連載小説「超獣ギガ(仮)」#15
第十五話「星屑」
「お待たせ」
ようやく開いたドアから、花岡しゅりが笑顔を見せた。口角を上げ、にっこりと笑みを浮かべているが、しかし、それは作り笑顔だった。いつものように、光を伴う彼女の姿ではなかった。背に影を背負っているように重々しい雰囲気を連れてさえいた。
しかし、顔色は悪くなかった。頬はかすかに赤みを帯びてもいた。梳かしていないらしい、どころではなく、数日はろくに風呂にも入らず、洗いもせずにベッドに閉じていたのであろう、もつれたままの髪。病後のようにやつれていた。
「ほんまに待たせるやんか」
一時間は待っただろう。しかし、待たされていた鳥谷りなも笑顔だった。友が今日も元気でいてくれた。臭くても汚くてもかまへん。しゅりの姿を見るだけで、どうにもよろこぶ自分をよく知っていた。
「そやけど、待たせたわりに、あんた、酷い身なりやな」
部隊から支給された、トレーニングウェアの上下。アディダスでもナイキでもない、謎のメーカーの黒のジャージ。隠密とは言え、支給品のわりにはチームのマークもない。せめてもの、左胸に「花岡」の刺繍がなされていた。そして、寒空に裸足。サンダルと呼ぶにも気恥ずかしい、ホームセンターで九八〇円のクロックスもどき。白く細い足首。
「まあええか。ごはん行くだけやしな」
りなはしゅりを抱き寄せた。背骨に触れる。そもそも細いのに、さらに痩せた背中。かすかに汗のにおい。
「ごめんごめん。ずいぶん疲れてたみたい」
抱きすくめられながら、しゅりは下手な言い訳を続けた。初めての戦闘だったし、や、実戦で能力使い続けるってこんなに疲れるんだね、そんなふうに。りなは気づいていた。しゅりはその目を真っ赤に腫らしていた。きっと、思い出していたのだろう。りなはしゅりの出生に隠された秘密について知っている。文月に聞かされていたのだ。
「ええねんええねん」
元気でおってくれるんやったら。さあ、はよ、ごはん行こや。りなはしゅりの手を取る。握り返された力。体の中に残された体力。伝わってくる、確かな温もり。
「料理長にあんたのぶんも用意してもろてるんや。みんな、心配してるで」
二人は隊舎の硬い階段を静かに降りて、外へ出る。それから、新年を迎えようと慌てる街を歩き始めた。
せめて、髪くらい結っておいで、と、りなにたしなめられて、しゅりは、頭頂の小さなお団子を揺らして進む。戦闘時とは程遠い、弛緩した動作で、首を左右に、ぐにゃぐにゃと体をねじらせて、手ぶらの両手を振り回していた。
「あんた、ちゃんと歩きなさいな」
背中から届くりなの声。
「寝起きなんや、ほっといてーな」
りなを真似るしゅり。
「ほら、前を見とかんと危ないで」
二人を軽トラックが通り過ぎた。スチロールのボックスを積み込んでいた。商店街へ差し掛かる。隊舎と冥府の基地の敷地内へ繋がる、商店街。
町の風景は変わらず、いつもより買い物客が増えているようだった。間もなくの新年を迎えよう、祝おうとする人々の姿に、二人は安堵した。思わず微笑む。足取りも軽くなる。臨海線の黄色い三両編成が駅へ向かって速度を緩めていた。豆腐屋はラッパを鳴らして、今日は絹と揚げが安いよ、と、道ゆく人に声をかけた。魚屋の前を通りがかるころ、店頭の七輪で煙をあげているししゃもの匂いにしゅりが足を止めて、りなが笑った。
ほらほら、早く、お腹空いてるやろ、と、呼びかけた。しかし、りなはりなで、テイクアウト専門のたこ焼き屋の行列に連結しようかと迷い始めて、二人はやはり笑った。
二階の窓から乗り出した誰かの弾くアコースティックギターに合わせて、通りがかりの高校生が手拍子で応えた。お昼を待たず、寒空の下、缶ビールを開けて、おでんをつつき始めたのは、白髪の目立つ中年の夫婦。
変わらないということ。変わらずにいてくれた、見慣れた風景。住み慣れた場所。いつもの道。いつもの匂い。もうすぐ、新しい年。いよいよ、この国は記念すべき、昭和の百年目を迎える。
この世界が持つ、あまりに美しく、優しく、のどかで、美味しそうな風景。モンスターや、それが起こす厄災や、もたらす戦争についてなんて、誰も考えてはいなかった。
そのほうが良かった。凪の季節が続いてくれることが、人々の希望だった。
「これ、持って行きなよ」
突然、手渡されたのは、焼き芋だった。エプロン姿の、鉢巻の主人が笑っていた。
思い出す。いつかの、訓練の帰り道。二人で頬張った焼き芋。ふわふわの湯気。ほどける甘い匂い。よみがえる夕焼け空。
「いいの?」
「おっちゃん、おおきにー」
