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Stay With Me。

 あの夏、駒沢公園で走るようになって二週間が過ぎた頃、
蝉の鳴き声に重なるように、風にそよぐ樹々の輝きと、まばらに行き交う人々を眺めながら、いつも通りにあの階段の途中に座り、またいつも通りに定位置に登りつつある太陽の光の元、汗を拭いながら心地よい空気に身を包んでいた。

 都心にこんな自然があるなんて、田舎じゃ当たり前なものが、こちらでは珍しい場所となる。人間は自然なものに触れていないと、バランス感覚を失う。今の自分がそうだ。昨日、展示会を終わらせて撤退まで息もつかずに集中、ただ闇雲に身体を動かしていられたのも、この場所のおかげだ。マイナスイオンなどの存在は知らないが、深い緑色の光と影にどっぷりと浸りながら全身を解放すると、この上なく生きている実感が湧く。どんどん無限に湧き上がるものは、植物の光合成の如く、目や鼻や口や耳や、全身にトルネードを巻き廻り活力となる。

 走った後は、いつもマイナス→プラス→ゼロとなる。

 走っていると、いろいろな出逢いがある。同じように毎朝ジョギングする人、犬の散歩に来ている人、夜更かしでもしたのか気怠そうに路上に座り失念している人。
走っている者同士、顔見知りになると一言二言当たり障りのない挨拶をすることもあるが、基本は軽い会釈くらいが程よいバランスだ。(此処もバランス)
走るペースを乱されたくないし、一日の始まりに自分と唯一向き合う貴重な時間でもあるのだから、たぶんあちらだっておなじ、邪魔したくないから邪魔もされたくない。

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 ある時、新しくしたスニーカーの靴紐がどうにもならなくて、ため息をついて、しゃがみこみ直していたら誰かの視線を感じて、ふっと前方を見たら彼と目が合った。よく見かけるから顔は知っていた。わざわざ戻って来てニコッと笑う口元を見て、思わずつられて笑った。
笑顔は伝染するもの。

「走ってると解けるよね、あ、この方法知ってる?簡単なんだけど、こうすると不思議と解けないんだ」いつの間にか隣に並んだ彼が一緒にしゃがんで直接手直ししてくれる。と、思っていたら、それを勢いよく解いて「さ、次は自分でやってみて」と掴んでる靴紐を手渡しして来た。

 そんな出会い。

 教えて貰いマスターした靴紐は、本当に解けることがなかった。解けなくなったのは心もだった。
それから、いろいろお互いに話すようになり、待ち合わせをして一緒に走るようになった。会社員のわたしは規則正しい暮らしのルーティンだけど、彼はフリーランスなのか不規則な日常のようだった。音楽関係の仕事をしていると聞いたのは、ずっと後のことで、部屋にギターが置いてあったのも、CDが壁一面に数え切れないほどストックされていたことにも納得した。彼の家に泊まった夜、ソウルミュージックの話しをしながらソファに座って笑い合うのは本当に楽しかった。どちらも楽天的な性格なのか、割と何でも笑い流せる似たような感覚に心地良い時間が、あっという間に流れて行く。

 毎朝、一緒に目覚めてから駒沢公園まで競争しながら走りに行って、帰宅後カーテンを開けて、窓を開けて、外の空気を胸にめいいっぱい吸いこんでから、ベッドサイドでコーヒーを飲む。時々、彼がギターを手にして歌う。
出勤する為の支度を整えていると、「休んじゃえばいいのに」と優しい瞳と優しく肌の感触を確かめるような掌で、わたしの髪を首筋を身体を撫でる。

 玄関に並んでるスニーカーの靴紐は、しっかりと結ばれていて解けない。
そう信じて疑いもしなかった、あの世田谷のマンションのエントランス。

 靴紐は解ける為にあるのだ、きっと。

 昨日、帰宅したらスタンスミスの靴紐が珍しく解けていた。彼に教えてもらった方法は、彼と一緒に居ることを拒んだわたしに、もう必要が無かった。必要がないというよりは思い出せない。今時ならネットで検索したら直ぐに分かるのだろう。
でも、しない。


Stay With Me

このままで。

そのままで。


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