
冬にそなえる10のまもりごと。
最近、なぜ表現するのか?という理由が変わってきた。表現という言葉は、おおげさかもしれないが、趣味で文章を書き、音楽を作っている。それが自分にとって表現のすべてである。
かつては自分を知ってもらいたい、作品で自分を主張したい意図があった。ところが、いまは自分が読みたいものを書き、聴きたい音楽を作る。DIYというか、どことなく自給自足である。日記のようでもある。
自分にとって表現のための創作活動は、思考の練習に過ぎず、自分への挑戦と考えている。
どういうことかといえば、こういうことだ。文章を書いていると、次第に傾向や文体が決まってくる。DTMで曲を作れば、同じようなコード進行、メロディ、アレンジになる。あ、またこうきちゃったか、というワンパターンの制作は創造的とはいえない。
流れを変えたい。というより自分を変えたい。だから、これまでになかった新しさを発見するために模索を始める。個人的な探求を目的として、新しい文章を書き、新しい曲を作る。こうした動機に基づく創作活動はエンドレスであり、終わりがない。
かっこよくまとめてしまったが、なんのことはない。文章を書くことも曲を作ることも、頭脳トレーニングのひとつに過ぎないのだ。早い話がボケ防止、アタマの若さを保つための訓練である。
自分の創作は、日々を刷新する習慣のひとつであり、ぜんぜんクリエイティブじゃない。パソコンを使ったラジオ体操のようなものだ。
前書きが長過ぎた。このエッセイでは、11月5日に完成した『冬にそなえる10のまもりごと』に関する制作メモと、そこから派生して考えたことをとりとめもなく書いてみたい。
映画ばかり観ていた怠惰な10月が終わり、11月になって、ちょっとDTMでもやってみますかね、とソフトを立ち上げた。しかし、これだ!という曲ができない。ボサノヴァにしたり、ハードロックにしたり、5曲ぐらい潰した。
こういう段階を「音楽の神様が降りてこない」と表現することがある。言い訳に過ぎないだろう。才能がない人間には、神頼みしかない。そして、たいてい音楽や文章の神様は、いつでも不在である。
そのうちに文化の日になり、せっかくだから文化的な営みをしなきゃと気持ちを引き締めた。3拍子のワルツを作り始めたところ、ようやくまとまったのが『冬にそなえる10のまもりごと』という曲である。
8月以来、久しぶりにX(旧Twitter)で公開した曲を引用する。
【自作DTM】タイトルは『ふゆにそなえる10のまもりごと』。冬は季節ですが「人生の冬」「冬の時代」のような比喩的な表現もあります。やさぐれてしまいそうな冷たい夜に、少しでもあたたかい気持ちを取り戻せますように。平和を希求するうたです。#DTMer #動画編集 #BandLab #初音ミク #Premiere pic.twitter.com/B1kW9nvLjm
— Bw (@BirdWing09) November 5, 2024
どちらかといえば、ブログに書く内容だと思う。
繰り返しになるが、自分にとって表現手段は文章でも音楽でも構わない。絵は書けないが、もし絵が書けるなら絵の具で「10のまもりごと」を描いたかもしれない。映画監督だったならシナリオをもとに動画を撮影した。プログラムを組めたらゲームを作った。踊れたならダンスで表現しただろう。たまたま音楽にしたが、表現の手段にはジャンルを横断する互換性のようなものがあるのではないか。
音楽にしても文章にしても、創作しながら頭のなかをコンテクスト(作品のつながり、文脈)が駆け巡る。記憶のなかのあれこれと接続したり断絶したりする。
「10のまもりごと」の歌詞を書きながら頭に浮かんでいたのは『死ぬまでにしたい10のこと』という映画だった。
この映画の主人公は、23歳のアン。失業中の夫とふたりの娘とトレーラーで暮らす彼女は、ある日、余命2年と宣告される。失意の中でアンは2年の間にやっておきたい10のことを書き出して実行に移す。彼女がさりげなく口ずさむビーチ・ボーイズの『神のみぞ知る(God Only Knows)』がよかった。
アンがどのような10項目を挙げたかについては、映画の予告編にある。
さらに自作曲の背景のコンテクストについて語るならば、このところ幸福とは何だろうというテーマが頭から離れない。不幸な生活だからかもしれないが、幸福とは何か答えを探すべく、三大幸福論を読み進めている。ラッセルの幸福論を読み終えて、アランの幸福論に入ったところだ。
幸福論の読書をしながらぼんやりと浮かんだのは、幸福になるためには、自分の外に意識を向けることが大切だということだった。
自分の不幸を盲目的に注視するばかりでは、幸福が見えない。自分の外に視点を移すこと。たとえば空を見上げる、誰かを思う、好きな音楽を聴く、おいしいものを食べに行くとか、懐かしい場所を訪れるとか、自分の内面にある不幸から遠ざかることで幸福が近づく。
「まもりごと」は行動規範いわばクレドであり、客観視する自分を設定して約束を守らせるためにある。
歌詞を書いていて、最初は「死なないこと」と歌わせてみた。自分では歌わない。歌うのはソフトウェア、ボカロ(Vocaloid)だ。
少し解説を加えると、曲を作るときには歌詞先行型ではなく、メロディ先行型、もっといえばコード先行型で作る。ボカロ(初音ミク)のエディター上で数小節ずつ歌わせながら、メロディと歌詞の両方を固めていく。「死なないこと」と歌わせてみて、うーんこれは強過ぎると感じた。そこまでアグレッシブな言葉もどうかと思い「生きること」にした。
