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八代市で令和の河童退治があったってよ(後編)
突然ですが八代市民の方に悲しいお知らせです。
皆さんは日本で初めて河童が上陸した地、八代の市民ということで、今までさぞ誇らしく自慢できる人生を歩まれてこられた事と思いますが、日本全国に視点を移して河童を調べてみると当地八代に住んでいた九千坊ですが、書物に紹介される際に【西国一の河童とか西の大将 九千坊】と書かれることがあります。
なぜ八代市民の誇り、九千坊が日本一の河童ではなく、西の大将なのでしょうか。
それは、一度負けているからです。東の河童に。
その名も【利根川に住む女河童 禰󠄀禰󠄀子(ねねこ)※袮袮子と書かれることも】に勝負を仕掛けて負けているからです。
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禰󠄀禰󠄀子河童は利根川筋の河童の女親分とされ、関東無双の暴れ河童。
笑顔が怖い怖い。
女河童に勝負を仕掛けて負けて帰ってきた九千坊・・
どんな顔をして帰ってきたことやら。
いやしかしわかる。 禰󠄀禰󠄀子河童は怖いよね。。
しかし、他の書籍では
九州最強の河童の王
と書かれているものもあり、それで十分カッコいいので今後は関東に近づかず九州にいてほしいものです。
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余談はさておき、前回の前編では八代市での河童との出会いと全国の河童の歴史をサラッと紹介しましたが、ここからは私の妄想全開でお届けしたいと思います。
八代市での河童との出会いとその後の河童のことを調べた結果、私には2つの疑問が残りました。
疑問1 八代に上陸してきたのは河童と言われているけど、それ人間では?
八代に上陸してきた河童は中国からやってきたことは前編でお伝えしました。
それも中国の黄河流域、具体的には呉から渡ってきているとされておりとても具体的に書かれています。
呉という国は中国の歴史上過去2回登場していますが、年代から言うと三国志時代の呉だと思われます。
4世紀ということは中国の呉という国はすでに滅んで数十年が経っているので、呉人の末裔と考えるか、もっとざっくりと地域としての中国南方という意味で呉と伝わっていると考えられます。
どちらにせよ、中国から大勢の人が渡ってきたと解釈できます。(渡来人説)
その場合、前編で書いたように当時の中国は日本と比べ超先進国ですから、その知識と技術は当時の八代現地の人から見たら魔法か妖術のように見えたでしょう。そこで異能の人々という意味で河童と呼ばれ区別された事が考えられます。
またもしかしたら先進的な造船技術など海や川に関する技術が高かったから河童と呼ばれた可能性もあります。
※このあたりは物語に登場する鬼とよく似た事情がありそうで、河童と鬼の比較をしたら面白いnoteが書けそうなのでそれはまた別の機会に書きたいと思います。
疑問2 八代に河童が上陸してきて、加藤清正に追い出されるまでが長すぎでは?
八代に河童の大群が上陸してきたのが4世紀(313〜399)だと言われています。
そして、加藤清正が九州中の猿(猿は河童の天敵)を集めて攻め、八代を追い出したのがおおよそ17世紀(約1600年くらい)と考えられます。とすれば河童はざっと1200年間くらい八代にいたわけで1200年間も八代に住んでいたらもう地元民というか、もはや加藤清正の方がよそ者なのでは?
