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【短編小説】なつむし

 棚田を断ち切るようになだらかに上る一本の坂道を、一人の老婆が登っていく。丸まった背中が乳母車を押しながら、山の端に隠れそうになった夕日の最後の光に紅に染まり、ゆっくりゆっくりと登っていく。

 道の両側からはカエルたちの合唱がにぎやかに響き、老婆の体を包みこんでいる。

 そういえば、あの時もこんな音に包まれていた・・・。


 昭和20年5月初頭。
 裏山でしきりに鳴くホトトギスの声を聴きながら、菊枝は井戸端でノビルやアマドコロの根を洗っていた。配給米では父母と幼い兄弟を養うにはとても足りず、こうして裏山の草むらで食べられる野草を採ってきては、貧弱な食卓を賑わすのが菊枝の仕事だった。
 
 突然鳴き止んだホトトギスに、人の近づく気配を感じて振り返った菊枝が見たのは、いかめしい詰襟姿の軍装とは不釣り合いな、あどけない笑顔だった。

「健、ちゃん・・?」
 
 笑顔から一瞬で引き締まった顔に戻った逆光の中の影は、海軍式の敬礼をした。

 「正木健一郎、ただいま帰りました。」
 「健ちゃん!」
 「一時帰宅やけどな。休暇をもろたんや。」

 立ち上がった菊枝の顔を覗くような健一郎の笑顔には、あどけなさの中に、少年航空兵として鍛えられた2年間の厳しさが感じられた。


 幼馴染の二人は、初夏の遅い夕暮れの棚田に続く道を、何も語ることなく、ただ歩いた。でも菊枝には、健一郎が何も語らないことが、いよいよ特攻隊として戦地へ赴くのだということの証のように思えた。

 「いつ、行くん?」

 「明後日、九州の基地へ転進や。
  今沖縄は大変なことになっとる。
  俺は優秀やけん、選ばれての出撃や!」

 「こんな時、大人だったら、笑顔で
  『ご武運をお祈りいたします』
  とか言うんやろ?・・・
  でも私はよう言わん。
  逃げてでも生きて帰ってきてほしい。
  まだ17やんか、まだまだ子供やんか! 
  なんでお国のために子供が命を捧げなあかんの?
  そんなのめちゃくちゃや!
  こんな戦争を始めた偉い人が行けばいいんや!」

 「声が大きいて!菊ちゃん!・・・
  俺はな、国のために行くんやない。
  俺のおかんやおばあちゃんや、
  菊ちゃんを守るために行くんや。
  大事な人を守るために行くんや。」

 「じゃあ、必ず戻ってきて!
  死んでしもたら誰も守られへんやん。
  死ぬときは一緒や!約束して!」

 「うん、わかった。きっと戻って来るわ!」

 「指切り!」

 思えば、菊枝と健一郎が意識して手を触れあったのは、この日が初めてだった。
 遠くでサンショウクイがヒリリ、ヒリリと鳴きながら飛び去って行った。

 
 健一郎が菊水六号作戦で沖縄沖の米軍空母エンタープライズに突っ込んだのは、5月13日のことだった。

 6月23日の宵、菊枝の元に健一郎の白木の箱が届いた。
箱の中には一束の遺髪しかなかった。

 と、そこに一匹のゲンジボタルが止まっていることに気付いた。
 そしてふわりと光りながら、菊枝の掌の上に止まった。

「・・・約束通り、戻ってきてくれたんやな。健ちゃん。」

 その言葉を聞くと、ひときわ強く光ったホタルは、ふわりと舞い上がり、菊枝の周りを飛び回りながら、里を見下ろす棚田の頂上にある墓地に向かって行った。


 あれから74年。棚田の中の坂道を登り切った菊枝は、健一郎が眠る墓石の前で膝まずいた。

「健ちゃんが守ってくれたおかげで、
 こんな婆になるまで生きてしもうたわ。
 でももう充分や。おおきにな、健ちゃん。
 約束したのになあ、遅うなってごめんな。」

 菊枝は墓石にもたれるように静かに息絶えた。
 その姿は夕闇に溶け込むように消え、そこに一匹のホタルが光っていた。
 しばらく墓石に止まって光っていたが、ふわりと夕空に向かって舞い上がって行った。

 

作:増田達彦(水澄げんごろう)
初出「名古屋市水辺研究会会報」2019年5月 

※この作品はフィクションであり、写真を含めてこの作品の著作権は、作者と、作者の所属する「中日本制作所」birdfilm(商標登録)にあります。



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