見出し画像

私のコスモロジー。

 「人生は順当に黄昏てゆくけれども、存在の謎は変わることがない」


 池田晶子さんの「知ることより考えること」を再び読んでいる。思考の舟に乗り込んで漂う。ふと点と線が繋がって自分で気づかないうちに少しずつ森に紛れ込んでいく、遭難する時もある。

 宇宙は遠い何処かの話しではない。

本題に戻り、

多くの人は、宇宙というと、月やら星やらの天体宇宙のことをいうと、思うらしい。
確かにそれでも間違いではないのだが、私の「宇宙」は、少々違う。
その月やら星やらの天体宇宙に自分が存在していて、その存在している自分が考えている宇宙についての考え、これを「宇宙」と呼んでいるのである。
この違い、わかるかしら。

知ることより考えること 池田晶子


 学生時代、教室で授業を受けている時、黒板に向かいながら脳内で、自分自身がその他大勢の中に座っている姿を見た経験がある。見れる訳がない本来ならば。ドラマで似たようなシーンでも観た記憶なんじゃない?と言われるかも知れないけど違う。自分は授業中で動いていないし、手を教科書に置いてページを捲る自分をもう一人の自分が見ている。その感覚は長くは続かず意識が変わった瞬間、カメラの視点がガラリと変化したように消えて、机の前に座る自分に戻る。手先に紙の感覚も戻る。

 さて戻ったのは本当に自分なのか。


「自分」はどこに存在するのか。
今ここに。と、人は鼻の頭を指でさす。「自分」とは鼻の頭、せいぜい言えて「脳」である。
父母が関係した時点で自分は生じ、その自分とは脳である、というのが、現代人の一般的な見解である。
そんな馬鹿なことはあるまい。
「自分とは何か」という問いの、正確な形はこうである。
脳が自分であると言うより先に、我々には、自分が自分であるとわかっている。そうでなければ、何かをもってそれが自分だと言うことはできないはずではないか。

知ることより考えること 池田晶子


「鏡に映る自分の姿は本当の姿じゃないんだよ、ご存知のように反転しているんだから。例えば写真映りとかも脳内のことだからね。何を言いたいかというと、人は本当の自分を見ることが出来ないってことだよ」
そんなことを言っていた友人がいた。
「もう一度言うよ。他人をまして自分を本質的に見ることは人間には容易くないんだよ。忘れても時々思い出して心に留めてね」
その時は聞き流していたけど、改めて考えると「自分と認識している自分は何なのか」だなと。だから、この本を手にしている。
当たり前なことこそ抜け落ち易い現代だから、当たり前なことを当たり前だと思うことが恐るべき謎だと池田さんは言う。しっかり考えると、
「自分」というのと「宇宙」というのは、どうも同じようなものらしいとわかってくる。その謎をなぜ不思議だと思わないのか。思考回路から戻ったら浮かんだのが、祖母と縁側に座って月を眺めた記憶だった。祖母も教室も先生もこの世にはもう居ないけれど。

「うさぎ見える?月が綺麗だね」

「じゃあ、二番の問題の解答を前に出て書いて」


読書していて気になる文章をよく走り書きする。メモ魔で丸めてはポイ。マルクスが哲学者としては二流だと池田さんは断言していたけど苦笑い。本人は果たして…社会思想家の域を出たくなかったのではないのか?と想像したりします。面白い。


 著者と(故人)年齢が並びました。池田晶子さんが現在もご存命ならばどんな話しをするだろうと空想したりしているから脱線しがちです。それも読書と思考の楽しみですけど。「死んでも本は出せる」の人だから。時間に概念がないならば、過去も未来もない前提なので、記憶のその場所には、いつまでも存在するとも置き換えられる。
また宇宙に放り出される。


「次はおまえだ」一瞬ドキッとなる。さて、死んだのは誰なのか。池田晶子さん繋がりで知った墓碑の旅。お墓という場所は寂しく陰気なイメージがあるけど世界には興味深いものが様々に存在していて、ちなみに誰のものかは不明だという。



 記憶の備忘録。

記憶のループ繋がりで…

おとめ座ゲイのお洒落さん✨


オトナブルー❤️

いいなと思ったら応援しよう!