2025年にあらたまる、3つの心構え。
新しい年がスタートしました。Brand New Dayという言葉が好きです。何かが終わり、そして何かが始まる時期。まっさらなノートの1ページに書き込みするような爽快感があります。
インターネット界隈では、新年にあたって抱負を述べている投稿をみかけます。2025年に達成したいことを100項目を挙げるようなひとがいました。やる気にあふれていて頼もしいのですが、チカラが入りすぎというか、欲張りすぎというか。
100の夢をあげる著名人(たとえばロバート・ハリスさんとか)に倣ったのかもしれません。ところが100項目をひとつひとつ読んでいくと「よく眠る」などがありました。それは夢なのか、目標なのか。
おそらく達成できないことを見越して、難易度を下げているのだろうなと感じます。ロバート・ハリスさんのように「いや、そりゃ無理でしょ」というぐらい大げさな夢を掲げるのがかっこいいのに。睡眠は大事ですが100分の1の目標になると、重要度が下がりそうです。
今年達成する100の目標のような投稿をみるたびに思い出すのは、映画『ブレードランナー』の1作目、屋台で蕎麦(ヌードル)を売っているおじちゃんの言葉です。
ハリソン・フォードの演じるバウンティハンター(賞金稼ぎ)のデッカードが、酸性雨の降り注ぐ街の屋台で、蕎麦のトッピングのようなものを4つ求めます。屋台のおじちゃんは首を振って「2つで十分ですよ」と言います。デッカードはさらに食い下がるのだけれど、頑なに2つを通すおじちゃん。印象に残るシーンでした。
「足るを知る」ことが大切ではないでしょうか。多ければよいというものではありません。デッカードは賞金稼ぎであるがゆえに、それが分かっていないのかもしれません。評価(いいね!)という賞金を稼ごうとするインターネットの住人にもいえそうです。
そんなわけで、今年に心掛けたいことを3つだけ挙げたいと思います。3つで十分でしょう。
数値目標ではありません。数値目標を掲げると、達成だけに注力するようになり数値だけが先走りして、結果としてプロセスがおざなりになってしまう気がしているからです。
仕事であれば、数値目標の達成が必要だと思います。ところが、プライベートで数値目標を掲げたら、日常が殺伐としたものにならないでしょうか。当然のことながらダイエットや貯金であれば、数値目標が大切です。ただし、なんでも数値化すればよいというものではないと思います。
2025年を穏やかに過ごしたい、少しでも幸福になりたい。そのための行動指針(トレド)というか、マインドセット(心構え)のようなものかもしれません。2025年に心掛けたいことを3つだけ整理します。
1)ミニマル・ライフを追究する。
足るを知るにつながることですが、ミニマル・ライフを追究したいと思います。これ以上モノを増やさない。大切なものを絞り込み、長く使う。捨てることが苦手なため、部屋に余計なものが増えています。今年こそは少しずつ何とかしたいですね。
いま所有している本や音楽のCDは、最低限のものに絞り込みたいと考えています。2つの選別基準を考えていて、第一に歴史的に評価の高い名作や名盤は残す。第二に自分の思い入れがある個人的な名作や名盤は残す。
捨てるのは、何度も読んだり聴いたりすることがなさそうなものです。時代遅れのビジネス書、技術解説書は不要といえます。しかし、選別できるだろうか。不安。
たとえば、明日、地球が破壊されて人類が滅亡するとします。
本や音楽や映画が趣味の自分にとっては、明日までしか生きられないなら、とてつもない絶望に襲われることでしょう。二度と読めない本、聴くことのできない音楽、観ることができない映画のために発狂するかもしれない。
しかし理想をいえば、今日と同じように本や音楽や映画を楽しみ、地球の終末が訪れても「あっ。今日でおしまいなのか。まあ145ページまで本を読んだからいっか」という感じでジ・エンドを迎えたい。本棚には数冊の愛読書、ヘッドホンで聴ける数枚のお気に入りのCDがあればよい。映画はオンデマンド配信でオッケー。
哲学者カントは「これでよい(Es ist gut)」という言葉を残して世を去ったそうです。そんなにかっこよくなかったとしても、明日も今日と同じような日々を送ることを前提として、最期の日を過ごしたいものです。
というのは理想であり、実際にはそうはいかないだろうと思いますけどね。
ところで、個人的にインドアライフに心地よさを感じることから、あまり出かけたり旅行をしたりすることに魅力を感じません。もちろん趣味はひとそれぞれです。旅行を楽しむ気持ちも分かります。
率直なところ「どこかに旅行しなければ満足が得られないのであれば、いまの生活に対して満足していないから、不幸だからではないか?」と考えてしまいます。
