私のコスモロジー。
「人生は順当に黄昏てゆくけれども、存在の謎は変わることがない」
池田晶子さんの「知ることより考えること」を再び読んでいる。思考の舟に乗り込んで漂う。ふと点と線が繋がって自分で気づかないうちに少しずつ森に紛れ込んでいく、遭難する時もある。
宇宙は遠い何処かの話しではない。
本題に戻り、
学生時代、教室で授業を受けている時、黒板に向かいながら脳内で、自分自身がその他大勢の中に座っている姿を見た経験がある。見れる訳がない本来ならば。ドラマで似たようなシーンでも観た記憶なんじゃない?と言われるかも知れないけど違う。自分は授業中で動いていないし、手を教科書に置いてページを捲る自分をもう一人の自分が見ている。その感覚は長くは続かず意識が変わった瞬間、カメラの視点がガラリと変化したように消えて、机の前に座る自分に戻る。手先に紙の感覚も戻る。
さて戻ったのは本当に自分なのか。
「鏡に映る自分の姿は本当の姿じゃないんだよ、ご存知のように反転しているんだから。例えば写真映りとかも脳内のことだからね。何を言いたいかというと、人は本当の自分を見ることが出来ないってことだよ」
そんなことを言っていた友人がいた。
「もう一度言うよ。他人をまして自分を本質的に見ることは人間には容易くないんだよ。忘れても時々思い出して心に留めてね」
その時は聞き流していたけど、改めて考えると「自分と認識している自分は何なのか」だなと。だから、この本を手にしている。
当たり前なことこそ抜け落ち易い現代だから、当たり前なことを当たり前だと思うことが恐るべき謎だと池田さんは言う。しっかり考えると、
「自分」というのと「宇宙」というのは、どうも同じようなものらしいとわかってくる。その謎をなぜ不思議だと思わないのか。思考回路から戻ったら浮かんだのが、祖母と縁側に座って月を眺めた記憶だった。祖母も教室も先生もこの世にはもう居ないけれど。
「うさぎ見える?月が綺麗だね」
「じゃあ、二番の問題の解答を前に出て書いて」
著者と(故人)年齢が並びました。池田晶子さんが現在もご存命ならばどんな話しをするだろうと空想したりしているから脱線しがちです。それも読書と思考の楽しみですけど。「死んでも本は出せる」の人だから。時間に概念がないならば、過去も未来もない前提なので、記憶のその場所には、いつまでも存在するとも置き換えられる。
また宇宙に放り出される。
記憶の備忘録。
記憶のループ繋がりで…
おとめ座ゲイのお洒落さん✨
オトナブルー❤️