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エッセイの視点、文章の長さ、まとめ方。
『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』という本がある。1988年に発行されたアメリカのベストセラーだそうだ。
タイトルに惹かれていたものの、なんとなくビジネス書の雰囲気があって敬遠していた。ところが先日、古本屋の棚でみつけて読んでみると、まったくビジネスの匂いがないエッセイ集だった。なあんだと安心して買うことに決めた。ちなみに一緒に買った本は、アランの『幸福論』。まだ読まずに積んである。
文庫の紹介によると著者のロバート・フルガムは1937年生まれ、カウボーイ、フォーク・シンガー、IBMのセールスマン、牧師、バーテンダーを経験したらしい。本職は牧師ではないかと思うのだが、職業を問われると、哲学者と答えているようだ。経歴をざっと見ただけで面白そうな人である。
実際にエッセイの内容も楽しい。全体的に乾いた明るさがあり、おちゃめでいたずら好きな印象がある。そして、うまい。読ませる文章を書く。
文庫の3分の2ほどを読み進めて、彼のエッセイのうまいところの3つのポイントに気付いた。本来なら読了後に感想を書くべきだろう。しかし、後半に向かうにつれて著者の明るさが失われつつあるような印象を受けた。
そこで、ロバート・フルガムのエッセイのうまい書き方について、書き留めておいた。全部読み終わった頃には、現在の印象が消えてしまうかもしれないからだ。魔法が解けてしまうように。
ということを書いたのが金曜日の夜だったが、その後、土曜日に読了。魔法は残っていた。たまたま難しいテーマの文章を読んだ杞憂に過ぎなかったのだ。あらためて自分の考えをまとめてみることにした。
ロバート・フルガムのエッセイのうまいところは、次の3つにあると考えている。
視点:何気ない日常世界をクリスマスのように変えてしまう視点。
文章の長さ:少し物足りないぐらいの読みやすい短さ。
まとめ方:絶妙で小気味のよい印象に残るオチ。
感じたことを簡単にまとめていきたい。
まず視点。ロバート・フルガムが書くと、ありふれた日常がクリスマスのように輝き出す。クリスマスやハロウィンについて書いたエッセイもあるのだが、些末な出来事を書いた文章が特別な時間のように美しい。
たとえば、5月のニューヨークの昼下がり、雨の上がったセントラルパークで水溜まりに駆け込む男の子を叱る母親の話を書いた話(『水溜まり』)。
大人たちが次々に水溜まりに飛び込んで、みんな笑顔になる。子どもを叱っていた母親も、おそるおそる水溜まりに踏み出して微笑む。
ところが、それはフルガムの空想の世界だった。実際には、水溜まりに踏み込もうとした大人たちを残して、男の子と母親は立ち去る。気まずい雰囲気のまま、みんな解散する。このとき「水溜まりは、人がどこまで若い心を持ち続けているか評価する試験だった。その場に居合わせた大人たちは、全員、落第としか言うしかない」と考える。
著者は午後遅くに、水溜まりで無心に遊ぶことをやり直そうとして公園に行く。しかしながら、もはや水溜まりは乾いていて誰もいなかった。そんな話である。
映画のようだと思った。具体的な描写はないにも関わらず、セントラルパークのきらきら輝いた水溜まりが目に浮かぶ。そして、水溜まりを若い心を持ち続けているか評価する試験とみなす感性がいい。
この文章で、フルガムは現実の視点と空想の視点を重ねている。どこまでが現実にあった事実なのかを曖昧にして混在させたまま、文章を先に進める。日常の発見から目をそらさずに、理想や空想を重ね合わせて現実を再構成している。視点の切り口もさることながら、構成力が見事だ。
「空想」という言葉は、フルガムのエッセイの中に何度も登場する。空想を膨らませることによって、あったかもしれない現実を創作する。
隣人に薪の置き場を注意されて、こっそりアルバイトを使って隣人のクルマの中に全部薪を移動させる話がある(『夏休みのアルバイト』)。そんなことしちゃうんだ、大丈夫だろうか?と思っていると全部、空想上の話だった。会話文で書かれているので信じてしまった。
『祖父と星空』では、カタログで注文したいものとして、1984年の夏の朝を繰り返すこと、ソクラテスとの対話、ミケランジェロの工房を訪問など挙げた後で、生前の祖父に会う切実な願いを明かす。
事実を書くことだけがエッセイではないのだな、と考えた。空想を加えることで視点は豊かになり、世界が拡がる。
次に長さ。もしかすると掲載した雑誌などの制約のせいかもしれないが、ひとつのタイトルについて文庫本5ページほどで完結する長さが心地よかった。文字数にすると3,500字程度。なるほどなと思った。
