昭和少年らっぽやん 第九話【秋茜(アキアカネ)】
日本の一部地域では、子どもたちの間でトンボとりの名人のことを「らっぽやん」と呼ぶ。
* * *
昭和32年10月のよく晴れた日曜日の朝、後ろにミノルを乗せたタケシのスクーターが、土埃を上げながら駆けていく。
名古屋市街の住宅地を抜けると、香流川の両脇には、朝日に輝く黄金色の稲穂をたわわに実らせた田んぼが現れた。
あぜ道では、麦わら帽子のおじいさんが、タケシを見つけて手を振っている。
「おう、柴田のじいちゃんが、もう田んぼに来とるぞ!」
去年の夏、田の草取りの時、嫌がらせを受けてケガをした柴田のじいちゃんをミノルとタケシが助けて以来、たまに遊びに来ては、農繁期に田んぼの手伝いをするようになった。
この日曜日は稲刈をするというので、その手伝いにやってきたのだが、柴田のじいちゃんの田んぼでの稲刈りはこれが初めてだった。
川沿いの草地にスクーターを停めると、ミノルとタケシはいつものようにシャツを腕まくりし、地下足袋を履いた。
「さすがタケシ、仕度が早いなあ!」
「そりゃオレは職人だでね。じいちゃんおはよう!」
「おお、タケシ君にミノル君、いつもありがとうなあ!」
柴田のじいちゃんは麦わら帽子のツバを持ち上げながら、皺だらけの顔をくしゃくしゃにした笑顔で迎えてくれた。
「じいちゃん、よう実っとるなぁ! お、稲穂の上をらっぽがようけ(たくさん)飛んどる!顔まで真赤だがや!」
「ありゃあ、ナツアカネじゃ。ほれ、オスとメスが繋がって
田んぼの上から卵を産み落としとる。」
「おお!ホントだ!空中で卵を産んどる!すげえなあ。」
「打空産卵だな!空中から田んぼの中に卵を落とす。来年春になって田んぼに水が入ると、卵が孵化してヤゴになる。」
ようやく身支度を整えたミノルが横に来て付け加えた。
「さすが、ミノル君はよう知っとるな。」
「だけどじいちゃん、今、ナツアカネが卵を産んどるのは、隣のでかい田んぼで、じいちゃんの田んぼじゃないがね。」
「今はなあ、圃場整備といって、トラクターが入れるように、田んぼを大きくして、冬になると完全に田んぼを乾かすようになったんじゃ。ナツアカネの卵はそういう乾いた田んぼでも冬を越せるから、それを知ってて産んどるのかもなあ。」
「ふーん、そおかあ。」
「よし、秋の昼間は短いから、早速稲刈りやろまい!」
ミノルの言葉をきっかけに、三人は柴田のじいちゃんの田んぼに入った。とたんにタケシが素っ頓狂な声を上げた。
「ひえ~、ずぶずぶだがね!」
「うひゃひゃ、設楽出身のタケシ君でも足を取られるか。」
「ホントだ!じいちゃん、こんなにずぶずぶで稲刈りしても大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫!忍者になったつもりで刈るんじゃ。」
昔ながらのくねくねした畦道に囲まれ、こじんまりとした柴田のじいちゃんの田んぼには、まだ土に水分がしっかり残っていた。
泥田に足をとられながらも、生まれつき運動神経のいいタケシは、柴田のじいちゃんに負けないくらいのスピードで、上手に鎌を使い、次々と稲を刈っていく。
稲刈り経験のないミノルは、刈り取られて畔に投げられた稲の束の根元を縛り、隣の乾いた田んぼに建てられた稲架に掛けて干していく。
一つの田んぼが刈り取られたころ、川の向こう岸から突然声がした。
「おじいちゃーん、お昼もってきたよー!」
「おおー!茜、ありがとうなー!」