もちろんそれは、自宅生活の至上主義者による偏向な考え方でしょう。家にいてもまったく退屈しない、むしろ楽しいと考える自分には、旅行に行かなければ満たされない気持ちがさっぱり分かりません。え、別に家にいるだけで幸せじゃん、なぜお金を使って出かけなきゃならんのかな、と。
つまるところ、価値観はひとそれぞれです。
旅行好きのひとにとっては「いやあ、それはおまえ人生をムダにしているぞ」「ただ金がないだけだろ」「視野が狭すぎ」などと言われそうです。その通り。反論なし。でも、だからといって腹は立たないし、ショックも受けません。まあそうだろうな、と思うので。
究極のことを言ってしまえば、価値観の違いは、同じ人類であったとしても二十億光年離れた遠くの惑星に住む異星人と対話するようなものです。だから分かり合えない。
しかし、他人がどうであれ自分の価値観だけを大切にして、それ以外のものはばっさり切り落としてしまうのが、究極のミニマル・ライフであると考えています。
捨てなければならない余計なもののひとつに「他人の価値観」もありそうです。ぶれない自分軸の価値観があれば、余計なものをしょいこむこともなくなります。
その意味では、たとえ歴史的な名盤、名作、Amazonで評価されている作品であっても「ああ、これは自分にはつまらない。だからいらない」という選択がありそうです。
2)キョウソウから降りる、モウソウを抑制する。
哲学者である中島義道さんは、かつて著作で「人生を半分降りる」ということを語っていました。この言葉が非常に印象に残りました。全部降りるのではなく、半分降りる。しかし、降りてしまったほうが楽になることが多い。
中島義道さんの言葉を参考にして考えたのが「キョウソウから降りる」ということでした。
キョウソウという言葉には、競争、狂騒、強壮などがあります。共創や協奏は、ありだと思います。しかし、まずは「競争」から降りるのが、いちばん幸福な生き方だと考えています。
人生には無駄な競争が多い。たとえばSNSなどの評価(いいね!)、アクセス数を競うことは、めっちゃ無意味だと感じています。また受験自体は意味があると感じますが、それが競争主体になると狂騒化します。あるいは会社や社会におけるマウント。「おまえよりおれが優れている」というアピール合戦は、不毛でしかありません。
競争が熱くなるのは、どんぐりの背比べ状態、つまり同等レベルの仲間うちで比較するからです。しかしエントリーされていない猛者、上には上がいるものであり、上位者には歯が立ちません。そもそもハイレベルの優れた人物は、低俗なアピール合戦自体に加わらないものではないでしょうか。
本当に優れているひとは余裕があります。だから、他人に自分の優位性を訴求する必要がありません。弱いイヌほどよく吠え、他人からの評価を亡者のように欲しがり、誰かと比べて悔しがるものです。その悔しさのために眠れなかったり、体調を崩したりする。ばかばかしいです。
この競争や狂騒を加熱させる要因として、誰かが自分以外の他人を評価している、自分を蔑んでいるという「モウソウ」の働きが大きいと考えます。だからモウソウを抑制したい。
自分が他人から評価されても蔑まれても、人間には絶望がつきまといます。なぜ蔑みだけでなく評価が絶望につながるのかといえば、高みに登れば、あとは落ちるしかないからです。
猜疑心、嫉妬は人間の身体を著しく蝕みます。自分が生んだ感情にも関わらず「こんなに苦しいのはあいつのせいだ」と憎しみを生みます。
ではあいつを変えられるかといえば、他人はコントロールできません。制御可能なのは自分の心身だけであり、変えようのないものを変えようとするから苦しむことになり、苦しみが苦しみを生み、無間地獄に陥ります。
狂騒という意味でいえば、インターネット上に流れる不毛な情報も大きな問題です。だから、余計なことに惑わされないように、情報のシャットアウトが求められます。
ワイドショー的なゴシップ、いい大人にも関わらず子どもどうしのような喧嘩、何か売りつけることを目的とした広告、目立ちたいだけのインフルエンサーの言動、目を覆うような映像など。気持ちをざわつかせる余計なものから遠ざかる選択こそが、狂騒から降りることであり、21世紀の情報化社会における自己防衛の大切な手段のひとつです。
ただ、戦争や地球温暖化のような問題については、見過ごすわけにはいかないですね。直視しがたい大きな課題ではありますが、逃げてはいけない気がします。
3)自分に集中する、ループさせる。
狂騒または競争から降りることは、日々の生活を穏やかに生きるための消極的な方法です。一方、積極的な方法としては、夢中になる時間を増やすことを大切にしたいと考えています。
