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【仕事】被災地支援

東日本大震災 2011.3.11

震災から1週間経たない頃。高速道路は開通されました。震災支援のためと申請すれば、通行が許可されたのです。

私は支援物資を障害者福祉施設に届けるため、現地に赴きました。支援物資を受けとるために行動することが、様々な理由から困難な方たちのもとへ、直接届けようと準備したのです。凄惨であろう状況の中で、実際に被災された方々の気持ちにしっかり触れることは難しいのかもしれませんが、障害者福祉の仕事をしている私にできることをやろうとおもいました。

原発事故。放射能汚染。情報は錯綜していて、怖かったことを覚えています。妻も、2歳の女の子と、首が据わったばかりの男の子を置いて現地に行くことを怒っていました。放射能を心配して長袖シャツとスラックスを用意され、出発です。

知り合いから、ガソリンの携行缶をかき集めました。日ごろお世話になっているガソリンスタンドの方にお願いすると、満タンに入れてくださいました。その頃は、リッター制限されていたり、給油も半分だけといった対応でしたので、助かりました。

食べ物。飲み物。防寒のためのもの。ハイエース車両に積めるだけ詰め込みました。

道路に亀裂がないかなど、警戒しながら、ゆっくり走ります。よほど緊張していたのでしょう。運転席となりの窓ガラスが曇りまじめました。

現地に着くといつも通りの光景が。一生懸命につくられたいつも通りの光景。障害のある方が、落ち着けるように。いつも通りに過ごせるように。スタッフが配慮しています。不器用な私は、足を引っ張るだけのような気もしましたが、作業に参加させていただきました。案の定、足を引っ張りました。

「それ、できればもっとていねいに…」

「はい…すみません…」

そこで津波被害の凄惨さを目の当たりに。私のあとに現地に向かう予定の人に、現状がどんなものなのか、知らせる必要があるのですが、私はただ突っ立っていました。あまりの凄惨さに私は写真を撮れないでいたのです。

すると被災地の方から
「たくさん写真撮ってください。この惨状を多くの人に伝えてください」
と声をかけてくださいました。

夜。部屋はロウソクの火で照らされています。「酒蔵が流され、もう飲めなくなっちゃうんだけど、これが最後の1本」と笑顔をつくって、日本酒を出してくださいました。

東北にくる前に、被災された方のまえで狼狽えたり、泣いたりはしないと決めていた私は、震える手を抑えながら盃をかわしました。

帰宅すると、私が着ていた服を、妻はバサッとビニール袋につつみゴミ箱へ放り込みました。幼い子どもたちへの配慮からです。私も妻の行動は正しいと思います。たしかな情報がない中でのことですから。


熊本地震 2016.4.14

障害者福祉施設の方から、タオルが欲しいとお話をいただきました。土砂の掃除にタオルが必要とのこと。

私はクリーニング屋さんにお願いしました。使わない清潔なタオルをくださいと。洗濯はしてあり清潔だけど、シミなどがついていて使えないというものだけで大丈夫なのでって。クリーニング屋さんは快く協力してくださいました。千枚以上集まりました。

多くの方の協力のおかげで、最終的には数千枚集め、被災地の障害者福祉施設におくることができたのです。


能登半島地震

私は現地にいくことはできません。東日本大震災のときと違い、子どもの人数も増え、自分の生活が立ち行かなくなると判断したからです。

被災地に行った同僚からきいたお話です。障害のある方が、障害者福祉施設を利用できるために、送迎のお手伝いをしているとのことでした。送迎は何時間もかかるそうです。道路が復旧していないためです。

能登に関しては復興が進んでいない。進める様子も、見受けられない。進めようという意識も感じられない。もちろん、現地では多くの方が復旧作業をしていらっしゃいますし、現地にいない私が言えることではないのですが、国をあげて復興を目指した今までの震災とは違うとのことです。

復興が終わることはないのかもしれません。能登半島も、熊本も…、東北も…。私にできることを続けていきたいとおもいます。風化されることのないよう願います。

職場から交代で支援に行っているのですが、若い同僚が手をあげました。私は現地に行くことはできませんが、現地に行きたいというスタッフがなるべく現地に行けるように現場を支えられたらとおもっています。すこしでも力になっていただけたらとおもいます。




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