時間と映画、時間と音楽。ミニマムなループがもたらすもの。
気がつけばもう10月も5日が過ぎているではないですか。そんなつぶやきが思わずこぼれてしまう。いまだに30度を越える真夏日があるかと思えば、涼しい夜があり、袖を長くすべきか短くすべきか悩む。ちなみにいまは半袖。8月と同じ季節感ナッシングな服装である。
数日前の真夏日に消耗したせいか、疲労が甚だしい。ビタミンB群のサプリを飲んだけれど体力も気分も上がらず、仕方なく昨夜は転がってAmazonのプライムビデオで『リバー、流れないでよ』という映画を観た。
これがとてもよい作品だった。鑑賞が終わると薬では上がらなかった気分が向上し、元気が出た。趣味は百薬の長。映画にまさる良薬なし、といったところか。
『リバー、流れないでよ』は、時間のループを描いた作品である。和製英語らしいが、タイムリープ(time leap、時間跳躍)がテーマだ。
あらすじを簡単に説明すると、舞台は冬の京都。貴船の老舗旅館で突然、午後の2分間だけループされるようになる。時間は繰り返されるけれど、そこにいる旅館のスタッフや宿泊客の意識はそのままである。ループで話した内容や、できごとをしっかり覚えている。
それにも関わらず、強制的に2分前に巻き戻されてしまう。長く話すには2分は短すぎる。せっかくいいところまで話したのに中断されてしまい「この続きは次の2分で!」という感じで「初期位置」のふりだしに戻る。「私の初期位置はあそこです」みたいな会話がおかしかった。そうやって繰り返される時間に翻弄され、さまざまな混乱が起きる。登場する人物のそれぞれの生き様を描いた群像劇である。
はじまりの数分間は観光紹介の動画かな?という雰囲気だったが(あえてそうしたのかもしれない)、その後の急展開で笑い、ちょっと泣き、そして役者さんたちの台詞や演技が可愛いと思った。
冒頭の美少女は誰だろうと思ったら、アイドルだった。乃木坂46の久保史緒里さんという方らしい。一方、ミコト役の藤谷理子さんがアイドル顔負けの演技をしている。
ゆく川の流れは絶えずして、もとの水にあらずというが、ミコトは貴船川を巻き戻してしまいたい悶々とした気持ちを抱えている。このまま時間を止めてしまいたいのだ。なぜ時間を止めてしまいたかったのか?については、ここでは語らない。その理由が、いじらしい。
どれだけ未来を生きようとしても現在にとらわれて、2分間を繰り返されるのであれば、人間はどうするのか? その結果が笑いを誘う。
映画というよりも演劇を観ているような印象であり、さすが演劇集団でもあるヨーロッパ企画といえる。しかし『ドロステのはてで僕ら』と比較すると、圧倒的に映画だった。これでもかという巻き戻し状態を通じて、それぞれの抱えている悩み、期待、やるせなさが表面化していく経過が面白い。
2分前に片づけたはずの料理の膳が元通りになっていて、番頭とミコトが「デジャ・ブがすごいんですけど」みたいな台詞を言って困惑する場面では、ビル・マーレイ主演の『恋はデジャ・ブ』を思い出した。デジャ・ブは「既視感」。いつか同じ場面を見た気がする、同じ体験をしたことがあった気がする、という眩暈をともなう感覚だ。
『恋はデジャ・ブ』も「時間の巻き戻し(タイムループ)」を描いた作品である。
春の到来を祝う2月2日の「Groundhog Day」の1日が繰り返されてしまうストーリーであり、テレビキャスターのフィル(ビル・マーレイ)が朝に目覚めると時間が戻っている。繰り返しを何度も経験するうちに、あらゆることが予測できてしまうようになり、彼はうんざりする。やけっぱちになって、クルマで崖から飛び降りるなどのむちゃをする。ところが、いつか諦めは悟りに変わり、語学を勉強したりピアノを弾いたり、人生を楽しむようになる。そして彼は……。
以前に観たヨーロッパ企画の『ドロステのはてで僕ら』も時間のループの物語だった。この作品では、カフェの店長が2分後の未来から自分に向けたメッセージを受け取るところから始まる。そして、カフェに訪れる人々を巻き込み、未来を見ることによって何か儲けられないか?などといった悪事までたくらむようになる。
『リバー、流れないでよ』と同じように、2分という時間がキーワードなのだが、この2分に意味があるのだろうか。カップラーメンができあがり、ウルトラマンがパワーを失う3分間より短い。
ヨーロッパ企画の代表は上田誠さんであり、森見登美彦さんが原作の『四畳半神話体系』や『サマータイムマシン・ブルース』なども手掛けられている。2分の理由を探したところ、インタビュー記事をみつけた。このようにお話されている。
なるほど。思えば、X(旧Twitter)にアップロードできる時間は140秒、2分と20秒だ。もともとTwitterが140文字の制限があったことに由来していると聞いたことがある。
数年前からDTMでツイッターに公開できる音楽を作っているのだが、確かにミニマムな時間制限のなかで作り込むことは楽しい。ぎゅっと凝縮した濃厚な創作時間を過ごせる。
ところで、ここまで上げた映画のプロットでは、タイムリープをする理由が自分の能力ではないだが、自分の能力で時間を跳躍する映画もある。邦画では筒井康隆さんの原作である『時をかける少女』は、大林宣彦監督のほか、いくつもリメイクされている。アニメでは最近観た『夏へのトンネル、さよならの出口』にもタイムリープではないが時間跳躍の場面があった。
洋画では『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズを筆頭に『TENET テネット』などなど。こうした映画ではリープできる時間のレンジは少し広くなるが、時間制限がある場合が多い。
実はあまり時間がループするテーマの映画を観ていないことに気が付いた。そこで時間が繰り返される映画を調べるとともに、このテーマでいくつも映画を観たいと考えた。
ざっと調べて、時間がループしそうな映画をリストアップする。
【洋画】
『アバウト・タイム~愛おしい時間について~』
『オール・ユー・ニード・イズ・キル』 2024.10.06 鑑賞
『コンティニュー』2024.10.07 鑑賞
『LOOP ループ 時に囚われた男』
『LOOPER/ルーパー』
『ハッピー・デス・デイ』
『ハッピー・デス・デイ 2U』
『パーム・スプリングス』
『ミッション: 8ミニッツ』
『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』
【邦画】
『MONDAYS このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』
『君が落とした青空』
『ペナルティループ』
『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』
鑑賞を終えたら、感想を追記していきたい。既に鑑賞した作品で忘れているものもあるかもしれない。
なぜ映画やSF小説で時間をテーマが取り上げられるか?
