昭和少年らっぽやん 第五話 「冬のとんぼ」
日本の一部地域では、子どもたちの間でトンボとりの名人のことを「らっぽやん」と呼ぶ。
* * *
昭和29年1月の名古屋は、前年程ではなかったが、雪が多く寒い冬だった。
家政婦をしながら女手一つで、ミノルを高校へ通わせてくれていた母が倒れたのは前の年の暮。
結核だった。
四日市の病院に勤めていた叔父の計らいで、母は結核専門病棟へ入れてもらえることになった。
ミノルの叔父さんは、感染の心配も配慮して、正月が明けたらミノルは名古屋の実家に残り、アルバイトを続けながら高校へ通うよう勧められた。
大みそかから正月三が日は、病棟の母の側で看病していたミノルだったが、1月3日の夕方、名古屋の実家に帰ることにした。
元々はふっくらとしていたはずの母の頬が、随分ほっそりと変わってしまっている。そんな母を見ていられず、ミノルは病室の窓から、鈴鹿山脈に沈む夕日をまぶしそうに見た。
「ミノル、ごめんね。
あんたにばっか苦労させてまって・・・。」
「オレのことは大丈夫だに。
向かいの中島さんのおばちゃんが、いつも煮物やコロッケ
をくれるし、
隣の森田のおばちゃんも面倒見てくれるから。
母ちゃんは安心して病気直してや!」
ミノルは精一杯の笑顔で母の方を振り向いた。
「そろそろ行くわ。汽車に乗り遅れると、
今日のうちに帰れんくなってまうで。」
笑顔を張り付けたまま、病室のドアを後ろ手で閉めると、
急に胸の中から何かが溢れ出しそうになった。
病室の外で待っていた叔父さんが、病院の車で国鉄の駅まで送ってくれた。
「ちょっと前までは、〝結核は不治の病〟と言われていたん
やけど、今はなあ、ストレプトマイシンという特効薬がで
きて、軽症の内ならよー効くんや。
ミノルのお母さんも病気が早く見つかったで大丈夫や。
安心し。」
ミノルは、しかし知っていた。特効薬といっても完全ではないことを。患者の体力や免疫力、結核の進行具合によっては、重篤化を止めることができないことも。
その不安は、名古屋へ向かう汽車の窓から見える暗い冬の空のように、ミノルの心に染みついていた。
名古屋に戻ってしばらくした日曜日、朝刊の配達を終えて一眠りしていたミノルを、知らぬ間に家に上がり込んだ親友のペンキ職人、タケシが蹴とばすように叩き起こした。
「よお、いつまで寝とるんじゃ!
せっかくの日曜日だらあ、遊びに行こまい!」
タケシは冬のボーナスで買ったという、ちょっと小粋な中古のスクーターにまたがると、後ろにミノルを乗せて、砂利道を東へ向かった。
身を切るほど冷たい風の中を30分ほど走ると、南向きの谷戸の田んぼに、スクーターを停めた。
「タケシ、こんなところで何するんだ?」
「オレらがやることと言ったら、
らっぽ探しに決まっとるだらあ。」
「らっぽぉ? こんな真冬におるんか?」
「へへへ、この日当たりのいい土手の枯れ草の中をじっくり
探すんや!よーく探さんと見つかれへんぞ。」
真冬にトンボがいる?
タケシは自信ありげだが、ミノルの目には、ただの枯れ草が生えているだけで、トンボがそこにいるなどとは、まったく思えない。
20分ほどたっただろうか。土手に沿って目を皿のようにして探していたミノルの目が、一本の枯れ草に妙な違和感を感じた。それは、枯れ草そっくりの茶色いイトトンボだった。
「おった!おったぞタケシ!」
「らっぽやーん! おっ!こいつはすごい!
『ホソミオツネントンボ』じゃん!」
「真冬でもこうして、ちゃんと生きとるんだなあ・・・。」
「ああ、雪に埋もれても羽根が凍っても、こいつは死なん。
ほんで、春になったら真っ青に色が変わって飛びまわる。
お前の母ちゃんも、
春になったら元気になって帰ってくる!」
「タケシ!」
「だから今はそっとしておいて、
春、きれいな青いトンボになったら、
一緒に見に来ようや!」
4月上旬、二人は再び谷戸を訪れた。
水が引かれた田んぼの片隅で、鮮やかな青いイトトンボが何匹も舞っている。
他にはない、その独特の「青」の美しさに、ミノルは心を打たれた。それは、いのちが輝く色、そのものだった。
ミノルの母が、少しだけ元のふっくらした顔に戻って無事退院したのは、その一週間後だった。
第6話につづく
作:birdfilm 増田達彦 (2024年改作)