各々其ノ所ヲ得
相手からポロっとこぼれた言葉が、その本音をあまりに端的に表していることが、ままある。その一例が、私と同僚たちのあいだで時折想起され冗談のネタにされている、社会福祉協議会のある男性の言葉だ。
「どこの馬の骨かわからないNPO」
同僚が言われたと聞いて、当初は憤った。でもよくよく考えると、大変興味深い。そしてやがて、冗談のネタになった。
ドクサと象徴暴力
当時、生活困窮者自立支援制度の発足を機に、社会福祉協議会が困窮者支援に乗り出したところだった。私たちはそのずっと前からホームレス支援、困窮者支援に携わってきている。なので我々からすれば、社会福祉協議会は突然「業界」に参入してきた新参者でもあった。だから、
どこの馬の骨かわからない社会福祉協議会
という捉え方だってできる。
しかし男性はそんなふうに見られる可能性などまったく想定していなかったのだろう。それが却って冗談好きの私や同僚たちのクスクス笑いを呼び、悪ノリさせてしまったのだった。
どこの馬の骨かわからない天下り
どこの馬の骨かわからない社協のオッサン
こんなふうに、さまざまなバリエーションが作れるのである。
……いかんいかん。
立場によって見え方が異なるのはごく正常なことであり、私たちの立場からすれば、こんな表現だって成り立つのだ。そんなことも想像できず、堂々と「どこの馬の骨かわからない」と平気で相手に言えてしまう人は、平等やフェアネスについて考えたこともないのだろう。そういう意味で、福祉には向いてないことは間違いない。
冗談が尽きたところで彼の部下の皆さんの大変なご苦労に思い至り、切ない気分になるのだった。
しかしまぁ。
なぜこんなふうにサラッと失言できてしまい、なぜそれが失言であるという自覚を持たずに過ごせるのか。
「地域福祉」の領域からすれば新参者の私には、地域福祉はこの手のエピソードの宝庫である。よくわからない上下関係が自明とされていて、それはブルデューのいう「ドクサ」と言って差し支えないだろう。
「ドクサ」とは平たく言ってしまえば、本人にとってはあまりにも当たり前すぎて対象化困難な、それでいて決して客観的事実ベースではない、ある種の思い込みを意味する。ブルデューはこれに権力関係を構造化する基盤を見出した。
天下り職員から「どこの馬の骨かわからないNPO」と言われることに「は?アナタ何言ってるわけ?」ではなく「悔しいけれど、そう言われてもまあ当然だわ…」と思ってしまった瞬間、私たちは彼のドクサを承認し受け入れ、正統で自明のこととして飲み込んでしまうわけだ。
支配する者が支配される者に自分の価値観を押し付け、承認させ、飲み込ませ、言われた方が「そう言われてもまあ当然」とその正統性を是認し、それに沿った思考や認識をするようになる、そのように働く権力をブルデューは象徴権力と呼んだ。象徴権力は一見暴力には見えないが、支配される側の思考や認識に作用することで物理的暴力よりも強力に既存の社会秩序を構造化するチカラとして作用する。その点に注目し象徴暴力ともされる。
Twitterでも言及したが、なぜか社会福祉界では「文化資本」「社会関係資本」は好んで言及されるのに、その基盤となる「ドクサ」や「象徴暴力」とそれらとの関係はあまり言及されない。過去に社会福祉士の国家試験に出た「ハビトゥス」だって「構造化する構造」、つまり権力関係の再生産メカニズムの基盤ユニットを身体性の観点から捉えたものであって、決して権力関係を無化した議論をするためのものではない。
「文化資本」や「社会関係資本」だけでなく「経済資本」さえ、それが「資本」とされるのは象徴暴力あってのことなのだ。文化資本が文化資本であるには、経済資本が経済資本として通用するには、人々のあいだで「何が資本なのか」をめぐる暗黙の同意があってのことなのだから。その同意が不断に生成維持されることで初めて、例えば「高尚な趣味」といった認識のカテゴリーが再生産され、文化資本が文化資本とされる社会秩序が再生産される。
天下り職員氏は「NPOよりも社会福祉協議会のほうが上位」という「秩序」を当然視し、相手も当然視している前提で、とても素直に「どこの馬の骨かわからないNPO」と言ってしまったのだろう。
残念ながら、地域福祉現場ではよくある話だと思う。頂点に福祉事務所。その下に社会福祉協議会。その下に社会福祉法人。その下に株式会社、NPO、一般社団法人など。その下位にボランティア。それらは法制度とも相まって、行政からの委託事業の数や金額とか、古さとか規模とか、細かく周到に階層づけられている。おそらくそれぞれの内部でも、個々人がきめ細かく階層構造のなかに配置されているのだろう。
(だからパワハラが起きやすいのかも)
職人芸
ところで。
アカデミア界隈でも、こうした象徴暴力の働きに無頓着な決まり文句がごく自明の価値観として通用しているようで、どう反応してよいか困ることがある。
例えば、現場で日々を過ごすことで自覚せぬうちに学習される、暗黙知のような技能。「職人芸」「名人芸」と呼ばれるアレである。
「職人芸」は、福祉現場で働く者に知らず知らずのうちに身についてしまうので、通常はそれがどのようなもので、どのように習得されるのかを簡単には説明できない。だがそれはしばしば、
「職人芸は容易に継承できない」
そして
「社会福祉には人々に平等なサービスを提供するという理念がある」
ゆえに
「専門教育を通し容易に継承可能ではない技能は平等に提供できないので逸脱である」
したがって
「逸脱である職人芸を専門性とは認められない」
なので
「専門性ではないので、職人芸には対価を与えてはならない」
という論理で語られる。簡単に言ってしまえば
いやしくも福祉界で働く者は、標準から外れて高い能力を発揮したとしても、平等なサービスを提供する責務があるので、その対価を期待してはならない。
職人芸はタダでやりなさい。
ということになる。
…いったい何の権利があってタダ働きを強いるの?