制作裏話をもう少し続けると、ボカロは音符に入力したひらがなを音素に変換して歌声になる仕組みだ。自分の場合、作っているときに譜面や歌詞カードを書かないので、ひらがな以外の形で歌詞が完成するのは、アドビのPremiereという動画編集ソフトを使うときになる。そのとき初めて、ひらがな表記以外の歌詞ができあがる。
要するにパソコンの前から一歩も動かずに、画面の中で音楽と映像を作りあげる。ちなみにピアノは弾けないし、鍵盤楽器を持っていないので、ソフトウェアの方眼紙みたいな画面にマウスでちくちく音を置き、強弱の棒を伸ばしたり縮めたりして、曲を作る。いわばデジタルのオルゴール職人である。
ちょうど室生犀星の詩集を読書中であり、彼のひらがなの表現がいいなと感じていた。やわらかいのだ。そこで可能な限り漢字をひらいた。漢字をひらがなにすることを、一般的に文章表現の世界では「ひらく」という。
その試行錯誤のせいでXに投稿するときに、タイトルの「冬」を「ふゆ」に間違えてしまった。動画の文字と違っていて誤字だとすぐ気づいたが、いいね!をいただいた後だったので直さなかった。公開後に少し後悔した。
音楽的なコンテクストに触れておくと、ワルツとしてはキャロル・キングの参加していたバンド、ザ・シティに『スノウ・クイーン』という曲がある。
キャロル・キングとジェリー・ゴフィンの夫婦による作詞・作曲の名曲だ。ソフトロックの人気ソングライターであるロジャー・ニコルスも、他人の曲なのに自分のアルバムに入れている。冬といえば雪(スノウ)であり、その曲が思い浮かんだ。現在スノーという言葉の響きでいえば、音楽の生成AIであるSuno AIが思い浮かぶ。
アレンジに関していえば、サビのところはJAZZシンガーのレイヴェイの楽曲を思い浮かべた。ワルツ自体については、以前にエッセイを書いたことがある。どの拍を強調するかによって、曲の雰囲気が大きく変わる特徴があると思う。「10のまもりごと」の曲では、1と2の拍を強めにした。
参考までに、以前に書いたレイヴェイとワルツについてのエッセイは以下になる。
動画では歌詞の全体像が分かりにくいので、歌詞を書いておきたい。
冬にそなえる10のまもりごと
冬が来る前にやっておくこと
そなえる準備がある。
木枯らしの夜
凍える風景に佇んでも負けないように。
みずうみのほとりで
季節のとびらを開いて
確かめるよ
大切な10のまもりごと。
1. あきらめないこと。
2. 慈しむこと。
3. 笑顔でいること。
4. 赦しあうこと。
5. 空を見あげること。
6. たまにきみを想うこと。
7. うたをくちずさむこと。
8. 信じること。
9. 生きること。
10.春につなぐこと。
書き出してみて、ぜんぜん歌詞っぽくないなと思った。だいたいナンバリングした箇条書きの歌詞なんてあまりないだろう。変だけれど斬新に感じる。メロディ自体の繰り返しを避けたせいもあるのだが、型破りでいい。自画自賛。
「赦す」については調べて、この漢字にした。ひらがなでは同じ音の「許す」とは異なる。「罪や過ちを責めないでおくこと」の意味がある。
そこで思い出したことがある。もう既に世間から忘れ去られた印象があるが、東京オリンピックのときに、小山田圭吾さんの過去のいじめ発言が問題になった。
問題は問題として厳しい反省が必要だが、フリッパーズ・ギターやコーネリアスの音楽すら聴いたことがないような人々が、あれほどまでに悪意をむき出しにして糾弾したのは何なんだと思った。目を吊り上げて小山田圭吾さんを責める面々は、自分自身は何も責められたりしない完璧な清い人間、聖人なのか。そんな風に誰かの過去を発掘していたら、きりがないのではないか。
戦争に関するいくつかの問題についても同様かもしれない。もちろん責めるべきところは責める必要がある。だからといって、すべてを責める/攻める敵対関係に固執していたら、いつまでも平和にはならない。
過ちを赦すことができるのは、平和を希求する人間たちに必要な最高の徳ではないだろうか。当然のことながら、例外はあっていい。赦せない人間がいても構わない。ただし、できる限り赦そうとすること。歩み寄ること。
とりとめもなく書き連ねてしまったが、みずから作品の解説や裏話を書くのは三流であり、プロの場合は第三者の批評家に任せるべきことだ。
しかし、自分はプロの作家ではないし、ミュージシャンでもない。アマチュアなので書きたいように書く。三流で結構。というより本音を明かせば、制作秘話が大好きなのである。映画であればメイキングは、ぜったいに観てしまう。だから自分の制作秘話も書く。なぜなら読みたいからだ。
Xの投稿にも書いたが「冬」にはメタファとして耐えるべき時期、停滞期を示す言葉でもある。
人生において若い頃が春や夏だとすれば、ピークを過ぎて高齢になれば秋や冬がやってくる。冷え込んだ季節には、佇むだけでつらい。世間からの風当たりも厳しい。あったかいささやかな幸福を得るためには「10のまもりごと」が必要になる。
これは自戒である。守るべき10項目は個人によって異なるだろう。自分なりの「まもりごと(行動規範や約束)」を書き出してみるとよさそうだ。
政治家でいえば、まもりごとは公約になる。言及しても約束を守れない、守るつもりがないなら、まもりごととはいえないかもしれない。
ちょうどアメリカの大統領選挙が終わった。まもりごとは票を集めるためのキャッチコピーではない。アジテーション、扇動だけを目的とする過激な言葉であってはならない。慎重に検討すべきだ。
世界を冬に向かわせるようなまもりごとについては、その項目自体の見直しが必要ではないだろうか。約束あるいは行動規範には倫理観が必要である。排他的なルールは、平和や幸福のために役立つのか。違うだろう。利他的な思想が必要だと考えている。
2024.11.07 Bw