好き嫌いについての思索 3
先を続けて行く前に、記しておこうと思ったことがあります。
前回、好き嫌いの根である "偏った知覚" が、後天的なものかどうかを考察して、生後間もない乳児でもその芽は認められる、つまり後天的なものではないという内容になりました。
ここでいう後天的でないというのは、偏った知覚、偏見を生み出す「機能」とも言える意識の構造のことを言っています。偏見の「内容」、つまり何を好き嫌いとするかは、その人が生まれてからの体験・環境等がいわば素材のように、この「機能」を経由し具体的に生み出されると考えます。
なお、生まれる前であっても、先祖(祖先)や人種によって、否応なしに引き継がれる内容もあるのではと思っています。
さて、前回はここまで来ました:
「安心感への欲求」は、本能の中でも生存本能と関係があると思う。
動物が最も強く察知しなければならないものは生命の危険だから。
すると動物として生存本能が満足するのは、生存に対する安心感となる。
生存に対する安心感は、文明以前に遡って想像すると分かりやすい感じがする。
動物がお腹を出して寝ていても危険でないと判断する場所や時間。
(これだけあれば)食いつないで生きていられると思えるとき。
別の視点から見ると、殺されない場所や時間、飢え死にしないように思えるとき…
ということは、この安心感は究極的には「死(の恐怖)からの安心感」と言えるのではないでしょうか。
このように「安心感への欲求」は「死(の恐怖)からの安心感」として、本来、生存本能と連動して機能していた感覚なのではと思う。
死から遠ざかった文明に生きている私たちの多くは、直接的に日々、死を意識して生きてはいない。
余命宣告を受けたり、ある条件下にある人にとっては、今日も死なずに生きているというように、死との距離感が異なってくると思う。
いずれにしても例外なく死はやってくるので、その本能ゆえに、死の恐怖から遠ざかる文明を必然的に築いてきて、確率としての死亡率は激減した。
しかし本当には死から逃れられないことを知っている私たちの意識(本能)は、当然、死の恐怖からも逃れられておらず、従って「死(の恐怖)からの安心感」への欲求も消えない。
生存本能とは生存するための本能なのだから、生存本能としては、死は何をおいても脅威だと思う。
そして生きている限り、この本能はついて回る。これまで人間がどんなに進化しようとも、生物学的にこの本能を乗り越えたことは一度もない。
現在の私たちも、死を脅威・恐怖とする生存本能が組み込まれた人間として、生きている。
死とは、今、生きているこの生命活動が終了すること。
終了したら、存在できない。
たとえ死後、その死んだ身体を物理的に存在させようとも、やがて腐敗していく(だから冷凍保存などの発想が出てくるのかもしれないですね)。
生存本能の一番の願いである「生存していたい欲求」は 「死」によって、いつか必ず打ち消される。
そこから推測するに生存本能は、
「死」とは自分の存在が消失することだ
と理解しているのではないでしょうか?
自分の存在が消滅することが、最も恐れること、一番の恐怖だと、生存本能は認識しているのではないでしょうか?
そして、こんなに根源的なものだとしたら、もしかしたら「死への恐怖」と、そこから何としても離れたい生存本能が求める「安心感」は、それぞれ、私たちが抱くあらゆる「恐怖」と「安心感」という感覚(概念?)の元型となっているのではないでしょうか。
ここまでの流れから、そんな風に思いました。
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ここまでの思索と好き嫌いがどうつながっているかということとを見ていくために、少し整理をしてみます。
私たちの意識には「死の恐怖」と、それに対する「安心感への欲求」がセットのように刻みこまれていることは間違いないと思われます。
そしてこの「死の恐怖」と「安心感への欲求」は、生命の維持を求めつづける本能である、生存本能に因るものではないだろうか?
また、それらは、もしかしてあらゆる「恐怖と安心感」の、感覚の元型となっているのでは?
という思索を進めています。
この「恐怖と安心感」というものは、前回、偏った知覚の起因としているもう一つの感覚「快・不快」のさらに下の層にあると思われます。「快・不快」よりも生死の方が生命に関わるからです。
「快・不快」は、「恐怖と安心感」が解決した(ように思える)後のレベルで、少しだけ緊急性がゆるまりますが、実は「恐怖と安心感」とは切り離せない関連性というか、連動するようなものなのではと思っています。
それゆえ、緊急性がゆるまったにもかかわらず、ときに人間をまさに死まで追い込むまでのエネルギーに膨らんでいく破壊力を持つのではないでしょうか。
次回もたどたどしさは変わりなく、この続き「快・不快」のほうに挑んでいきます。