不思議でならないのは、現場人にもこうした決まり文句に「もっともだ」と感じる人がそれなりにいることだ。職人芸を身につけていない新人現場人であれば、そう考えるのも不思議ではない。職人芸の価値を下げることによって、相対的に自分の価値を引き上げることができるからだ。だが、職人芸を身につけた現場人がこれを「おかしいのでは?」と思わないのであれば、そこには象徴暴力のにおいがする。
いくら技能が向上しても、対価はおろか評価すらされないのであれば、個人的満足の追求以外のモチベーションがなくなってしまうではないか。「やりがい搾取」まっしぐらである。
現場人はこのように「現場で技能を向上させてもムダですよ」と言われ、しかもことある毎に「知識不足」を指摘され続け、自己研鑚を求められ続けた結果、時には自腹を切って資格取得や研修に「追い立てられる」。アカデミアやその近辺から発信される標準化された知を、現場人は対価を払って受け取りなさい。でもアカデミアでは教授できない、現場で習得される「状況に埋め込まれた」知には市場価値は与えません。だから対価を期待してはなりません。
そういうドグマを飲み込まされているのだ。
さて。
このような「何をもって専門性とするか」に関しては、ぜひ紹介したい名言がある。私が数年前、某オエライさんから頂戴したありがたーいお言葉だ。
ケースワーク能力が高いだけでしょ?
福祉関係者の皆さん。意味がわかるだろうか?
私は当初、ほめられたのか、けなされたのか、わからなかった。同僚に相談すると「ひばりさん、それ、けなされてるんですよっ!」と解説してくれたのだった。「ケースワーク能力が高い」というのは現場人にとって最高のほめ言葉の一つだと思っていたので、「だけ」という限定詞をつけることによって、まさかそれがけなし言葉になるとは想像もしなかった。これは私のドクサであり、私もいつしかそれを飲み込んでいたわけだが、ブルデュー流にいえば、それが現場という「界」に属する者のあり方なのだ。
とはいえ、ここにも「職人芸を専門性と認めてはならない」と同様の論理を見透かすことができる。
「お前はケースワーク能力が高いだけだ」
「他にも必要とされる能力がいろいろあり、ケースワーク能力はその一つにすぎない」
「それがわかっている自分こそ、お前の能力を価値づける優位者なのだ。それを忘れるな」
つまり両方とも、恣意的な「全体像」――「人々への平等なサービス提供」「他にも必要とされる能力がある」――を描出することによって、現場の文脈の外から現場人の技能の価値評価を押し付ける象徴暴力の一種といえるのだが、そういう議論は社会福祉界では見られないようだ。
各々其ノ所ヲ得
というわけで、そろそろ本稿のタイトルの意味へ。これは文化人類学の古典中の古典の1冊『菊と刀 日本文化の型』第3章のタイトルで「各人が自分にふさわしい位置を占める」という意味である。
『菊と刀』は第二次世界大戦中に米国の情報機関から依頼を受けた文化人類学者ルース・ベネディクトが著した日本文化の研究書だ。
戦争に勝つために、日本人がどんな国民であるかを研究する。「彼らの政府が国民から何を当てにすることができるか」(p.9)を知る。「日本は恥の文化、欧米は罪の文化」(第10章)という表現をご存知の方も多いだろう。
(なお、私の手元にあるのは古い現代教養文庫版なので、引用頁数もそれにのっとっています。)
この第3章のタイトルは、日独伊三国同盟の前文、同条約調印時に出された詔書、真珠湾攻撃後の声明書のそれぞれに共通して用いられた表現
「万邦ヲシテ各其ノ所ヲ得シメ」
から引かれている。いずれも「日本は世界平和を望んでいるのだ、あらゆる国がそれぞれにふさわしい地位にあることが秩序である」という趣旨で用いられている。ルース・ベネディクトはこれを「各人が自分にふさわしい位置を占める」という日本の階層秩序を端的に表している表現と捉えたのだった。
日本の社会福祉界において押しつけられているドグマの一つが、この階層秩序なのではないか。