5,000字ではちょっと長すぎる。1,500字では少ない。少し物足りなさを感じるけれど、さくっと読めて読み応えがあるエッセイやコラムの文字数は、3,500字程度なのかもしれない。書籍などの編集者は、体験的にコラムやエッセイの最適な文字数を知っているのだろうか。インターネット上の文章は、どうなのだろう。
そして最後にオチ。警句や金言ではないのだけれど、ああ、いいな!と思わせるラストのまとめ方に感銘を受けた。
たとえば、教会で80人の子どもたちを遊ばせる『あたしは人魚』では、著者は子どもたちをジャイアント(大男)、ウイザード(魔法使い)、ドゥウォーフ(小人)の3つのグループに分けて、じゃんけんに似たルールでゲームを始める。ところがグループ分けで、ひとりの女の子が「人魚はどこへ行くの?」とたずねる。
3つのグループ分けに人魚はない。だから「人魚なんて、どこにもいないんだよ」と伝えるのだが、女の子は「ううん、いるよ、あたし、人魚だもん」と答える。そこで著者は戸惑いながら考える。彼女は自分が何者か知っていて、ゲームを降りる気はない。誇り高く、妥協を知らず、著者に訊けば教えてくれると信じている。咄嗟に思いついて「人魚はここでいいよ。海の王様のそばだ」と言って手をつなぐ。
このエッセイの最後は、次のように終わる。
少女とわたしは手をつないでそこを動かず、魔法使いや、大男や、小人たちが床を蹴たててつむじ風のように走りまわるのを見学した。
そうだとも。人魚なんてどこにもいないというのは間違いだ。
わたしはひとり知っている。
手をつないだことがある。
思わず唸ってしまった。うまい。実は同様の同じ終わり方が『エンジェル家の人々』にもある。靴屋の話だが、次のようになっている。
伝道師のビリー・グレアムは言っている。天使は本当にいる。ただ、人の目に見えないだけだ。
わたしは本当の天使たちがどこにいるか知っている。直に合って、話もした。
わたしの知っている天使は、靴底を直すと同時に、人の魂をも癒す。
ちょっと村上春樹さんの文章に似ている印象もある。そもそも初期の村上春樹さんは、アメリカの文学のような小説を追い求めていたので共通するテイストがあるのかもしれない。
フルガムのようなエッセイストではなかったとしても、たとえば育児中に子どもたちの意外な発言にはっとさせられたり、買い物途中の店員の対応が面白かったり、生活していくなかで様々な発見がある。日常の発見や笑いを書いたエッセイや日記は、読んでいて笑顔になれる。こうした文章を書くとき、最後にフルガムのようなひとひねりのオチがあると、もっとよくなりそうだ。あるいは、空想を加えてもよい。
最初に書いた視点の面白さにもつながるのだが、メタファなどを使って現実を別の表現に置き換えるのもひとつの方法だ。具体的なできごとを抽象化して、アフォリズム(警句)風にまとめると印象に残る。
ロバート・フルガムのエッセイついて、視点、長さ、まとめ方から、うまいと思ったことをまとめてみた。実際にエッセイを書く際にも参考になりそうである。真似をするのは難しいかもしれないが、方法論のひとつとして意識しておこうと考えている。
最後に、もうひとつとても大切なことに触れておく。
彼のエッセイには、辛辣な批判、じめじめとした皮肉、相手への攻撃がない。彼を取り巻く人々、あるいは自分が大切に思うモノや時間に対する愛情に溢れていると感じた。だからこそ安心して読める。牧師を職業としているせいかもしれない。
心理学的に、人間は憎しみやネガティブな言葉に強く反応しがちなようだ。しかし、ほんとうに気持ちよく読める文章は、穏やかな木漏れ日のような気持ちを感じさせる文章ではないだろうか。少なくとも、そういう文章を書いていたい。ときに文章は武器になり、ペンは剣よりも強いかもしれないが、むやみにナイフを振り回す必要はない。
『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』では、クレドを挙げている。クレド(Credo)はラテン語で「志」や「信条」を表す言葉であり、ビジネスでは「行動指針」として使われる。
その意味では、最終章にある次の言葉に感銘を受けた。少し長いのだけれど引用しておきたい。
かつてわたしは、正確な言葉で物を言うことが何よりも大切と考えていた。今は言葉が、しょせん、正確ではあり得ないことを知っている。本当の人生は常に「工事中」である。もはやわたしは、文法や、比喩について人と論じ合おうとは思わない。肝腎なのは行動であって、言葉にさほどの意味はない。クレドなどはどうでもいい。問題は実人生である。
文章のテクニックよりも大切なことは、文章に取り組む姿勢である。文章は、よりよく生きるための思考および行動する道具としてある。生きざまは文章にあらわれる。書くよりも前に生きること、行動することが大切だ。
うまい文章のように生きられたなら、それで構わない。
2024.10.25 BW