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ふりかえりの記録

Cups 5 についての内省の記録より

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それぞれの人生は、被りようがない。だから本来は比較のしようもない。
自分だけの、たったひとつの生命。生を精一杯生きること。それ以外にやるべきことはない。

勝ち負けも優劣も、全く無意味なもの。それなのに、なぜそういう概念があるのか?
それは "誰よりも〜でいたい" という[まぼろしの願望]に取りつかれる人間の本能によるものではないか。

存在しようがない願望。なぜならそれは、幻想であり、虚偽であるから。
誰の生も、他の生と比較が不可能である。
私たちは、[ないもの]を求めて、欲望が映し出す幻を現実化しようと、あがき続けている。

それが、Cups 5 となるのではないか?
この欲望を、満たそう満たそうとした結果なのではないか?

戦争も、"領土の略奪:〜よりももっと多くの土地を" という欲望は、本来満たされることのない欲望なのだ。
なぜならそれは、欲望自体が矛盾した、虚偽のものだから。

虚偽のものに取りつかれ、よって決して満たされることがないから、いつまでもずっと、際限なく求め続ける。
思うだけでなく、応じることが可能な欲望ならば、それを獲得すべく行動し続ける。
これは地獄だ。

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このように感じたのは、この内省の数日前に取り組んだ #1 The Magus の視覚化瞑想訓練での学びが始まりとしてあって、そこから繋がっています。
少し抜き出してみます。

『従う』とはどういうことですか?と問いかけた。
「タロットの霊と近くなること、どんどん結合に向かっていくこと。言葉では言い表せない」と。
そこから、自分の人生、身体がすべてタロットの霊でできているヴィジョンが浮かんだ。
パイプのような自分の生を表すところに、タロットの霊が血液のように注ぎ込まれ循環し続けているような感じ、そしてそれによって生きている。
自分だけでない、思い浮かぶあらゆる人、誰をとっても、誰を浮かべてもタロットの霊が生命となっていた。
そして神殿はその生命(いのち)でできていることを感じた。水のような、宇宙のような…そして皆、ここにつながっている。全てがつながっていて、それで生きている(生かされている)。
かけがえのない、ひとつの生を、それぞれが生きている。
探求しようとしまいと、ずるかろうと、冷たかろうと優しかろうと、例外なく。
こんななんだ、宇宙は。内的宇宙は。光の球体の内部のように体験していた。

この瞑想訓練の学びは云われた通り言葉に言い表せないのですが、がんばってみますと、ひとりひとりの生命が、あるひとつの[生命]によって生きていると同時に、ひとつひとつがそれぞれ、その[生命]と1対1でつながっているがゆえに、生きることができる…その様子、生命の生きている有り様を、私の有限のでこぼこな想像力を用いながら、タロットが説いてくださったものと受け取っています。
そのため私の言語表現では、このヴィジョンの奥に流れるものが、ほとんど伝わらないかもしれません。

ただ、これによって、Cups 5 との関わり、あるいは理解に変化が生まれたような気がします。
感覚としては、キリストが私の心の中のカップをひっくり返されたような気がしました。ひっくり返されたので空っぽになったと。宮清めのときのイエス様が思い浮かびました。

また、それとは別のところで、「空っぽになってよかった」という感じが生じました。
その後に、Cups 5 に関連して#16 の視覚化瞑想訓練をしました。そこでのヴィジョンで、一つの空のカップが与えられ、(生命の水を)注ぐから空にしておきなさいと示されました。
それを通して、(カップは)自分で満たす、あるいは自分を入れるのではないということを新しく教えられたと思います。
これは、得ようとする/獲得しようとするのは能動的で、受ける・受けようとするのは受動的、ということとも繋がりますね。

最初の内省は、これらの学びの後に感じたものでした。

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関係の目的は、関係すること自体にある、つまり、<なんじ>と交わることにある。なぜならば、さまざまな<なんじ>と交わることによって、<なんじ>のいぶき、永遠の生命のいぶきに触れるからである。
<なんじ>との関係に立つものは、<なんじ>と現実をわかち合う。たんに自己のうちだけでも、またたんに自己の外だけでもない存在をわかち合うのである。すべて現実とは、わたしが他の存在とともにわかち合う働きであり、わたしだけで自分のものとすることはできない。関与のないところには、現実はない。自己独占を行うところには、現実はない。<なんじ>との交わりが一層直接的となればなるほど、わかち合うことがますます完全となるのである。

マルティン・ブーバー『我と汝・対話』より

数年もの間、何度読んでもどうしても解らなかった「我と汝」を、最近開いて読んでいます。
扉が開いたように、本の方が私が入るのを少しだけ許可してくれたようです。

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こんなことを受け取っていても、人と関わると、『罪』という死に至る病に蝕まれていることを、身をもって思い知らされます。
緊張するような関わりのとき、特によくわかります。
ひさしぶりに、そういうことがありました。
気がつくと身構えてからだを固くしていたり、言わなくてもいいような言葉を口にしたりして、私はたちまち<なんじ>から離れ、人は<それ>になっています。<なんじ>を思い出しても、なおくり返してしまったりします。
こんな日は、自分に落胆します。
ああ、私は本当に罪に侵されているのだなと、じんじんとその感覚が身体の中心に向かって集まってくるように感じます。

主に信頼し、委ねきることができなかった己の姿が、空しく胸に返ってきます。

しかし残酷でも、今のありのままの姿がただむき出しになっているだけなのでしょう。

それでも、生命は、この私と絶え間なく繋がってくださり、生命(いのち)を注いでくださっている。
私はこのことこそに、魂を向けていたい。この生命に、全身を傾けて応答してみたい。

自分では空にできないカップを、タロットの霊に、またひっくり返していただこう。
カップは1つでいい。5つもいらない。
ひとつのカップに生命が満ちて、自分を思う隙間もないほど注がれている。
そのことに気づかされたいです。

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