コロナ禍と認知 その8 「コロナ禍においても会食を止められない私の状況」を当事者研究する
最初に言い訳がましいことを書いておきますと、今回のテキストは「この非常時になんてのんきなことを言っているのだ」と怒られそうなくらいにのんきな内容です。ただ、ここ数週間で感じるひりひりした感情の石つぶてに対する中和のような感覚から沸き上がったテキストかと自分では理解しています。
さて、我が国でも新型コロナウィルス感染症をめぐる状況がのっぴきならない感じになってきました。私の勤務する病院は当該区の「新型コロナウィルス感染症診療指定センター」ですので、おそらくマスコミで流れるニュースの1週間くらい先の状況を肌感覚で感じることができるのですが、まあ世の中えらいことになっています。そして、感染症そのものも深刻なのですが、同じようにいよいよ深刻だと感じていることがあります。それは、人々が「正しいこと/不正なこと」「する/される」にどんどん心を奪われて行っているような状況です。
このようなことはTwitterなどのオープン系SNSでは今に始まったことではないかもしれませんが、私は熱心なTwitterユーザーではないのであまりよく実感できていませんでした。よりクローズなSNSであるFacebookでは、基本スレッドに登場するテキストは「お友達」たちのテキストなので、あまり「正しいこと/不正なこと」「する/される」談義でぎすぎすするようなことは見られなかったのですが、東京都の感染者が1000人を超えるようになってからなんだか雲行きが怪しくなってきました。そして、特に昨年末からはスレッドに「正しいこと/不正なこと」「する/される」に関するテキストが、小さくない陰性感情とともに結構目立つようになってきた印象です。その傾向に一番火をつけたのが、政治家の皆さんのわりとアンビリーバブルな会食行動のニュースだったと思うのですが、やはりそこには「FB友達」の多くも医療専門職なので、プロフェッショナリズムとか責任ある行動とかの琴線に触れたのだと思います。
世に蔓延した「会食系ニュース」をぱっと聞いた感覚ですと、確かに私の周りの環境(コロナ診療している病院職員達の環境)からはとても逸脱した行為に認識されるのと、面白いのが「アレは会食ではなく議論だった」みたいな弁明を大真面目でやっているところが虚構新聞かと思いましたが、あれらの状況を見たうえで「けしからん」とか「責任感がない」とか責め立てたとしても、なかなか物事は上手くいかないかもしれないなあ、とニュースを見て思っていました。
そんな時にふと思いついたのが、“「コロナ禍においても会食を止められない私の状況」を当事者研究する”というアイデアです。誰か率先してやってくれないかなあ。
「当事者研究」という言葉をはじめて聞かれた方に簡単に紹介します。もともとは北海道の「浦河べてるの家」で始まったムーヴメントで、もともとは統合失調症などの病気と医療者から診断された人が、日々の生活の中で感じる生きづらさや体験を持ち寄って、いろいろ議論や分析をしながら「自分の助けかた」を見つけていく一連のプロセスが「当事者研究」です。例えば、統合失調症の代表的な症状である「幻聴」に悩まされている人がいたときに、その「幻聴」を「幻聴さん」というお客さんとして取り扱ってはどうだろうか?というようなことや、困難体験について「幻聴さんと私とのやり取り」という芝居を発表してはどうか、みたいなやりとりが「当事者研究」では行われていきます。そのプロセスから、辛い状況を抱えていた人は、そのつらさの源泉を削除し克服する、という問題解決ではなく、別の対処の仕方を見つけていくことができます。詳しくは以下のサイトをご覧ください。
https://toukennet.jp/?page_id=56
当事者研究の特性ともいうべきコンセプトは、当事者が抱えている「困りごと」を当事者の中から取り出す、というものです。これは「外在化」と呼ばれます。「幻聴さんがやってきた」みたいな認識はまさにわかりやすい外在化ですね。そして、これは「ナラティヴ・アプローチ」のコンセプトとも一致します。すなわち「問題は、人の中に存在するのではなく、出来事の中に存在する。だから、人を問題として取り扱うのではなく、その人が現れている出来事を中心に取り扱う」というのが、私が理解する「ナラティヴ・アプローチ」の基本的なスタンスです。
ナラティヴ・アプローチにしろ当事者研究にしろ、健康に関連する問題を取り扱う時の手法として有名ではあるのですが、現代の医療システムを支配しているロジックとは実に相性が悪いです。特に、私がプロフェッショナルとして関与している内科診療の世界では異端のアプローチ扱いされています。まあそれは当然と言えば当然で、何故なら、現代医学を支えている大きな屋台骨のコンセプトは「ある個体の持つ問題のすべては、その個体が内包する」というものだからです。まあ、そのコンセプトはたとえば「がん」の領域においては医学を大きく推進させた素晴らしい功績なのですが、反対に医学が発展した現代においては矛盾をはらんだコンセプトになりつつあります。たとえば、糖尿病なんてそれに関連するある固有の問題を「その人」に閉じ込めても解決が難しいのですが、それでも無理やり閉じ込めようとした結果「生活習慣病」というような言葉が生まれたのかもしれません。