※これまた余談ですが、猿はなぜ河童の天敵なのでしょうか。
書物によれば猿に勝てないようです、河童。
なぜか。水中で河童は水中で12時間活動出来るのに対し、猿はなんと水中で24時間の活動が可能だからとの事。
水生生物と思われる河童に水中戦で勝てるとは、いや、むしろ猿が凄すぎんか
今回私が提唱している河童=渡来人ということはここでの河童と言われる人々は妖怪ではなく人間です。元は中国人だったのかもしれませんが1200年もいたらもはや日本人と同化して見分けつかないでしょ。
それを追い出したとはどういうことでしょう。
私の推測では、疑問1と疑問2は分けて考えた方が良いと考えています。
疑問1は素直に外国から大勢の人が八代に到着してきたと考えましょう。
これは当時の八代に海外との交易があった証拠があったり、八代からみて中国に少しだけ地理的に近い天草にも河童の伝説が多く、八代に上陸する前に天草を経由してきたと考えれば辻褄が合う(ような)気がします。
と、いうことで特に
疑問2に注目したいと思います。
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自然を畏れる人間が妖怪を生み出した
妖怪のそもそもの成り立ちは、人間の自然への畏れ(おそれ)であることが多いです。
妖怪だけに限らず、それは怪物や鬼くらいまで含めても自然への畏れと捉えて良いと思います。
古来、日本人は自然への恐れや、理屈では説明できない事象への答えとして妖怪や怪物という存在を生み出してきました。
有名なところでは出雲地方に伝わる八岐大蛇(ヤマタノオロチ)伝説です。
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八岐大蛇(ヤマタノオロチ)は川の象徴という説を聞いたことがあるでしょうか。
ヤマタノオロチ伝説の解釈は本当に諸説紛々ですが、古代からたびたび氾濫を繰り返しておそれられた斐伊川がオロチの正体なのでは?といわれています。
スサノオが降り立った地は斐伊川の源流である奥出雲の鳥髪(とりかみ)という地であり、その奥出雲はたたら製鉄の本拠地であることから、オロチ伝説と深く繋がっているといった見方もあります。
この地域を流れる斐伊川は多くの曲がりくねった支流を持ち、氾濫を繰り返していた。
たたらに必要な木炭を取るために木を大量に伐採し、そのために洪水が起きた。
鉄の原料である砂鉄を取る時に川が赤く濁ったため、下流の斐伊川周辺は被害を受けた。
姉であるアマテラスとの不和により、スサノオは出雲国(現在の島根県)、斐伊川(ひいがわ)上流の鳥髪(とりかみ)という地に降りたちます。
そこで、泣いている老夫婦神アシナヅチとテナヅチと、少女(クシナダヒメ)に出会い、泣いている理由を尋ねると、アシナヅチは、
「娘が8人いたのに、ヤマタノオロチが毎年来て娘たちを食らってしまいました。またヤマタノオロチが来るころで、最後に残った娘、クシナダヒメが食らわれることを怖れて泣いているのです」
スサノオにその姿を問われたアシナヅチは、「その目は赤かがち(ほおづき)のようで、ひとつの身体に頭が8つ、尾が8つあります。
その身体にはコケやヒノキやスギが生え、その長さは8つの谷、8つの山に渡り、その腹を見ると、一面がいつも血にまみれてただれています」と答えます。
ちなみにヤマタノオロチに8という数字が出てきますが、これは【たくさん】という意味で使われているそうです。
八岐大蛇(ヤマタノオロチ)は蛇などを水神として祀る場所が多くあることから、古くから氾濫を繰り返してきた斐伊川を象徴しているのではないかという説です。
また人質として差し出されようとしていた姫であるクシナダヒメ、古事記では櫛名田比売、日本書紀では奇稲田姫と記され、水田を象徴する女神とされています。
それらを総合して考えると、氾濫を起こしていた川=八岐大蛇(ヤマタノオロチ)が水田(クシナダヒメ)を飲み込もうとするが、スサノオにより倒され(治水され)、平和になったというお話になるのです。
余談ですが、出雲市が交付している自動車のご当地ナンバープレートは
とてもかっこいいんです、私もこのナンバープレートにしたい
八代市も一つどうですか? 河童のナンバープレート。
カッコよく作ることが出来れば移住者増えると思いますよ
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さて、ここまできたら私の自説、わかってきたんじゃないでしょうか。
