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『愛について語るときにイケダの語ること』で自分なりのリアルを見つける
アップリンク吉祥寺にて、映画『愛について語るときにイケダの語ること』を観ました。58分。上映後のトークイベントも合わせるとトータル1時間半くらい。
感じたのは、まるで“お土産”に渡された木彫りの人形のような、置き場所に困る悩みと、降ってわいたような愛着でした。
映画『愛について語るときにイケダの語ること』の内容
まず、どんな映画か。
公式ページの「INTRODUCTION」の以下文が一番短くて分かりやすいと思います。
池田英彦・40歳・四肢軟骨無形成症
スキルス性胃ガンステージ4・趣味:ハメ撮り
身長 112 センチの青年が人生最後の2年間を凝縮した
初主演・初監督作にして遺作!
観ていない方にも感想が難しいことは想像がつくと思います。観た方には言わずもがな。
ニュアンスを伝えることすら難しいなと思っていたら、あるもんですよね、公式ページには。
以下紹介は、すごくしっくりきます。
愛とセックス、虚と実、マイノリティとマジョリティ...
それら境界線を冒険する。
ドキュメンタリーを超えた異色のセルフ・リアリティ・ショー!
虚実の境界線
映画は、撮影した映像を編集しているという点で「虚」という、いわばフィクション。
ですが、『愛について語るときにイケダの語ること』には「実」というシナリオ無しのリアルも映されているよう。
主演のイケダさんは、本人として登場します(実)。でも、映画の中で、演技(虚)として普通のデートをして告白され、素の反応(実)がこぼれ出る。虚と実の境界線を行き来します。
観る人には、それがどちらか分かりづらいけれど、行き来していることはよく分かる。
愛とセックスも虚実。
映画で重要な題材の、風俗嬢とのハメ撮り(実)と、対照的な役者のサトミさんとのデート(虚)。でも、風俗嬢とのセックスはお金を介した一時的な愛だし(虚)、一方のサトミさんとやろうとしているのは現実的なデート(実)。
もう少しフォーカスして、風俗嬢とのセックスを抜き出してみます。
ラブホテルらしき場所で風俗嬢に抱かれるイケダさん。女性の手が大写し。綺麗に飾られたネイル。1本違う色のアクセント。
ただ、綺麗な爪の彼女の指がすこしかさついているように見えました。
爪は綺麗だけど飾られていて(虚)、指はかさついてるけど剥き出し(実)。
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じゃあ、デート。
2人の会話には笑い声が多い。相槌のように笑い声が入る。
それはうまくコミュニケーションがとれないからこそ、「敵意の無さ」を示すための笑い声にも感じる。
会話(実)に、テクニック(虚)が混じっているような。
……すこし斜に構えて、必要以上に裏を読んでいるかもしれません。
マイノリティとマジョリティ
一息ついて、もう一つ大事なキーワード「マイノリティとマジョリティ」に目を向けます。
そもそも、イケダさんのコビト症という障害はマイノリティにくくられるものだと思います。けれども私がこの映画を面白く観たのは、マイノリティへの物珍しさではないですし、映画自体、障害について個性以上のものとして強い意味を与えているとは思いません。
おそらく観た方は、イケダさんを障害のあるマイノリティだとほとんど意識しないのではと思います。
逆に、映画という枠に入って主演を務める以上、観ているとマジョリティにも思える。すべてがイケダさんを中心に回っているんだと。
実際それって、真実だと思うんです。
だって誰でも「私の世界は私を中心に回っている」。
枠に収めれば、マジョリティとマイノリティは逆転させられるけれど、もともと、何がマジョリティで何がマイノリティだとも言い切れない。
マイノリティとマジョリティが行き来する。
あれっ? これって「虚と実」と同じじゃん。
二極化される世界
すべてが二極化される世界で、AとBがあり、CとDがある。
A not B、C not Dで、A=CならB=D。
虚と実は別物で、マイノリティとマジョリティは別物。ならば……って、あー面倒。
結局、ここで私が思ったのは「この世界ってリアルに埋め尽くされているんだ」ってことなんです。
車もコーヒーも赤ちゃんの泣き声も、とっても現実。
この世界ではリアルがマジョリティ。
そして、そうであるなら「ウソはマイノリティかも」ということでした。
太宰治の『人間失格』で言葉を「コメディ(喜劇的)」か「トラジェティ(悲劇的)」かで分けていたみたいに、世の中はマイノリティとマジョリティに分けることができる。あるいは虚と実に。
「ウソがマイノリティ」なら、例えば嘘つきがダメな理由もなんとなく説明がつく。
多数決で負けちゃうから。
でも、本当はそうではないかもしれない。
この記事に、これまで挙げてきた「虚」や「マイノリティ」でくくってきたものがダメなわけがない。もちろん逆もしかり。
もう一度、この映画の公式ページのほんの一部を抜き出します。
愛とセックス、虚と実、マイノリティとマジョリティ...
それら境界線を冒険する。
これらのあいだに境界線は作れるけれど、飛び越えることができる。
虚と実は、マイノリティとマジョリティは、ひっくり返せる。
感想が難しい理由
私はここまで考えて、ようやく映画『愛について語るときにイケダの語ること』の感想が難しい理由が分かった気がしました。
この映画、どれもこれも本当にもウソにも見えるから、感想が言いづらいんです。
「虚」「実」とラベルが貼られていれば手に取りやすくて扱いも簡単。ところが、本当もウソも入り混じっている。
この映画にはいろんな印象的なシーンがあります。
その中から、人それぞれ異なるシーンを“お土産”として持ち帰るでしょう。
そして、その“お土産”の選び方に、その人なりの裏表のないリアルがある気がします。
映画の中に見つけた自分なりのリアル
イケダさんは、映画が進むにつれて、どんどんと弱っていきます。
ガンが進行していくからです。
映画はイケダさんが主演ですが、一方でカメラを向ける脚本の真野勝成さんとの声が非常に多く使われています。
イケダさんと真野さんは20年来の友達だそう。
照れ隠しのジョークと本音が入り混じるような会話は、友達ならではのやり取りだと思います。
映画の終盤。
いよいよ、やせ細って、意識を保つこともつらそうなイケダさんに、真野さんがカメラを向けながら言う「もう寝ちゃっていいよ」。
私にはその言葉が、ずっと寄り添って話をしてきたからこそ言える、優しさのような気がしました。
それがまったく、ウソのない本音であって、どこまでいっても友達であるからこその優しさであって、それこそがこの映画の「リアル」なんじゃないかと。
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ガンが進行するイケダさんを撮り続ける真野さん、その映像を真野さんが自由に使って映画を作ることを託すイケダさん。
結果として、映画は生まれました。
友達に自分の性の記録を渡せますか?
友達の性の記録を見ていられますか?
友達に弱っていく自分の姿を見せられますか?
友達の弱っていく姿を見ていられますか?
「愛」について語るイケダさんを観ながら、私は画面のこちら側にいてカメラを向ける真野さんの姿を強く感じました。
そして、そこにある友情を。
『愛について語るときにイケダの語ること』はアップリンク吉祥寺にて12/9まで。
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