時間は流れて失われるばかりであり、二度と同じ時間を繰り返すことができないからだろう。どんなにお金を出しても、時間を巻き戻すことだけはできない。だから時間には、絶対的な価値がある。
原始時代にはどうだったか知らないが、特に現代においては、時間の価値は急騰している。コスパ(コストパフォーマンス)ではなく、タイパ(タイムパフォーマンス)という言葉もよく目にするようになった。生成AIや人工知能は実現しつつあるが、いまだにタイムマシンは完成しそうにない。だからこそ、映画や小説のテーマになる。
時間をテーマとした作品が多いとはいうものの、そもそも「時間を巻き戻す」の「巻き戻す」感覚自体が失われているのではないか。
かつて、ビデオデッキという機械があった。見たことがない人もいると思うので解説すると、テープに磁気で映像を記録する装置である。テレビに接続して録画した。テープがなくなると途中で録画が終わってしまい、頭を掻きむしることになる。そして、いったん観終わったビデオテープは巻き戻して観ることが必要だった。
DVDやBlue-rayディスクなどを経て、デジタル配信が主流の現在では、スライダーを使ったり時間を指定したり、巻き戻すことがなく映像を再生できる。したがって、ビデオを見たことがないひとが増えているのではないだろうか。音楽を記録するメディアも同じ進化を辿ったが、オーディオのテープについては、最近は需要が増えているようだ。
一方で制作の場面では、映像は簡単に切り貼りできるものになった。AdobeのPremiere Proをよく使うのだが、Canvaなどでも映像編集ができる。必要な部分をトリミングして使い、音程はそのまま動画の長さを調節して使える。短い素材を繰り返せばループになる。
名画として名高いジュゼッペ・トルナトーレ監督の『ニュー・シネマ・パラダイス』では、戦時下にカットされたキスシーンが残されていて、映画監督になったトトが映画館で、さまざまなフィルムをつなぎあわせた映像を観る。遠い昔にはテープでフィルムをつなぎ合わせていたが、いまはデジタルで簡単に編集が可能だ。
映画と音楽は時間の芸術という点では同じであり、いま音楽の制作、DTMでも同じようなことができる。いわゆるドラムトラックだけのループ、サウンドエフェクトの素材を切り張りして音楽が作れる。時代を少し戻せば、ある音楽のフレーズを使うマッシュアップ、サンプリングが注目された時代があった。いまではデフォルトなのだけれど。
ループというキーワードでいえば、ルーパーというエフェクターがある。印象的だったアーティストとしては、エド・シーラン、KTタンストールをよく聴いた。日本ならAnlyさんとか。リアルタイムひとり多重奏という感じで、ギターを弾いたり叩いたり、歌を何度もハモったりして、その場で音楽を組み立てていく。かっこよかった。
一般的なポップスは、イントロ→Aメロ→Bメロ→サビ→エンディングといった進行がある。いわゆる小説のような構造で、はじめ・なか・おわりという完結した流れになっている。
しかし、いま個人的な関心をいえば、はじめからおわりまでの展開がなく、ずーっとループで無限に続いていくような音楽に魅力を感じる。音楽のジャンルについて詳しくないのだが、ミニマル・ミュージックなのかもしれない。永遠に聴いていられる音楽。それがいい。
思えば、人生もループみたいなものではないだろうか。
今日が始まり、夜になる。夜を過ごせば、朝が来る。明日になる。そうやって繰り返されていくのだが、今日と同じ明日はないし、明日と同じ明後日もない。ループの上に、まったく違う今日が重なる。
『リバー、流れないでよ』では、リセットされて繰り替えされる時間のなかで、それぞれの登場人物が言えなかった何かを語り始める。なぜループされるのか理由を考え、よりよく生きるために対話を試みる。もちろん永遠に「いま」を繰り返すのは楽しい。語り合いたい人々と一緒にいられる時間は尊い。けれどもやがて、誰もが未来を生きようとする。ループから脱出して、二度と戻れない日常を生きようとする。
この感覚。哲学がよく分からないままに語るのだけれど、ニーチェの永劫回帰はこういうことを言いたかったんじゃないかな?と考えている。たぶん違う。でも、そういうことにしておく。
いまと未来を生きたい。ループを肯定しつつ、繰り返される日常から脱出を試みつつ、時間を前に進めたい。
2024.10.05. Bw