旧甲州街道ウォーク㉛ 韮崎宿→台ケ原宿
こんにちは、ばーどです。
2024年10月20日(日)。
山梨県横断の最終日。甲州街道の宿場間の最長区間に挑みます。
距離が長い上、予想以上に見どころ満載。さらに天気が良く、風景も美しい。
というわけで、かなり長~い記録になります。
1.七里岩
七里岩は、韮崎から北に約30km(≒七里)続く細長い断崖のこと。八ヶ岳から流れ出た土砂の塊が釜無川と塩川に削られてできたといわれています。
釜無川の氾濫で甲州街道が通行不可となったときの裏街道が、七里岩の上を通る道です。明治末期開通の中央本線も七里岩の裾を上っていて、いかに川沿いの低地が敬遠されていたかわかります。
裏街道の上りは青坂と呼ばれていました。現在は整備されて七里岩ラインと名付けられているようですね。
今日の行程は、コンビニも少ない地域を通るため、軽食と水分とトイレ対策は重要になります。ここで朝食を調達。
2.祖母石(うばいし)
右の脇道を進みます。
祖母石(うばいし)集落に入ります。かつては幕府領だったそうで、なまこ壁や長屋門の旧家が今でも残る地区です。
江戸から四十里目、祖母石の一里塚があった場所は不明、のようです。
釜無川の氾濫で、甲州街道は何度もルートが変わっています。
代表的なルートは、このまま国道沿いに釜無川の左岸を行くもの、もう1つは川を渡って右岸の山裾を進むもの。
前日から考えて、国道よりは山裾を進む、後者のルートを選ぶことにしました。
釜無川を越えるためには、橋がある場所まで迂回する必要があります。
3.釜無川
何度も書いてきた釜無川、ここで初対面。
水量は少ないが、まさに暴れ川らしく、川幅が広く大きな岩がゴロゴロしてます。
明治初期に4村が合併した清哲村は、旧村名を合体した地名。水上(→さんずい)と青木(青)で「清」、折居(折)と樋口(口)で「哲」。
このアイデアはどこから出て来たのか。ひらめきの天才か、漢字の知識に豊かな人物か、非常に面白いです。
そんな清哲村も、今は韮崎市の一部になってしまいました。
4.徳島堰
このルートを選んだ理由のひとつが、徳島堰(とくしませぎ)沿いの道であること。
江戸の商人、徳島兵左衛門が甲府藩主に申し入れ、1665年から開削を開始。釜無川の上流から等高線に沿って17kmを通水させ、おかげで周辺に多くの新田や集落ができたという。
昭和40年代には近代的な灌漑用水として整備されて果樹園の開発が進み、令和4年には国の登録記念物に指定されています。
円野も明治初期に上円井・下円井・入戸野の3村が合併し、円と野をとって作られた地名です。清哲ほどトリッキーではなく、スタンダードなタイプ。
徳島堰の水量は豊かで、その場所の傾斜は水路の幅などにもよるが、時折波を立てながら激しく流れています。
釜無川左岸のルートを進んだときは、あの赤い橋を歩くことになります。
徳島堰は地形により蛇行しながら、だいたい北西から南東方向に流れています。一方で南アルプス山系から発する無数の沢の流れは南西から北東方向に。
つまり、ほぼ直角に交差しています。
自然の沢と交差する地点で、水路を暗渠にして地中を通すのが一般的なようで、ここでもそうなってました。
わずかな高低差を生かして、水路と沢をクロスさせる、江戸時代の水路開削とは思えない技術に、感服です。
5.円井(つぶらい)
下円井集落は、なまこ壁の蔵や長屋門を備えた旧家が、街道沿いに続いていました。
なかなか見えなかった八ヶ岳。雲が流れて、その姿がだんだんと見えるようになりました。
徳島堰の取水口がある上円井集落に入りました。街道はここで水路と別れます。
江戸から四十一里目、上円井の一里塚があったとされる場所は不明です。
円井は甲州街道の宿場町ではありませんが、駿河と信濃を結ぶ駿信道との分岐点であり、旅人で賑わいをみせたそうです。
徳島夫妻が眠る寺へ通じる道だそうです。