そんな前振り(長い!)での「会食行動」を見つめる時、「○○大臣の会食発作」みたいなイベントは、摂食障害の患者さんの過食行動やリストカット行為などと結構地続きで、同じようなアプローチで対処していくことができるだろうと思ったのです。これだけ会食について行動制限が勧告されていて、さらに立場上自らが会食制限を勧告しているにもかかわらず、自らの会食イベントが発生してしまうという状況は、そこに何かしらの出来事のからくりがあるに違いありません。一方で、本人自身も「ああ、また私に会食イベントが発生してしまった」とか「会食さんがやってきて、私を拉致していった」みたいな困難を抱えているのではないかと推察します(もちろん本人は「会食さん」などという言葉にはしていないと思います)。
「この状況であなたのような立場の人が会食止めないなんてアンビリーバブルですね。責任取ってください」と他人から言われたとき、言われた当事者が「自分は悪いことをしてしまった」とか「責任感ある行動をとらなければ」というような思いが芽生えるかというと、そんなことはないと思います。このようなアプローチにおいて、責任のやり玉にあげられた当事者がそれを受けて行うことの多くは自己防御と正当化です。少なくとも、そこで起きた、あるいは起きている「出来事」に対して主体性をもって関与しようという意識は持たないでしょう。
ただ、やはりここでわたしは当事者の方に、注目された出来事に対して主体性あるいは好奇心をもって関与してほしいと思うのです。そのようなときに、当事者研究の手法は、自らも困惑しているであろう当事者が「いかに自分の身を他者からの攻撃から守るか?」とか「いかに他者に対して自分の正当性を主張し理解してもらうか?」という意識からある程度自由になったうえで、自分を取り巻く問題に向き合うことができるよい手法だと私は考えます。
「会食さんがやってきて、私を拉致していった」というような感覚を持っている大臣や若者たち当事者同士で、「会食さんとどうやったら距離を置けるだろうか?」みたいな公開ワークショップを開いてみるのは面白いかもしれません。それこそ、そこには様々なナラティヴが立ち上がりそうです。少なくともすべての会食行為について「本人の意志の弱さ」に帰着させ、結局現実的な改善方法がわからないまま社会が個人を責めて終了、という状況よりは生産的な状況を生み出すことができるような気がします。また、たとえば私のところにも「会食さん」はやってきますが、何とか私は「会食さん」と距離をとることができています。それは、私の意志の強さのみに依存するものでは決してなく(どちらかというと私は物事に流されがちなタイプです)、私を取り巻く様々なものたちの助けとともにノウハウを立てながらうまくやれているという状況なのでしょう。その意味では、新型コロナウィルス感染症の脅威とともに、以前の日常とは異なる日常を送っている人々は皆が「当事者」なのだと思います。実に研究し甲斐があるテーマです。そして、実はこのように「問題を外在化する」ことによって、実は当事者の当事者意識というのは芽生えてくるのです。
最後になりますが、再度ここで書いたようなことはコロナ禍においては全くスピード感にかける悠長なアイデアです。当事者の意識がどうであろうが、とりあえず会食イベントが起こらないようなハードな方略こそが今は大切だと私も考えています。ただ、ここ数週間の現状を見ていると、あまりにも物語が分断され過ぎ、すべての問題が個人や組織といった個体に押し込められすぎているために、社会はここから何も学習できないかもしれないという不安を多分私は感じたのです。実はこのエッセイは先日出版された國分功一郎さんと熊谷晋一郎さんのジョイント講義録「<責任>の生成 ―中動態と当事者研究―」(新曜社)を読んで、インスピレーションを受けて書きました。これを読んで特に印象を受けたのは、「責任とは、反応性のことである」という部分です。ある問題を「出来事」としてとらえたとき、あたかも個人の「責任」が薄くなるようなイメージがあるけれどもそれは違う。むしろ、問題を個体に押し込めてしまうことこそ、単にその個体に「責任ある行動」という名の強制的なコードを発動してしまうことであり、それはむしろ「責任を持つ」ということと逆のことを意味している、というメッセージはさわやかで実に腑に落ちました。私なりに解釈すると「アフォーダンス(環境が個体に向けて発する行動促進の信号)に対して、自らが反応(response)しようとするからだ(こころ含む)の動き」を「責任(responsibility)」というのだと思います。これはめちゃわかりやすい。そして、このことを理解した時最初に降りてきたアイデアは「そうか、ジブリの『崖の上のポニョ』は『責任』の物語だったのだ!」ということです。このお話しはまた別途―。