「どこの馬の骨かわからないNPO」とは、「地域」という文脈のなかで「余所者」とされる存在を階層序列の下位に置く認識をあらわしている。
「職人芸は専門性ではない」は、福祉界における「専門性」が何であるかを決めるのは現場人たち自身ではなく人材育成を営む階層、すなわち教育/アカデミアに属する者であり、現場で働く者の技能の価値を一方的に評価できる点で階層序列で上位にあるのだ、という認識をあらわしている。
「ケースワーク能力が高いだけでしょ?」も同様に、階層序列で上位にある者は恣意的に一方的に、現場で働く者の技能を評価できるのだという認識をあらわしている。
実に日本の社会福祉界は、ルース・ベネディクトが指摘する日本文化、「たえず階層制度を顧慮しながら、その世界を秩序づけてゆく」文化のパターンを踏襲し続けているようだが、その自覚は希薄なようだ。
これにより、私たち福祉界の人間はみな引き裂かれ続けることになる。
おそらくルース・ベネディクトの影響を受けていたであろう機能主義ソーシャルワーク研究者、ハーバート・H・アプテカーは、こう述べている。
引用書は、社会福祉界で広く知られるフェリックス.P.バイステック『ケースワークの原則』(邦訳1965:尾崎新ほか訳,誠信書房, 原著1957)とほぼ同時代で、いずれも「自己決定」を「原理」「原則」と最重要視している。
だがアプテカーは引用のように、「自己決定」は「自助」に由来するものであり、「独立的」であるアメリカ文化に深く根ざしているという。
そうであるなら、日本でいわれる「自己決定」「自助」は、アメリカ文化とは異なり、日本文化の「階層秩序」に深く根ざしていることになりはしないか。
さらに。
ルース・ベネディクトはアメリカ人として、「アメリカ建国以来、終始変わらぬアメリカ人の態度」はこういうものだとした。
アメリカ人としての我田引水はカッコに入れるとしても、もし彼女の言うように「自己決定」はおろか「基本的人権」さえアメリカ文化に根ざし、それが階層制度と対立するものであるなら。
「たえず階層制度を顧慮しながら、その世界を秩序づけてゆく」日本文化のなかの「自己決定」や「基本的人権」は、現状どのようなものであり、今後はどのような方向を目指すべきなのか。
現状については微細な事例から述べてきたが、概して福祉的な理念は階層秩序のなかに埋没し、「ふさわしい位置」のコンフィギュレーションのなかで「ふさわしい位置にある者」がより下位の者の「境遇を改善する権利」を有するような事態になっていると思われる。
(余談になるが、メディアやネットで「炎上」するさまざまな差別の問題もまた、こうした階層秩序のなかで捉え直すことができる。差別する側は「各々其ノ所ヲ得」の階層秩序を守れと言っており、それに反対する側は「問題は階層秩序ではなく人権なのだ」と言っているので、おそらく話は噛み合わない)
では今後はどのような方向を目指すべきか。
アメリカ的な「今日の世界において組織的な形で実現されている基本的人権の根底」を日本国内にも定着させるために、前近代から続く階層秩序の文化を、上は天皇制から徹底的に放棄するのか。
あるいは開き直って「各々其ノ所ヲ得」を「ソーシャルワーク専門職のグローバル定義」における「地域・民族固有の知」と位置づけるのか。そうして今後も階層秩序のもとで、お互いに階層構造を承認しあい、「ふさわしい位置にある者」が別の誰かの「境遇を改善する権利」を有するという暗黙の了解のもと、最下位に位置づけられる利用者をも象徴暴力に絡めとり続けながら、それでもベターな生につなげる努力をし続けるのか。
いずれにせよ、社会福祉界の権力関係が覆い隠され、こうした問いすら用意されていないのが最大の問題なのだ。だが階層秩序のもとでは「自分たちの特権の範囲を越えると必ず罰せられる」のだから「どこの馬の骨かわからないNPO」の職員である私がこういう疑問を抱くのもまた、処罰の対象となるのだろう。
さ、どうしましょうね?
とりあえず、よくわからん「処罰」からは、とっとと逃げろ!ですかね~?
(おしまい)