徳島堰沿いの街道は、八ヶ岳や南アルプスを望み、なまこ壁や長屋門が残る集落を通る、予想以上に感動するルートでした。
このチョイスは、結果的に◎です。
6.武川(むかわ)
今日の帰りは、このバスに乗る予定。本数少ないので要注意です。
しばらくぶりのコンビニで休憩。
トイレを借りながら、水分と糖分を補給。
2004年に7町村が合併して誕生(その後1町加わる)。山梨県最大面積の自治体で、避暑地として有名な清里や、名水の里の白州が含まれています。
交通量が少ないとはいえ、何とひとりでの作業。車に気を付けてください。
分岐点にある「むかわ町の駅」に“武川村 米の郷”と書かれています。
昨夜、韮崎のホテル近くで入った焼鳥店の店主が「武川の米は昔から有名」と話してました。江戸時代にも徳川家献上米が生産されていたそうです。水と空気がきれいことも理由でしょう。
旧武川村は、南の小武川と北の大武川に挟まれた地域。さきほど小武川を渡り、次は大武川ですが・・・。
韮崎宿を出て4時間半、13km。普通だったら宿場町を2つか3つ過ぎている距離です。
この日は秋晴れの好天、道がなだらかで、街並みや山が美しく、街道ウォークを楽しめているのは、実に幸せです。
7.三吹(みふき)
大武川の先のルートも複数あるようですが、国道を離れる道を選択。
三吹の地名は、釜無川・大深沢川・尾白川の3本の川が合流する(吹く)ところからつけられたといわれます。
昭和34年の台風により土砂崩れが起き、20人以上の命が奪われたという。
川の合流地点の水害。過去の経験や治水対策で、乗り越えてほしいと願います。
一般的な火の見櫓は上に立つスペースがありますが、これは梯子だけ。半鐘を打つにも片手は梯子につかまる必要があるし、結構ハードだと思いますが。
これは日本橋からではなく、甲府を起点に七里目であることを示す一里塚が、ここにあったことを示すものです。
8.はらぢみち
橋詰の左側に立つ「甲州街道古道入口 はらぢみち」の石標。
尾白川に沿うように草道が伸びてますが、これが旧街道ですね。
1776年建立の馬頭観音が道標を兼ねて、
右 かうふみち (甲府道)
左 はらぢ通 (原路道)
と刻まれています。
草地を通るから“はらぢみち”かと思いましたが、後で調べるとちょっと違いました。
釜無川沿いの“河路(かわじ)”に対して、川の氾濫したときの代替路として七里岩の上を通る“原路(はらじ)”が設けられ、その原路が七里岩から下りて、尾白川沿いにこの道に繋がっているようです。
ようやく台ケ原宿の入口に到着しました。
9.<第四十一番>台ケ原宿
地元の名産品や作物、骨董品、アート作品などが、街道沿いに出展しています。
好天の週末で多くの人々が訪れており、静かな宿場町を期待していた人には残念ですが、旅人で賑わう往時の宿場町を思い起こしながら、楽しむことにします。
宿場の中ほどには、銘酒「七賢」で知られる山梨銘醸がありました。
信州の酒造業から分家し、白州の名水にほれ込んだ初代が1750年に創業。
その斜め向かいにあるのが、1902年(明治35年)に開業した、金精軒。
名物の信玄餅や団子を買い求めるお客で大混雑でした。
茶壺道中とは、江戸幕府が毎年宇治茶一年分を取り寄せて将軍に献上した行事。往路は東海道、復路は甲州街道・中山道経由だったそうです。
勝沼宿手前にある横吹の一里塚跡以来の十三里ぶりの“一里塚跡”です。
町の終わりが近くなっても、街道沿いには古民家や蔵が残っています。
さきほどまでの喧噪から離れたので、少し落ち着いて宿場町の雰囲気を味わうことができました。
最長区間を、歩き切りました。
早朝に韮崎宿を出て、時刻はもう昼を回っています。長かったけれど、様々な景色と出会うことができ、充実したあっという間でした。
韮崎宿→台ケ原宿
距離 17.5m
所要 5時間15分(休憩除く)
今日はあともう1区だけ、山梨県最後の宿場である教来石宿まで行きます。