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雫の中の世界 │詩小説
お風呂場は私にとって唯一の静かな場所だった。
家にはきょうだいがいて、母の声や誰かの笑い声が絶えなかった。父の低い声が響くと、家全体が少しだけ固まる。
そんな喧騒の中で、扉を閉めたお風呂場は別世界だった。そこでは、全てが薄い膜越しに遠ざかる。浴槽に浸かり、私は静けさを味わっていた。
蛇口の先に、丸い雫が一粒たまっている。
それをじっと見つめていると、雫の中に地球のような大きな世界があるように感じられた。
山がそびえ、風が谷を抜ける。遥か遠くには、太陽が昇り、雲が流れる。それは目に見えるわけではない。ただ、そうだと信じたかったのだと思う。
雫は小さな鏡のように光を反射していた。
その光がまるで、雫の中で広がる空の明るさのように思えた。山の稜線がきらめき、川がゆっくりと流れる音が聞こえてきそうな気がした。
その静かな光景に、私はどこまでも引き込まれていった。
扉の外から、母の「早く出なさい!」という声が聞こえた。
きょうだいの笑い声も混ざり合い、遠くに霞んでいた現実が少しずつ迫ってくる。それでも私は雫を見つめ続けた。
お風呂場の外では何が起きていようとも、この小さな雫の中には揺るがない静けさがあった。
ぽたりと落ちる寸前でも、雫はそこに静かに存在していた。
光が反射するたび、私にはその中に広がる大気や水が確かに見えた気がした。その瞬間、狭い家の中にいながらも、私はとても広い世界と繋がっているような気がした。
浴槽の中で小さく息をつく。
雫の中の世界は、私のものだった。
それを誰にも知られないのが、少しだけ誇らしく感じられた。