ゾーンに入る、フローを体験するということが言われます。趣味でも構わないし、仕事でもよいと思いますが、何かに没頭する時間が満たされない気持ちや絶望から心身を救います。
人生の価値を高めるためには、日常のあらゆる場面において「自分濃度を上げること」が大切だと考えました。
「自分濃度」というのは、造語で伝わりにくいかもしれません。意味としては、自分の意識において自分に対する集中度を上げ、逆に他人や自分以外の雑音によって割かれている要素の比率を下げることです。たとえば自分事60:他人事40の状態よりも、自分事90:他人事10の状態にあれば「いま・ここ」に生きる実感が高まるのではないでしょうか。この自分比率の高まりこそが、幸福度のような気がしています。
幸福というと、何かふわふわした浮遊感、ぼんやりとしたとりとめのない高揚感を思い浮かべがちです。しかし、こころのなかの雲が晴れ渡るような状態、くっきりと視界の解像度が高まり、五感がフルに働き、自信にあふれた状態もあると思います。多くの場合、自分以外の存在が自分の視界を曇らせます。このノイズを取り除くことで思考はクリアになる。
このとき、他人事を自分事として考えられたなら、自分の比率が高まると考えます。要するに利他的であることは、自分の存在価値を高めます。
社会問題を他人事として考えている以上はノイズでしかありませんが、自分事として考えられたなら、もはや他人事では片付けられません。そこに他人の存在とのつながりが生まれ、それが自分の「いま・ここ」の存在価値に紐づけられます。自分と他人をリンクさせることも、幸福度を高める大きな架け橋になります。
濃度をノード(node)と置き換えれば、ネットワークにおける「点」になります。つまり「結び目」のことです。そこから多数のエッジ、枝を伸ばすこと。自分濃度を高めるといっても自己完結するのではなく、自分を起点として世界に向けて、たくさんのつながりを増やすことも大切です。
さらに自分濃度を上げること、自分率を向上させた状態を、一度きりで終わらせることなくループさせることが重要であると考えます。分かりやすい言葉でいえば「習慣化」です。
体験は一回性のものであり、感情を含めた心身の状態はすぐに移ろってしまいます。多くの場合、幸福に対する不信感が生まれたり、幸福が不幸に変わったりするのは、幸福な時間が長続きしないからです。しかし、再現性のある状態を実現できたなら、満ち足りた状態を持続できるのでは。
ではどうするかといえば、何度も繰り返すこと、同じ状態を再現するためにループさせることです。習慣化させることで、最初は細い道であったとしても、踏み固められて固くなり、しっかりとした道に変わります。
そのきっかけは、第一歩の行動を起こすことにつきるでしょう。些細な習慣でよいと思います。英語の学習、歩くこと、身の回りを掃除すること。ささやかな習慣の行動を起こし、その時間に集中することを大切にしたいと考えています。
アランの『幸福論』を読んで印象に残ったことが、この「行動を起こすこと」でした。果報は寝て待てとはいうものの、幸福は待っていても手に入りません。行動自体に幸福感が含まれることもあります。
まとめ
というわけで、2025年の目標というより「2025年にどんな心構えで日常生活を送りたいか」という非常に抽象的なことを書きました。
年齢を重ねた現在に考えるのは、具体的な目標よりも抽象化された心構え、少し大げさに言ってしまえば「哲学」が大切だということです。
ビジネス的な言葉でいえば、戦術(タクティクス)より戦略(ストラテジー)なのかもしれません。というのは、戦略が決まれば、いかようにも動けますが、戦術を固定させてしまうと融通が利かなくなるからです。また、戦術のようなものは、インターネットを通じて全体に公開しなくても、手帳に書いておけばよいのではないでしょうか。
若い頃には「朝、いつもより1時間早く起きて勉強すること」のような日常を充実させる秘訣、ライフハックに「そうだよなあ」と共感することが多々ありました。いわゆる「今日から使えるTips」のようなものばかりを読みました。でも、最近変わりましたね。なんとなくそういう内容を読んでも、こころに残らない。したがって、そういうビジネス書はもういらない。
とはいえ、いま世の中に求められているのは、タイパがよく即効性があるものだと思います。したがって、こういう抽象的な内容は(5,000文字も書いてしまったけれど)意味がないかもしれませんが、自分のためということもあり、ネットの海にそっと投げておきます。
2025年、素晴らしい一年になりますように。
2025.01.04 Bw