しゅりとりなは、それぞれに焼き芋を握り、基地へと向かう。自分たちが守ることのできた街に、なんでもない、ごく当たり前の一人として。愛する景色に溶け込んで。
僕たちの幸福は誰かによって守られなければならない。思い出す、文月の横顔。しゅりが空を見上げると、また、雪が降りそうだった。二人は顔を合わせて微笑む。芋を頬張る。その真上を、鳥が西北西へと駆けてゆく。
「雪……?」
突然、開いた視界には、急遽の雲が押し寄せて、冬空を埋め尽くしていた。その様子は、暗雲がふくらみ続けているように、見ようとせずとも見えてしまった。
雪平ユキの細い鼻梁の横顔をちらりと一瞥して、小日向五郎が続いた。
「天気予報、どうだっけな」
吐く息は白く、外気に溶けて、消えた。
隣の大男も同じように、差し伸ばした手のひらに雪を受けていた。空から降りてきたそれが瞬間に溶けて水滴に変わる。平静を装ってはいる。しかし、眼前の風景は、自衛隊にはなかった。言うなれば、それは、SF映画の世界だった。子供のころ、誰もいないリビングで深夜に観た、アメリカやヨーロッパの映画に出てきた、宇宙基地のようだった。
確か、ここは旧明治神宮野球場。その跡地だったはずだ。ずいぶん古いスタジアムだった。一九二六年、昭和元年に建設された、国内で二番目に古い屋外球場だった。二十五年前に改修されて、開閉式のドーム球場になったが、なぜか、ホームチームのスワローズは早々と移転して去った。
「あれがバックスクリーンだとしたら」
雪平が指差す。約百二十メートル先、垂直の壁が立ち上がって、古びて、役割を終え、消灯したスコアビジョンの前に骨組みが組まれていた。
「私たちがいるのは」
「このあたりがホームベースだろうな」
文月は、すでにコンクリートに舗装された足下を踵に捻った。土はない。もちろん、白いホームベースもなかった。
文月や小日向ら、四人が立つのは、かつての明治神宮野球場だった。四人が抜けてきたトンネルのような空洞は、ゆるやかな傾斜を描いて、バックネットからホームベース付近で地上になり、その先は左手に見続けたレールが高さ約四十五メートルのバックスクリーン上にまで、一気に坂道を形成していた。屋根は四分の一が開かれていた。ホールケーキを四等分して、その一ピースが欠けた状態に似ている。現実感を失いかける光景を、いつも手の届かなった、それでも、時に見上げては弱音すらこぼした、あの見慣れた空が、繋いでくれてもいた。
「ああ。そうか」
蓬莱ハルコは、明治神宮球場跡地についての説明を聞いたことがあった。機密事項の一つとして、内閣府と自衛隊、それから、その時点では名前は知らされていなかったが、ある、治安維持機関が保持しているのだと、概要だけを聞かされ、それについての資料は、ほとんどが極秘とされているだけだった。
「そろそろ聞かせてくれるんだろう」
なあ、文月。その小日向の声に誘われて、雪平が、ハルコが、文月に注視する。いつもによく似たジャケットとパンツ。サンドカーキのストール。溶けた雪が一粒、短い前髪から落つる。
目を凝らす。文月が睨むその先は、バックスクリーン上にまで続くレール。その先は薄ぼんやりした空に溶けて見えない。
見上げる遥か高みを、鳥たちが横切った。地上を這う人々は、脆い。人は飛ぶことを選択せずに進化した。あの、花岡しゅりでさえ、跳躍しているに過ぎない。翼を持っているわけではないのだ。
「君たちも歩いて気づいたと思う」
文月が話し始めた。
「ほとんど直線の地下を六キロ。そして、地上に上がってきた。いま、見ればわかるだろう?」
指差す空。バックスクリーンの上、レールの先。
「電磁砲、つまり、レールガンだ。冥匣に捕縛した、超獣ギガは、これをカタパルトに、ここまでのトンネルを砲身として、宇宙空間へ発射され、月の裏側、奈落地区へ運ばれることになる」
それが、僕たち、ケルベロスの任務だ。
「星屑。次は、8号だよね?」
そっか。あれは宇宙開発じゃなかったのか。ハルコはため息すら混じらせて、この世界の真理を、謎を聞かされていなかったことを知る。
「星屑って。他の惑星に移住でもする計画なのかと思ってたわよ」
もはや、小さな頃に見た映画作品に参加してしまった自らを笑うしかなかった。よりによって、元の夫がその任務を遂行する部隊の隊長だなんて。笑うしかない。ハルコの見つめるその先には、レールガンの先端へ視線を送る、文月玄也が腕を組んでいた。
季節は冬。
再び、あの日のように、雪が始まっていた。
つづく。
artwork and words by billy.
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