加藤清正伝説を振り返ってみましょう。
勢力を増した九千坊たちは、乱暴を働き、川へ遊びにきた女子供たちをかどわかしたりした。ある日、川遊びに行った肥後領主加藤清正の小姓が河童に引かれて死んだ。
これに怒った清正は、「わが領地で乱暴狼藉をはたらくとは言語道断である。みな殺しにしてくれん」と、清正は、球磨川に「弓矢、鉄砲、大砲をドカンドカン打ち込み上流から毒までを流した」。
それでも収まらず、「焼石を淵に投げこみ、淵から這いあがろうとする河童を猿に捕えさせるよう家来に命じた」と。
高僧たちをあつめて封じさせ、川に毒薬を流した。
そして河童の嫌いなサルをあつめて攻めさせ、ついに九千匹もの軍勢をもつ頭目九千坊を追いつめた。
九千坊は、封じた高僧たちに詫びを入れ、領内では悪さはしないと約束したが、清正の怒りは収まらなかった。
清正から即刻領内から立ち去れと命じられた河童たちは、やむなく隣国の筑後久留米の有馬侯の許しをえて筑後川へ引っ越し、水天宮の眷属として仕えるようになった。
そんな中、SNSでこんなニュースが流れてきました。
清正の「八の字堰」復活
【八の字堰が2020年 #グッドデザイン賞 を受賞!】
— 国土交通省八代河川国道事務所 (@mlit_yatsushiro) October 2, 2020
八代市にある #八の字堰 は #加藤清正 由来の石組構造と近代の河川技術がコラボした構造が評価されました。アユ等の産卵場として瀬を再生するとともに、地域の歴史を蘇らせる新名所です。
詳細https://t.co/EJja3UqP1f#球磨川 #八代河川国道事務所 pic.twitter.com/JDdXcCx1c3
江戸時代初めに肥後藩主の加藤清正が造り、昭和の河川事業で姿を消した「八の字堰(ぜき)」が、50年ぶりによみがえった。清正は治水と水利を目的に八の字堰を築造。川の中央から下流へ八の字形に自然石を組むことで、川の流れを両側に分けて急流を和らげ、流れの先で取水した。1969年、上流側に現在の「遥拝(ようはい)堰」が完成し、撤去された。
あ!と思いましたね。
もしかして・・これか?
とも思いましたね。
治水の神、加藤清正の河童退治
加藤清正は治水の神様と言われていたほど土木・治水に長けており、かつて荒廃していた肥後の地を優れた手腕で生産基盤設備を強力に推進し、農業生産力の増大によって藩の経済的安定をはかりその手腕は肥後治水と呼ばれ高く評価されています
球磨川の氾濫=河童の仕業?
先ほどの八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を例にして、江戸時代の人々が球磨川の氾濫を河童の仕業と見立て、それに対抗した加藤清正の治水事業を河童退治として後世に伝えているのではないか。
加藤清正が球磨川の最下流部に慶長13年(1608年)に築造された石造の斜め堰が「八の字堰」です。
そして八代から河童を追い出したのが1600年前後と言われています。
球磨川の治水に成功し、逃げた河童の行き先が久留米の筑後川。
ここも氾濫する川として有名です。
私の中のパズルのピースがぴたりとハマりました。
令和の八の字堰は加藤清正が昔造ったものを、生物多様性を目指して蘇らせたと聞きましたが、同時に洪水時に下流に与える影響も考慮されているとの記事も読みました。
加藤清正公由来の石組の構造と近代の河川技術により洪水時に流出しにくい構造の構築
で、あるならば今回の八の字堰工事は加藤清正の志を継ぐものであり、洪水時に下流の人々を守る令和の河童退治と呼んで差し支えないのではないでしょうか。
通常であれば、現代の土木技術を駆使して現代の技術だけで球磨川の工事を行いそうなものですが、有用であれば江戸時代の技術も巧みに取り入れる治水の神様、加藤清正の末裔達の仕事ぶりに敬意を表したいと思います。
また八の字堰は、八の字広場として広く市民に開放していると聞きますので、あなたもキャンプやバーベキューをしながらこの川にかつて9000匹も生きていた河童達に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。
最後に
また今回河童を調べてみて、あまりにも河童界の裾野が広く書いててとっ散らかりそうになったので意図的に記載から除外した事も多いです。
いつかその事もnoteで書けたらと考えています。
ではまた
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