南インド、北インド、タイをはじめとする国外に起源を持ちながら、日本独自の進化を遂げた料理です。さらには、日本人が大好きな料理という意味ではラーメンと比較してもそん色はないでしょう。私はよく自分の人生最後の10日間のメニューについて考えたりするのですが、その中でたぶんラーメン3杯くらいリストします。同時にカレーも3杯くらいリストします。たぶん必ずその中にはココイチのパリパリチキン2辛チーズトッピングと、神保町エチオピアの豆カレーはリスとオンします。しかしながら、カレーを食べ続けることによってラーメンのように一つ一つの体験を自分の人格に落とし込んでいくことは結構困難なのです。
一つは、家で食べるカレーと外食で体験するカレーとの間の距離感です。ラーメンマニアはスープを自作したり、麺とスープを別々にアレンジして自分だけのラーメンを自宅で作ることを大概やっています。これは、例えば「チャルメラ」の袋めんをベースにして、キャベツとバイエルンソーセージのスライスをペットで炒め、仕上げに大量のオリーブオイルを投入する、みたいなオリジナルの食べ方をん地上的に行っている人はたくさんいます。そして、それは行れる点で食するニューウェーブ系のラーメンとほぼ同質・並列の分析の中で自分の中に位置づけることが可能なのです。
一方、カレーについてはそれは大変困難です。市販のカレールーではなく、カレー粉+出汁+自分好みのスパイス調合をする生活者、あるいは、カレーの具にサバや麩やキノコなどを使い、自分オリジナルのカレーを作ることを日常の中に落とし込めている人は相当な料理マニアと言えるでしょう。大体は市販のルーがベースであり、そのベースを自分好みにいろいろアレンジするのは実に困難です。さらには、例えば「ネパリコ」で提供されるターリーの中にある4種のカレーと、自宅でいつも食べているカレーを同質のものとして語るというのはちょっと想像できない、という部分があります。
2つ目には、外食として体験するカレーのジャンルが、「自分の中の主観的体験としての地図と系譜」として落とし込んでいく上で、それぞれの距離が遠すぎる、という特徴がカレーにはあります。先ほどの「ネパリコ」のターリーと、神保町「ボンディ」の欧風カレーの間にある距離感はちょっとつなげようなないのです。一方「二郎三田本店」のラーメンと、二子玉川の「鮎ラーメン」とは、一見遠いように感じられますが、その二つの間には様々な比較対象物の関係性でつながっているため、自分の中の世界観としてはしっかりとその同異性を語ることが可能なのです。おそらく、ラーメンはこれだけ多様な世界の広がりを見せているにもかかわらず、なんだかんだいってもドメスティックな根元(来々軒のような)があって、そこから広がっていった食の系譜であることに対して、タイカレー、北インドカレー、南インドカレーなどは、その国のオリジナルの個性が強力に存在していて、それらとココイチを比較すること自体そもそもリンゴとみかんを比較しているような感じになってしまう、ということがあります。最近ポピュラーになってきた、おそらくは南インド系のスパイスミックスを紀元とし、梅田や下北沢で体系化が進んでいるスパイスカレーや、札幌のスープカレーなどは、そこだけ切り取ればラーメンに近い特質を持っている気がしますが、まだそれだけで世界観を作り上げるような成長を遂げていません。何よりもタイやインドから輸入されたオリジナルカレーのレシピが我々日本人にとってもおいしすぎるので、実は全然異なる料理である各国のカレーの全体領域を乱暴に「カレー」としてしまうこと、さらには日本でたこつぼ的に成長した「欧風カレー」と、ココイチやゴーゴーカレーのように突発的な形で出現し世界にインパクトを与えた「日本のカレー」と、梅田・下北沢系のニューウェーブである「スパイスカレー」との間に世界観を構築するにはちょっとまだ相当な時間がかかりそうです。

・    うどん:讃岐王国の強さがもたらす反作用
うどんもSNSで語る人は決して少なくないですが、ラーメンに比べるととても少数派です。その強力な理由として、讃岐うどんの絶対的な権威があることと、讃岐地方のうどん世界観が持つディープさの魅力に他の稲庭、伊勢、福岡、大阪などの世界が太刀打ちできないことがあるからだと思います。確かに、讃岐うどんの世界はラーメンにとても似ていて、一般店からセルフに、さらには製麺所系に自分の人生体験を深めていく(ここは、広げていくというよりは深めていく、という表現がよいですね)のはまさに「沼」であり、その沼にはまる人は後を絶ちません。ラーメンよりもアレンジのふり幅が極端に狭いため、その分「沼」の深みもまた深いのです。しかしながら、その世界観を日常として体験するためには、もう香川県に引っ越すしかないのです。少なくとも関東地方でその深さを日常的に体験することは不可能で、年に1-2度長い休みを取って香川に浸る、というやり方しか方法論が存在しない。ここが最も翁違いです。あとは、ビジュアルが似通っているのでSNSで自分自身の体験を画像に載せていく上での制限などがあるかもしれません。



ラーメンの系譜を構築する楽しみ

ラーメンを食べ歩く中で、人々はその体験を自分自身の知識や価値観として吸収し、それを他者と共有することでさらに豊かなものにしていきます。このプロセスこそが、ラーメンをSNSで語る行為の核心にあるのです。ラーメンという料理は、その多様性と手軽さによって、「特別な体験の普遍化」を実現しているといえるでしょう。
SNS時代において、一杯のラーメンを食べるという行為は、単なる食事ではなく、自己表現とつながりの再構築を可能にする、深遠な文化的体験なのです。


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