声の主は孫の高校生の茜だった。皿ごと包んだ風呂敷包みと薬缶を両手に下げ、小走りに駆けてくる。三つ編みのおさげ髪が初々しい。
風呂敷を開くと、皿に山盛りの握り飯と卵焼き、たくあんが顔を出した。早速、三人と茜が畔に座り昼休みになった。
「いただきまーす!」
「んまい!」
「ほんとだ!こんなうまいおにぎりは初めてだ!」
「おじいちゃんの作ったお米は日本一です!」
「うん、それに塩加減もいい塩梅!茜ちゃんが握ったの?」
「ハイ!」
輝くような笑顔でうなづく茜を、ミノルもタケシも眩しそうに見て微笑んだ。
卵焼きをつまもうと皿に手を伸ばしたタケシが叫んだ。
「イテテテ!あ、あ、足がつった~!」
「田んぼが泥田だもんで、すまんこったなあ・・・。」
申し訳なさそうにいう柴田のじいちゃんに、ミノルがタケシのふくらはぎを伸ばしながら聞いた。
「じいちゃんはどうして田んぼを乾かさないんですか?」
「ほれ、あの、稲を刈った後の水たまりを見てみい。」
「イタタ、あ、水たまりに赤トンボが産卵しとる!」
「そうか、あれはアキアカネか!アキアカネは水に尻尾を付けて産む打水産卵するから、田んぼに水を残してるのか!」
笑顔でアキアカネを眺める柴田のじいちゃんに代わって、茜がトンボたちを慈しむように話した。
「アキアカネはちょっとでも水が無いと産卵できないんです。それで、周りの田んぼが機械化のために乾田化しても、うちのおじいちゃんだけは、田んぼに年中水を残しているんです。そうすればドジョウもメダカもタガメも、この田んぼで冬越し出来るし。」
「そうか、じいちゃんは、アキアカネや田んぼの生きものたちのために、わざわざ水を残していたのか・・・。」
「イテテテ、オレの名誉の負傷も、生きものたちのためだったんだなあ!」
「ハハハ、タケシ君にはすまん事したなあ。」
「いやいや、何のこれしき!」
柴田のじいちゃんは、薬缶から欠けた湯のみにお茶をそそぎ、ゆっくりと飲みながら独り言のようにつぶやいた。
「イネはなあ、人間が作るんじゃのうて、
自然が作ってくれるんじゃ。
土と、水と、お日さんと、
土の中のたくさんの菌やらバクテリアやらが、
育ててくれるんじゃ。
オタマジャクシやドジョウやフナが泳いでくれるから、
草が生えんように泥をかき混ぜてくれる。
トンボはイネの汁を吸うウンカを捕まえて食べてくれる。
ほれ、あんたらあが食べとるこの米は、
こうしたトンボや生きものたちが作ってくれたんじゃ。
ワシは、その、ほんの手助けしとるだけだで。
人間は、人間だけじゃあ生きてはゆけん。
自然と生きものに、生かされとるんじゃ・・・」
「そういわれると、その通りじゃのう!」
「だからじいちゃんは、大事なお孫さんに、
茜という名前をつけたのかな。」
「ほうじゃ!一番大事でかわいい孫だからの!」
茜は頬を真っ赤にして照れた。
そんな茜を見て、タケシが言った。
「茜ちゃんもおじいちゃんが好き?」
「うん。」
「赤トンボも好き?」
「うん、大好き!」
「よし、見とれ。」
タケシは人差し指を立てた。
そして歌うように言った。
「茜ちゃんを好きな子、この指とーまれ!」
あっという間に一匹のオスのアキアカネが、タケシの指に停まった。
「すごい!」
「早かったなあ!このアキアカネ、よっぽど茜ちゃんのこと、大好きなんだな。まるでタケシみたいだな!」
「おいおい!」
爽やかな秋空の下に、4人の笑い声が響いた。
お読みいただき、ありがとうございました。
文責:birdfilm 増田達彦